キングス
秋良祐(あきらたすく)
Ⅰ 同族殺しの魔女篇:A Blood Witch Silent Scream
プロローグ1「百年前」
彼女の彼との記憶ー忘却ー
彼女は幸せだった。
毎日同じような生活を送っているだけだと言う人もいるだろうが、彼女は彼と一緒にいるだけで幸せだった。そう感じた相手は彼が初めてだった。
出会いは良いものとは言えなかった。
なぜなら彼女にとって彼は捕食対象だったのだから––––
彼女は夜道を一人で歩いている人間を無差別に捕食していた。彼もその一人だった。しかし彼に襲いかかろうとした瞬間、恋に落ちた。
一目惚れというやつだった。
彼女は慌てて鋭い犬歯を引っ込めて、彼を拘束しようと広げた腕を胸のうちにしまうと乙女のようにしおらしくなった。
彼はそんな彼女を見て笑った。
巷では首筋に小さな二つの傷が共通点の、吸血鬼にでも襲われたかのような死体が発見される事件が多発していた。そんなときに大口を開けて襲いかかろうとした彼女が事件を起こした張本人であることはすぐにわかった。
にも関わらず彼は怯えることも逃げることもしなかった。
むしろすっかり恋する乙女の目となった彼女の頭を撫でて「僕の血をあげるから村の人には手を出さないでくれ」と優しく言った。
それから羊飼いである彼と一緒に住むようになり、彼の手伝いを始めた。
約束通り彼の血を貰った。
直接噛み付いて血を吸うと自分の意思とは関係なく血を吸い尽くして殺してしまうので、コップに注がれた少量の血を間接的に飲んだ。
満腹になることはなかったが、彼女は満足だった。
彼女は幸せだった。
家が狭くても、裕福でなくても、牧場と羊しかなくても、彼の笑顔を見ているだけで、彼と話しているだけで嫌なことは無くなって胸の内が暖かくなった。
□
吸血鬼に血を吸われた者の中で吸血鬼として蘇る者がいた。
血を吸われた者は血を吸った吸血鬼の眷属として一生仕える血の絆を結ぶ。
彼女は時々、彼を吸血鬼にして一生一緒に過ごせないかと考えた。しかし今までの捕食対象のように死んでしまう確率の方が高いことを理解していた。
彼女は悩んだ。
いつまでも一緒にいる方法はないかと––––
悩みを抱える彼女の様子がおかしいことに気づいた彼は彼女に事情を訊いた。
彼女は素直に打ち明けた。
話を聞いた彼は笑った。
「僕は人間として君を好きになった。だから人間のまま死にたい」
その言葉を聞いたあと彼女は彼を吸血鬼にするより自分が人間になって一緒に歳を取り、一緒に死にたいと望むようになった。しかし吸血鬼が人間になるなんて話は聞いたことがない。
人間になれなくても彼の死と合わせて一緒に死ねないかと考えたが、不老不死の自分をどう傷つけても死ねなかった。
死ぬ方法を知る同族はどこかにいるかもしれないが、彼と生活するようになってから家族のもとにも仲間のもとにも顔を出していない。
人間と一緒にいることを知られれば
それでも彼女は幸せだった。
叶わぬ夢を抱き続けることになったとしても彼と一緒にいられる日々に感謝し、いずれ訪れる別れの日を迎え、楽しかった日々が過去となっても彼を愛し続けることに変わりはないと確信していたのだから。
□
悲劇は突如として起こった。
夕暮れ時、川まで水を汲みに行った帰り道。
家の方角から黒煙が上っているのが木立の間から見えた。
嫌な予感がした彼女は駆け足で家へ向かった。
二人が一緒に暮らしていた家は彼女が汲んだ水の量ではどうにもできないくらいの大火に包まれていた。
彼女は叫んだ。
精一杯、彼の名を呼んだ。
彼が無事にどこかへ逃げているのを信じて。
そしてこの声を聞いて自分のもとへ駆けつけてくれるのを願って––––
彼は現れなかった。
周囲を火に囲まれ身動きが取れないまま命の灯が消えていく彼の姿が脳裏に浮かび、彼女の瞳から大粒の涙が溢れた。その涙は業火の熱によりすぐに乾いていく。
「どうしよう」と悩む彼女は自分が吸血鬼であることを忘れていた。彼女の嫌な想像が本当に起きているのならば、燃え盛る家の中から彼をすぐさま助けなくてはならない。そしてそれができるのは不死である彼女だけだが、彼との暮らしが彼女の心を人間にしてしまっていた。
火中に飛び込むことへの躊躇いから吸血鬼としての自覚を取り戻した彼女は燃え盛る炎の中へ飛び込んだ。
壁に飾ったお気に入りの絵や一緒に食事をしていたテーブル、毎日他愛のない会話をしながら座っていたロッキングチェア。花瓶や鍋、ベッド等のすべてが燃えていた。すべてに彼との思い出があった。
彼は家の中心あたりに仰向けで倒れていた。
急いで駆けより彼の名を呼んだ。
彼は薄く目を開き、弱々しくだが微笑んだ。
「泣かないで」
そう一言告げて彼は死んだ。
彼女がいくら声をかけても、声を荒げても、声を枯らしても、彼が返事をすることは二度となかった。
彼を抱きかかえようと背に回した掌に違和感があった。よく見ると彼女の掌には彼の血がべっとり付着していた。
彼の背には深い傷があった。
斧で切られたかのような––––
故意に付けられた傷が。
その瞬間、彼の死が火事による事故ではないことを悟った。
彼女は泣き叫んだ。
息絶えた彼を胸に抱きながら燃え朽ちた屋根の隙間から見える月に向かって叫んだ。
なぜ彼が殺されなければならないのか。
「ハハっ」
彼女の泣き声に笑い声が一つ紛れ込んだ。
彼女は泣くのをやめ、声が聞こえた先に目をやった。
開け放たれた裏口のドアから外を見ると口を歪めた男が立っていた。
その刹那、男が彼を殺したのだと直感した。
彼女は掌から深紅の剣を生成すると瞬時に男に向かって刃を振り下ろした。常人の目では捉え切れない速度である。
しかし男は彼女の攻撃をいとも容易くかわした。
足元を軽く蹴り上げるとそのまま高く宙を舞い、彼女との距離を取り着地した。
その驚異的な身体能力を目の当たりにして男が吸血鬼であると直感した。
憎悪と悲しみ、そして目の前の人物が同族であることへの驚きの表情を浮かべた彼女を見て、男は再度嘲笑すると霧のように姿を消した。
一瞬だけ月明かりに浮かんだ男の赤い瞳と赤い髪、そして厭らしい笑みが彼女の脳裏に焼きついた。
これは遠い過去の記憶––––
彼女がすでに忘れた、幸せが終わるまでの記憶––––
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