水の泡


 シーラのまだ短い人生の中で、今回の出来事は、もっとも後悔するべきこととなった。

 帰りの馬車の中、優しく声をかけてくれたのは母だけで、父は無言・姉は蒼白で涙目だった。

「緊張して逃げ出してしまったのよね? 仕方がないわ」

 母の言葉に、実は……と言えない。

「ごめんなさい」

 と、ひたすら謝るだけだ。

「シュリンがちゃんとしてくれたから、大丈夫だったわよ。お礼をいいなさい」

「……ありがとう。ごめんなさい」

 しゅんとしながら、シーラは姉に素直に謝った。

 だが、シュリンは無言だった。

 ずっと膝を抱えたまま、シーラを見ようともしない。

 それは、そうだ。

 あの場に土壇場になってひとり取り残されたシュリンが、どれほどの重荷を背負っていたのか、幼いシーラには想像もつかなかったのだから。



 妹の姿が見えなくなった時、シュリンは暗闇に一人取り残された気分になった。足元をすくわれ、そこに闇しかない感じ。

 舞台では、まだ先の少年の歌の余韻が残っている。人々の賞賛の声は収まらない。

 この重圧の中、出番ですよと声をかけられ、はっとした。

 泣き出し、逃げ出したくもなったが、そうはいかない。

 デルフューン家の娘として、立派につとめを果たさねばならない。そのために、シュリンは教育されてきたのだから。

 愚かな妹をののしって、腹を立てても仕方がない。

 妹は、この舞台がどれほど大切なのか、理解していないのだ。まだ子供で、田舎育ちだから。

 シュリンは覚悟を決めた。


 するり……と剣を抜く。

 ウーレン族は、この武器の輝きを見ると、気分が高揚するのだ。

 シュリンも、まさにそうだった。

 軽やかに一歩を踏みだした。


 子供らしからぬ美貌を剣の刃に映して、萎えてしまいそうな自信を支えた。誰もが、私に魅入られる――そう自分に言い聞かせたのだ。

 事実、衣装の華やかさにも助けられ、シュリンは人々を惹き付けた。

 ――剣の舞。

 本来は、剣の打ち合いを踊りにしたものだ。二人で踊って、初めて形になるものだった。

 そこを、シュリンはうまく変更した。

 打ち込んだと思ったら、さっと身を翻し、身を守るほうに回る。身を守ったと思ったら、再び、攻めに転じる。

 持ち前の身のこなしと、度胸で乗り切った。


 シーラが思った通り、シュリンひとりのほうが、舞台に映えた。

 ここに背の低い女の子が加わって、剣に振り回されているような踊りをし、シュリンと息の合わないバラバラな演技をしていたとしたら……。

 剣の舞は、他の情けない出演者と同じ評価で終わっただろう。

 拍手絶賛だった。大きな歓声に包まれていた。あの少年に勝るとも劣らないほどに。

 だが、踊り終わった時、シュリンは、もうろうとしていた。一人二役を踊り切る時には、体力が足りなかったのだ。

 それでも、最後までやり遂げたことで、シュリンはほっとした。

 ――あと、一仕事。

 剣を置いた時は、めまいがした。

 だが、花束を受け取ると、笑顔さえ見えて、皇子にうやうやしく手渡したのだ。


 予定通り。

 が。そこに落とし穴があった。


 シュリンは、弟皇子に花束を渡すことになっていた。そして、シーラが兄皇子に。

 最後の最後で、シュリンは最初に弟に花を渡すという失敗をしたのだ。

 客人の誰もが不思議に思わなかった。

 なぜなら、兄弟とはいえ、二人は双子。しかも、弟はウーレン族らしい容姿。王からの贈り物も、立派な赤馬のほうを贈られている。これは、弟が次期王位継承者であると宣言しているにも等しい贈り物である。

 その事実から、兄よりも先に弟が花を受け取るのは道理だ……と、誰もが思ったのだ。

 だが、シュリンには、すぐにこれが取り返しのつかない失敗だと気がついた。

 ウーレン王が、鋭い目でシュリンを見ていたからである。

 震える手で花を渡した兄皇子のほうは、微笑みを浮かべてはいたものの、緑の瞳は潤み、手は震えていた。


 この瞬間、両親が常々シュリンに語っていた夢――シュリンにとっても大事な夢だった――は、消えた。

 つまり、王族と結ばれることである。

 

 父親のサザムも、絶望していた。

 デルフューン家には、王族の血がない。いくら馬の生産で稼いだところで、所詮は成金貴族である。

 魔族にとって、血筋は命である。

 デルフューン家に王族の血を入れることは、サザムの悲願だった。

 生まれ落ちた時から、シュリンに課した英才教育は、そのためのものだった。

 あわよくば、王族の次男坊か三男坊に見初められ、そのままデルフューン家に婿養子、嫁に出したとしても、嫡子以降の子供を養子として引き取らせてもらえば、デルフューン家は王族の血を持つ貴族となる。

 だが、礼儀と節制を重んじるウーレン族にあって、絶対的な権力を持っている王に睨まれては、良縁に恵まれるはずがない。

 そして、シーラに関しては……。

 彼女が生まれる前から、お膳立てしていたことが、すべて消えた。

「……すべては水の泡だ」

 やっと開いた口から出た言葉が、これだった。

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