あやかしばなし

ざき

石と少女

 戦時中の話である。当時、尋常小学校の二年生だった私は、母の実家である東北の寒村に疎開することになった。

 都内から夜行列車で半日という長旅に、私はすっかり辟易していた。同じ年代の子供と比べ感情表現が豊かでなかった私は、車窓を流れ往く風景に目を輝かせるでもなく、住み慣れた街を離れる悲しみに泣き喚くでもなく、ただただ人形のように座席に載っていた。

 辿り着いたのは古びた駅舎だった。トタン作りの屋根は青く錆付き、廃墟一歩手前の建造物だった。初老の駅員は忘れられた案山子のように突っ立っていた。遅まきながら私は、随分と遠い所に来てしまったのだと実感し、軽い眩暈を覚えた。

 駅舎を出ると、木造の住居が点在する畦道を歩いた。祖父母の家に到着する三十分あまりの間、出会った人間は三人だけだった。その全てが老人だった。後ほど母から、この村には子供と老人しか居ないのだと聞いた。

 道中、妙に思ったのは、象形文字のような紋様が印された旗が幾つも立っていたことだった。二、三町ごとに一本ずつ、辻には四方に立ててあった。母にあの旗は何かと尋ねたが、答えを返してはくれなかった。妙に恐い顔をしていたので、私はそれ以上の追及はしなかった。


 私たちの到着を、祖父母は喜んでいるのか疎んでいるのか分からない反応で出迎えた。彼らにとっては二人分の食い扶持が増えるだけで、単なる負担でしかなかったのだろう。祖父母は形だけでも私に近寄ろうと、薄笑いを浮かべながら手作りの人形を差し出したが、私が無言で戦車や零戦の模型をリュックから取り出して見せると、表情を凍らせてそれを引っ込めた。

 線香と炭の臭いの染み付いた家屋は酷く不衛生なものに思えた。私にとってそれらの臭いは、斎場でしか嗅いだことのないものだったからだ。板の隙間はあまりにも無防備で、もしもそこから見知らぬ何者かの濁った目が覗いていたらと思うと、不快な気分になった。

 ここで暮らさねばならないのかと思うと、酷く気が滅入った。


 家の裏手は山になっており、祖父はよく茸や山菜を採りに行っていた。時折熊や猿が出るというので、山に入る時は猟銃や鉈を携えていた。動物園でしかそれらを見たことのない私には、檻の中でだらだらと暮らしている獣たちのどこが恐ろしいのだろうと不思議に思うだけだった。

 そういった訳なので、私はしばしば山へと足を踏み入れた。抗菌などされていない剥き出しの生命や都会では嗅ぐことの出来ぬ腐葉土の匂いは、無感動な私にも新鮮で興味深い代物だった。

 山には小さな滝があり、その足元には落ち葉に覆われた池があって、そこが私のお気に入りの場所となった。池の辺に鎮座する大きな岩に腰掛け、滝から放たれる細やかな飛沫を浴びる。水面に顔を覗かせる蛙に小石を投げ、慌てふためく様子を眺める。そんなことを何時間もして過ごしていた。

 村の子供とも遊ばず、夕暮れに足を泥塗れにしながら帰って来る私が何処にいたのか、母や祖父母も感づいていたに違いない。しかし、それについて煩く云われることはなかった。


                  *

 

 ある日、私がいつものように大岩に座って木々の匂いを嗅いでいると、不意に枝を踏み締める音が聞こえた。注意深く耳を澄ませると、ぱしぱしと何かを打つ音も聞こえた。私は慌てて岩を降りると、茂みに身を潜めた。誰かが探しに来たのかもしれない、見つかれば、お気に入りの場所を取り上げられるかもしれないという不安があったのだ。

 低木がかさかさと揺れ、やがてその間から、小柄な少女が姿を現した。

 歳は私と同じくらい。黒地に紅葉を鏤めた、上等な着物を身に着けている。眉の上で切り揃えられた黒髪は濡れたように艶やかで、肌は餅のように白く、その手触りまで感じられるほどだった。右手には木の枝を持っており、それを無造作に振り回しながら歩いてくる。先程の音は、彼女の枝が草木を打つ音だったのだと知った。

 少女は覚束無い足取りで池の端まで歩み寄ると、立ち止まって滝を見上げた。私はその横顔を食い入るように見つめていた。少女はとても美しかった。幼い私にも、その美しさを完璧だと思えるほどのものだった。

 しばし心を囚われていたようだ。我に返ると、少女は地面に視線を泳がせていた。

 突然、少女は手にしていた枝を投げ捨てた。枝は池の中に落ち、綺麗な波紋を残して消えた。

 次いで屈み込んだ彼女は、一つの石を取り上げた。それはお手玉ほどの大きさをしていた。苔と泥に覆われた、何の変哲もない石ころだった。

 少女は朧ろげな瞳で石を眺めていたかと思うと、唐突にその表面に口を付け、石の表面に沿って唇を動かし始めた。径をぐるりと一周すると、唇を離した。口の端から舌が覗いた。異様に鮮やかな赤、生き物には似つかわしくない色彩だった。少女はその美しい肉の触角を、石の表面に沿って這わせ始めた。苔をこそぎ落とすように。泥を捏ね回すように。口の端から汚れた唾液が溢れ、顎を伝った。

 石はぬらぬらと妖しく光る、淫らな物体と化した。

 私は興奮していた。それは初めて感じた性的な衝動だった。じわじわと下腹部に帯びてくる熱を感じながら、私は少女の行為を食い入るように見つめていた。

 少女は、と石から舌を離した。

 石と舌の間に唾液が糸を引いた。

 そして屠蘇とそでも戴くかのように、石をと飲んだ。

 美しく反った少女の細い喉を、石は抜けた。

 少女の目は何も映していなかった。

 全身の血が足元に落ちたような気がした。

 肌が粟立ち、吐く息が白く濁った。

 そして少女は、

 汚れた唇の端を、

 僅かばかり歪めて――


                  *

 

 気が付くと私は、家の土間に寝かされていた。

 いつまでも帰らない私を心配し、村中総出で山を捜索したという。そして滝の傍で気を失っているのを見つけたということだった。

 大人たちから事情を訊ねられた私は、岩に生えた苔で滑って転んでしまったのだと嘘を吐いた。自分の見たものを話したとしても、誰も信じはしないだろうと思ったからだ。大人たちは何も言わなかったが、彼らの目は私の身に起きたことを全て知っていると告げていた。

 それ以来、私は二度と山に入らなかった。


                  *

 

 程なく終戦を迎え、私たちは村を去った。祖父母とは音信不通になりそれきりである。母も大病を患い、数年前にこの世を去った。

 私はまだ、生きている。

 まだ――。

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