バレンタインには真白な百合を

樹真一

第1話

 市販のチョコと最近手には入りづらくなった無塩バターを湯煎で溶かしておいてボウルに卵黄2個と砂糖を混ぜて泡立て器で白っぽくなるまですり混ぜて、そこに溶かしておいたチョコとバターを流し込んで生クリームを入れて混ぜ、別のボウルで卵白と砂糖を混ぜてふんわりとしたメレンゲを作り、それを元のボウルに入れてさっくり混ぜ合わせてから型に流し込んで160℃に余熱していたオーブンに入れて35分間焼き上げて型ごと冷まして、最後に粉糖を振りかけてできあがったそれ――ガトーショコラを、森永真帆は満足げに見下ろしていた。

 スマホでレシピサイトを見ながら作ったにしては、結構なものだと自画自賛し、カメラアプリでパシャパシャと写真を撮った。

「うふふ……これで、これで……!」

 真帆は幸福な顔を浮かべて、顔を上気させる。瞳はうるうる、口元はゆるゆる。口の端からよだれまで垂れている。

「ふふ、へへ……」

 完全に妄想モードに入っている真帆。その脳内のバラ色というかピンク色というか、ともあれ乙女の秘密である花園では、このガトーショコラを渡す相手――明治白子とのいちゃいちゃうっふんな光景と、それから白子との出会いのシーンがリフレインされていた。

 ――思い返せば、それは水連公園のモニュメントから始まった。

 白子と出会ったのは、高校に入学した日だった。入学式を終えて、母親は真帆の兄の入学式にも行かなければならないと言って、記念撮影だけをすませてさっさと言ってしまった。父親は、仕事で出席できなかった。

 それ自体は構わない。父が忙しくしているおかげで生活できるのだし、兄は難関と言われる大学に見事合格したのだ。どちらを選ぶかとなって、式典自体は真帆を融通してくれた家族に感謝こそすれ、恨むのはまったくお門違いだろう。

 だけれども。

 真帆とて、同じ中学から進学者がほとんどいないこの高校へやってきたのだ。ましてや、座っているだけの入学式、よそよそしい新品の制服に辟易しながら、そのことをぼやく相手も、もちろんいない。ぐったりと疲れてしまって、家に帰るのすら億劫な具合だった。もっとも、母親には「疲れたから帰る」と言って、兄の入学式に行かなかったのだけれど。

「はぁ……」

 ため息一つ、とぼとぼと歩き始める。学校から家までは、歩いておおよそ15分。やはり車で、兄の入学式に行くべきだったか? いや、しかし、すでに自分の入学式でへとへとなのだ、ここは15分をなんとか耐えて、部屋着に着替えてベッドに倒れ込んだ方がよかろう。

 そう思って歩いていると。

 家から高校へ向かう時には気が付かなかった公園が目に入った。気が付かなかったというより、今朝は車だったし、受験の時は英語の単語帳と睨み合っていたのだからなのだが。

 ちょっと休憩がてら、公園に入る。公園入口には、「水連公園」と刻まれた大理石が設置されている。入ってみると、アスレチックやトラックが設営された、運動公園であることが分かった。水連、というのは三つ並んだ池に沿うように公園が設置されているからだろう。

 公園の中心には、不思議な形状をしたモニュメントがある。Ingressだったら余裕でポータルに申請できそうなそれは、しかしなんとも文章では説明しがたい形状だった。それが人物であるのか静物であるのか、あるいは何らかの抽象的なモチーフがあるのか単なるでたらめな形なのか、それすら分からない。モニュメントの足下には、「モニュメント #1056」という作品名?と、これをデザインしたデザイナーの名前が刻まれている。こんなのが少なくともあと1055個もあるのかと思うと、僕は鉛を舐めたような気分になった。

 と、そのモニュメントの向こう側。細い7本の枝(見る人によっては燃え上がる炎や、あるいは流れ落ちる滝、苦悶のうめきをあげる市民か、もしくはできそこないのフランスパンに見えたことだろう)越しに、同じ高校の制服を着た女の子がいることに気が付いた。髪はさらりと長く、自然と背中まで届いている。真帆と同じくらいか、あるいは少し小さいくらいの背格好だった。

(あ、あの子も1年生だ)

 リボンタイの色は、同じ緑色だった。ということは、彼女も入学式を終えて、その帰りなのだろう。何組の子だろう、と思って何気なく見ていると、不意にその女の子は、がくりとモニュメントの土台の向こうに、しゃがみ込んでしまった。

(えっ!?)

 貧血だろうか。儚げな印象だったし、具合が悪くてここで休んでいたのかもしれない。できることがあるとは思えないが、放っておくのは気分が悪い。真帆は持ち前の正義感から、ぱたぱたとモニュメントの裏に回り込んだ。

「大丈夫!?」

「ばった」

 女の子は、バッタを指で摘んで、掲げてきた。緑色の可愛いショウリョウバッタとかじゃなく、仮面ライダーのモデルになったどでかい複眼を持つトノサマバッタだった。

「ぎゃあ!!」

 真帆は、女の子である。

 そりゃ、三つ離れた兄の遊び相手に、草原を駆け回ってトンボをとったりしたこともある。が、それはまだまだ子供の頃の話。いい年頃になれば、やはり虫が苦手になってくるし、ましてや至近距離にトノサマバッタは、大の男でも悲鳴をあげるだろう。

 思わず2、3歩後ずさってしまった真帆。虫に対する嫌悪感はそこまでないが、さすがに目の前にバッタを掲げられれば、驚いてしまうものである。

「はぁ、はぁ……!」

 荒く息を吐きながら、そして、ふと気が付いた。ぱちくりと瞬きして、バッタを摘んでこちらを見上げてくる女の子をまじまじと観察した。

(か、可愛い……!)

 可愛いのだった。

 清楚な印象の黒髪ストレートヘアと、少し幼さの残る顔立ち。珍しそうに真帆を見上げて小首を傾げる姿など、もう、どうにかしてしまいたいほど可愛い。

「う~ん」

 女の子は少し考える様子を見せた後、しゃがみ込んだ時と同じ勢いでずばっと立ち上がった。ぽい、とバッタを放り投げる。トノサマバッタはキチキチキチと羽音を残して慌てて逃げていく。

 そして女の子は、バッタを摘んでいた指を、スカートでぐしぐしと拭う。その動きに併せて、ミニスカートがゆらゆらして、白い太股とその細い足を包む黒いニーハイが眩しく見えた。

「めいじ、しろこ」

 よろしく、と言いたげに、右手を差し出してくる。真帆は口の中で「めいじしろこ」と、図書館のリファレンス係のように繰り返した。

「?」

 しろこ――白子が、不思議そうに首を傾げる。その可愛い仕草を見て、はっとする真帆だ。慌てて、自分の右手も白子がしたようにスカートでぐしぐしして、震える手で白子の手を握った。握手。

(や、柔らかい!!)

 マシュマロのような、そして干した後の布団のように、温かい。ぷにぷにしたその手を、真帆は、むしゃぶりつきたい衝動に駆られる。

「も、森永、真帆……よろしく」

 顔が赤くなっているのを自覚する。100メートル走を全力で駆け抜けた後のように心臓がばくばくと騒ぐ。まともに白子の顔を見られないのに、その顔をずっと見ていたくて仕方なくなる。

 それは、紛れもなく、一目惚れだった。

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