第二十五話 屈折(後半)
「私には分かる。君は不当な評価を受けているようだ」
全てから逃げていたアイナに声をかけたのは、この学園の長であった。
年齢は四十代半ばにさしかかろうかという老体だが、背筋はしっかりと伸びていて身体も筋肉質でガッシリしている。
男の平均寿命が六十年に満たないこの世界では彼は既に老人と呼んで差し支えないが、しかし驚くほどの若々しさとエネルギーに満ちている。
白髪をオールバックにし、その瞳は肉食の獣のように鋭い。
身長は188cmで、この世界の男の平均身長165cmを大きく上回っている。
「運というのは残酷なものだな。
君のように、本来ならば筆頭騎士になれるはずの逸材が、ただ一度の調子が悪かった時の敗北で転げ落ちてしまう。
間も悪かった。あの時に君がいれば、必ずや聖女を守るのに一役買えただろうに」
それは、アイナの心にスルリと入り込む甘言だ。
アイナの心は今、罅割れている。砕け散りそうなほどに傷付いている。
その隙間に、彼の言葉は優しく侵入する。
「あまりに惜しくて見てられん。君は必ず偉大な騎士になれるとずっと見込んでいたのだ。
その才能がこうして潰れようとしているのは、大きな損失だ。
それとこれは未確認なのだが……どうにも、あの時マリー嬢は汚い手を使っていたようだ。
試合開始前……妙に冷えたと思わないか? 心当たりはないか?
私が思うにあの時、マリー嬢は試合前から君に、気付かれない程度に攻撃を仕掛けていたのだ。
身体の動きが、鈍くなるように……本来の力を発揮出来ぬように」
結論から言えば、そんな事はなかった。
いくら何でも、そんなに身体能力が下がるような事があればアイナはその時点で気付ける。
そんなに寒かったなら、寒かったという記憶くらい残る。
そしてアイナにそんな記憶はない。
だが……人は、自分の都合のいい方に物を考える生き物だ。
ましてやそれが過去の事となれば、尚の事。
一度そう思ってしまうと、まるでそれが真実のように思い込んでしまう。
疑惑と真実がひっくり返り、その者の中では根拠のなかった疑惑が真実にすり替わる。
悪い事をしてしまった時、最初に『私だけが悪いわけじゃない』と思う。
次に『もしかしたら私は悪くないかもしれない』になり、やがて『私は悪くない』になり、『何故悪くない私が責められている』となってしまう。
こういう思考をしてしまう人間は、確実に一定数以上存在するのだ。
「ほら、やっぱりあの時寒かったんだろう?
だが君は、気付けなかった。それはマリー嬢の手口が巧妙だったからだ」
まるで洗脳のように学園長の言葉が耳に入る。
そうか、そうだったのかと思う。
私は正々堂々の戦いで負けたわけではなかった。
卑怯な事をされて負けたのだ。
そう
ずるい、許せない。そんな想いが頭を支配する。
そうして思考力の落ちた彼女へ、学園長が提案を持ちかける。
「私は君こそが今年の最も優秀な生徒だと確信している。
だから君を信じて、打ち明けたい。
……ここだけの話、実はこの学園には魔女の手の者が潜んでいるんだ」
「なっ!?」
「私はずっと、信頼出来る者を探していた。誰が敵か分からず、孤独な闘いをしていたんだ。
だが君ならば信じる事が出来る。
君が今、こうして辛い環境に置かれているのも、もしかしたら君を脅威と思った敵の策略によるものなのかもしれない」
アイナは、学園長の言葉に驚いた。
同時に暗い喜びも感じていた。
こんな重大な話をマリーではなく自分にしてくれたという事に、優越感を感じてしまったのだ。
「分かるだろう? あの大会でもまるでタイミングを図ったように怪物が現れて、そして打ち合わせたような活躍劇が繰り広げられた。
魔女の手の者は既に、大勢いる。どこに目があるか分からない。
そんな魔境に、聖女様は知らずに来てしまったんだ」
「た、大変! すぐに知らせないと……」
「いや、それは駄目だ。知らせても私達の方がおかしな事を言っていると思われてしまう。
それにこれはチャンスなんだ。敵を泳がせて、その尻尾を掴める好機だ」
学園長は屈みこみ、アイナに視線を合わせる。
そして彼女の手を握り、静かに頼み込んだ。
「アイナ・フォックス……どうか私と一緒に戦ってくれ。私達で聖女様を守るんだ」
「は、はい……! 私でよければ、喜んで……!」
「いい返事だ。君を選んでよかった……。
ならば君は、普段通りに生活しつつ聖女様の行動を監視して私に報告して欲しい。
特に、聖女様が人目を避けるように動き始めたら要注意だ。
……数か月前、聖女様がファラ先生に呼び出された事件は知っているね?
もしも聖女様が単独で行動を始めたら、敵に同じように呼び出され、危機に陥っている可能性が高い。すぐに救援に向かう必要がある。だからその時はすぐに私に報告するんだ」
学園長の甘い誘いに、アイナは絡め取られていく。
人は自分が正しい事をしていると思うと、そこに疑問を抱きにくくなる。
ましてやそれが、心に罅の入った少女ならば尚の事。
元々の性格も相まって、アイナの心には既に疑いなどというものは存在していなかった。
「報告用の手段を渡そう。
こいつは人の言葉をよく聞き、そして真似をする賢い鳥だ。
そして天敵から逃れる為に、周囲の景色に同化するという特徴を持っているから肩に乗せていても誰も気付かない。
報告の時はこいつに話しかけて、そして飛ばしてくれ。そうすればこの鳥は私の所に来て、君の言葉をそのまま伝えてくれる」
そう語りながら学園長が渡して来たのは、一羽の小さな鳥だ。
人に慣れているようで、抵抗なくアイナの手に乗った鳥はあっという間に色をアイナの皮膚と同じ色にしてしまい、まるでそこにいないようだ。
「何か言ってごらん」
「え、えと……それじゃあ……こんにちは」
アイナは学園長に促され、鳥に挨拶をした。
すると鳥は小首をかしげ、嘴を開く。
「エ、エト、ソレジャー、コンニチハ」
「うわあ……可愛いかも」
「ウワー、カワイイカモ」
アイナの言う言葉をそのまま鳥が真似る。
それが嬉しくなり、アイナは指先で鳥の頭を撫でた。
フワフワしていて触り心地がいい。
「それじゃあ、頼むよ。勿論これは極秘任務だからね。
他の誰かに言ったりしないように」
「はい! 任せて下さい!」
学園長に、自信満々にアイナが返事をする。
そんな彼女に優しそうな笑みを向けて、そして学園長はその場を歩き去った。
だが歩きながら徐々に温和そうな笑みは歪み、口の端が吊り上がる。
それは、愚かな小娘を嘲笑うような、悪意に満ちた笑みであった。
そして物陰で話を聞いていたベルネル達は、とんでもない事を聞いてしまったと顔を見合わせた。
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