【第一章/穏やかな日々の終わり】その3
イスサナ帝国大領主、ラスノ家。
ミハテ村を含む東南領を治める彼らは、権威や領土、発言権で他家に劣る。序列の末席を拝するも、しかしある一点でその順列を裏返す。
『強さ』である。修めた《魔法》や《技能》を組み合わせた独自の剣術を持つラスノ騎士団は、剣帝御自ら主催する御前試合で連覇を成し遂げている。
つまるところ、それがラスノ家を大領主の末席に座らせ続ける理由だ。
現在のイスサナ帝国……否、ヤーフィラは、揺るぎなき平和が実現された世界だ。棒振りなど遊戯以外の用途がなく、剣の腕が優れているだの誰を負かしただのは余興以上の意味を持たない。
ゆえに、此度のラスノ家の行動は窮地を脱却するためのものであり、追い詰められているのは何より彼らのほうだった。
「よもや、あのタィラート族が生き残っていたとはな」
噛み締めるように口にしたのは、赤髪の騎士ファルファだ。焚き火に照らされる顔は、欲望の色に染まっている。
「あの献上品ならば、獣に新たなる成長を促す。剣帝直々のお褒めの言葉を賜り、直接に褒賞を願うことすらできよう。僕の念願も叶うというわけだ」
左右を崖に挟まれた山道の脇で行われる野営の場では、ファルファともう一人の騎士が夜番をしていた。二人とも、物々しい甲冑から移動に向く旅人の軽装へと着替えている。
「一月前、霊脈の異常反応が検知されたと報告された時は何かの誤りかとも思ったが……よくやった、シュヴィスタ。ラスノ騎士団随一の魔法剣の使い手、剣のみならず魔法の研鑽も怠ってはおらぬこと、示してみせたな」
「もったいなきお言葉にございます、若様」
焚き火を挟んだ反対側、シュヴィスタと呼ばれた深い青色の髪の女が頭を下げた。
「反応の検知された位置が、絶妙すぎた。山脈で隔てられてこそいるものの、ミハテ村は序列四席の領地と面している。奴は
若干の消沈を見せるファルファに、シュヴィスタは「いえ」と力強く否定する。
剣帝・他の大領主・ここにいる以外の騎士団員は、ファルファとお付きの騎士四名がこのような行動をしてることも、辺境のミハテ村で霊脈異常が起こったことも知らない。独断が発覚したならば厳罰に値するが、それを押してでもこうせねばならなかった理由を、彼女はよく知っている。
「若様の行動、これすべてラスノ家がためと存じておりますれば。同じ贄と消えるなら、若様の使途に命を捧ぐことこそがあの者にとっても幸福か と 」
――それが、とても自然な動作であったので。
ファルファは一瞬、何が起こっているのか、理解が遅れた。
「……シュヴィスタ?」
何しろ、過酷な強行軍であった。隠密がゆえに騎乗獣を利用できず、旅路を急ぎ疲労も溜まった。密かに用意できたポーションは粗悪で、体力の回復こそ叶うが副作用を伴う。効力が切れた後に凄まじい眠気が押し寄せる。片道分の目的を達成した安心感も相まって、話の最中にうっかり倒れてしまったものかと、今夜も何度か寝落ちしかけていたことも含めてそう思った。
むしろよくここまで持ったものだ、代わりの夜番を起こすとしよう、ファルファはそう考えながら立ち上がる。
そして、気付いた。
聡明で優雅、文武両道で知られるラスノ騎士団の才女は――白目を剥き、痙攣し、泡を吹いている。
「シュヴィスタッ!?」
慌てて駆け寄り、抱き抱えようとした寸前で下手に動かしていいものかと考えが及んだ瞬間、それが目に入った。
シュヴィスタの右耳から下にずれた首筋に、血が滲んでいる――小さな、棘のようなものが刺さっている。
「くそッ! 何なのだ、一体!」
叫び、テントへ向かう。荷も最小限での出発だったが、冒険の備えとして
「……は?」
テントに入り、ファルファは絶句した。
そして――遅ればせながら、主君が叫び声をあげたというのに、三人の騎士が誰も駆けつけてこなかったという異常と、その理由を知った。
焚き火からわずか五歩もないテントの中では、三人がシュヴィスタと同じ症状を起こしており。
毒消しの瓶が無残に割れて、テントの床面に染みを作っていた。
「いやあ。どうやら、とても困ったことになったみたいだね」
突然の声に振り返ると同時、ファルファの全身が粟立つ。
焚き火を挟んだ向こう側、そいつは痙攣を繰り返すシュヴィスタの上体を、気安く持ち上げていた。
その少年は、ミハテ村で自分に歯向かった――。
「――おまえは、誰だ」
それがわかっていながら、聞かずにはいられなかった。ファルファには、その少年が、あの時と同じものに見えなかったから。
陽の下と星の下で印象が違って感じるなど、そんな生温い話ではない。
なんて不吉な金色の髪。宵闇じみた昏い蒼の眼。薄く笑うその表情には、徹頭徹尾人間味がない。義憤であるとか、冷静であるとか、そういったものとは生まれてこの方一切無縁な、感情という感情が生まれながらに欠け落ちているような、此方と違う彼方の岸辺に存在している、断絶された者の
反射的に攻撃しかけたところで、その音が響いた。
少年が――毒消しの入った、細い硝子の瓶を握り潰した音だった。
「今のは、僕の許可なく喋った罰」
ファルファが唾を飲む。虚空を握るようにした指が、それ以上動けず宙に縫いとめられる。
「かわいそうに。全員助かるはずだったのに、愚かな主のせいで、席が一つ減ったね」
緑の液体がしたたる手を背に回すと、三つの瓶が指の間に挟まれてぶらぶらと揺れた。道中の運搬で破損しないよう、強度が高く作られた毒消しの硝子瓶は……その底部に、残らず罅が入っていた。落下の衝撃に耐え切れず割れてしまうように。
「立場を明確にしておこう。僕が上。君が下。ついでにルールも教えよう。僕が命じる。君が頷く。背くたびに、瓶一個。わかった? これには返事をしていいよ」
「……シュヴィスタたちに、何をした」
「君と話をするのに邪魔だったから、大人しくなってもらった。ついでだし、交渉の材料にもなってもらったよ」
痙攣するシュヴィスタを抱いていながら、そいつは平然と言う。
その様子が恐ろしい一方、ファルファは納得している。
深い疲労があるとはいえ、精鋭の騎士が眠るテントに侵入し、気付かれぬまま三人に毒を用い、毒消しを割り……闇に乗じ、シュヴィスタに死角から針を放つというありえない芸当すら、この捉えどころのない少年ならばやってのけるだろうと。
「それなりに大変で危ないんだよ、ミハテ村での生活は。山には、間違って傷口に触れたりしたらすごく危ない成分を持つ植物も生えてるし――狩りをするのに、そういうのを矢とか刃物に塗って使ったりするからね」
ファルファは息を飲む。この野営地から、最も近い町まで四人を抱えて移動するのに、どう見積もろうと夜明けより早いということはない。
「そんな顔ができるんだね、君も」
悪いか、と言いかけて澱む。それを見て、少年は「もう一回、返事を許可するよ」と促してくる。……時間がない。話は、迅速に進めねばならない。
「――目的は、タィラート族か」
高い音がした。指の間から瓶が落ち、硝子が割れた音だった。
「彼女を、物のように扱うな」
どうやら、ファルファは禁句を口にした。少年の、上っ面だけでも張り付いていた気安さが剥がれ、透明な敵意が押し寄せる。
それに曝されながら、ファルファは残り二本の硝子瓶について考える。
四人から二人。そう言われたとき、あの四人ならどう言うだろう。シュヴィスタは、自分が最も付き合いの長い騎士は。……『若様の御随意に』? それとも、『私がいなければ、若様を誰がお守りするのですか』?
「聞けよ」
高い音がした。指の間から瓶が落ち、硝子が割れた音だった。
「そんな顔をする資格があると思ってるのか? 奪おうとしたのはどちらだ。踏み躙ったのは誰だ。誰が何をしなかったらこんなことにならなかったのか、考えてみろ」
――隷領民に、刃なし。
それは武器や能力の有無以前に、認識の問題だった。飼い慣らされた歴史、立場と強弱を教え込まれた者に逆らう精神など枯れきっている。そのはずだった。
なのに――何なのだ、こいつの凄味は。己が支配の側と、一片も疑わぬ眼差しは。
「屈辱には報復を。侵略には赤き血を。我らの掟は是即ち、魂の反逆である」
少年の右目から、一筋の涙が垂れた。だがそれは、果たして涙と呼べるものなのか。
その雫は、血液だった。粘つき、赤黒く、禍々しく、忌々しい、およそ清純さとかけ離れた、呪いの具現が噴き出している。
「――う……」
動けない。その眼に射竦められ、ファルファは呼吸も覚束ない。
「シーパのことを忘れ、二度とミハテ村に関わるな。さもなければ――」
「うぁぁぁあぁぁあぁぁぁあっ!」
気付けば、腰の筒を手に取っていた。
後先を考えてなどいない。ファルファを動かしたのは目の前の存在に対する肥大化した恐怖であり、窮状からの逃避だった。
指先を噛み切り、浮かんだ血が筒に触れると、筒の蓋の紋様が消える。大領主の血を以て、封印を剥がす。
ヤーフィラの争いを治め、平和をもたらす、大いなるものを顕現させるために。
「調和をもたらす秩序の担い手、その片鱗! 剣帝が代行、大領主が一人、ファルファ・レプテ・ラスノが命じる――現れよ、“帝罰”ッ!」
筒から煙が噴出し、崖を埋め尽くすほどに立ち昇る。そして、その煙の中には、無数の“それ”が混じっていた。
一つ一つは指先ほどの小ささながらも、膨大に。煙に乗って飛び出した半透明で緑の“破片”が、凄まじい速さで集まり、煙を晴らす旋風を伴いながら、接合し、形を成していく。
「……そうか。これが、トラ爺の恐れていたものか」
少年が呟く。
帝罰と呼ばれたのは……深き断崖からも頭を出すほどの、長く太い蛇の抜殻だった。
鱗が月光を反射し、闇夜に神々しき緑色の光を纏う。巨体は断崖に張り付き、大口を開けて状況を見下ろしている。
「あいつを……あの化物を殺せぇぇぇぇえぇえっ!」
命令を受け、空洞の蛇の眼が怪しく光る。動く身体が崖を削り石が落ち、生理的嫌悪感を催す音を伴う。
巨体は迅速に襲い掛かる。抱えられたシュヴィスタを傷つけず、少年の首だけを正確に齧りとらんと、抜殻の蛇が鎌首をもたげ――。
「ひどいな、化物とは。――僕を、その程度の扱いなんて」
蛇の抜殻が襲い掛かるまで、約二秒。しかし、少年の挙動はそれより速い。
帝罰が狙いを定める――少年が左手で、右目から流れる血涙を勢い良く掬い取る。
帝罰が鎌首をもたげる――少年が血涙を掬い取った勢いのまま、左腕を振り被る。
「あまり、見下してくれるなよ」
当てる、という意識もいらなかったに違いない。崖の狭間の街道にその巨体、進路など必然的に絞られる。
中空へ飛散した少年の血涙が、蛇の抜殻に触れた。粘ついた赤黒さが半透明な緑の鱗に侵食し、帝罰の全身を瞬時に塗り替える。少年に食らいつかんとしていた挙動がピタリと止まり、急停止に伴う凄まじい風圧が地を嘗めた。
「な――ぐぅぅっ!」
風圧に飛ばされて、したたかに岩壁へ頭を打ち付けながら、ファルファはそれでも痛みより驚愕が勝っていた。
「あり……得ない。何をした、どういうことだ、下賤の只人!」
騎士団四人の無力化は、夜陰に乗じての奇襲と毒で説明がつく。だがこれは、今起こったことは、断じて人智の範疇ではない。
「何故――どうして! 貴様が、《技法》を使用するッ!?」
ファルファの思考が、混乱と疑問に埋め尽くされる。出自の偽装や虚偽の申告などの次元ではない。この少年に一切の技法反応が検出されなかったことを確認したのは、ラスノ騎士団一の魔法剣士シュヴィスタだ。彼女の《鑑定》は神聖庁も認めるもので――。
「騒ぐなよ。こんなもの、僕は一度も使いたくなかったのに――そうさせたのは、そっちだろ」
「……一度も……!」
《鑑定》とは、その当人が使用した《技法》の反応を検出するものだ。使用してさえいたのなら、どれだけ過去のものであろうと暴き立てるが――唯一、まだ一度も使用されたことのないものに関しては、検出できない。
「こんな力を隠していたのか! 帝罰にさえ効果を及ぼす、神威級の特権を!?」
「――わからないかなあ。わからないんだろうなあ、君には。自分が何かと違うことを、気持ちいいとしか思いそうにない手合いには」
少年の深い溜息に籠っている落胆と失望は、それだけは真実のように思える。だが、それはどうでもいい。化物の心など、今は覗く時ではない。
「命じる。{崩れ落ちろ、抜殻}」
「支配を振りほどけ、帝罰!」
二つの命令がかち合い、その二つが同時に起こった。
巨大な蛇の抜殻が、崩れ落ちながら再生する。身体中で崩壊が始まるが、ボロボロに散らばった破片が、地面に落ちる中途で止まり、浮き上がって戻り、再びその身体を創っていく。
斑の模様ができあがる。呪われて崩壊する鱗は赤を、崩壊から再生した鱗は緑の光を放つ。それはそのまま、帝罰の支配図が書き換わっていくことを意味している。
「……っく、くははははははっ! 所詮は無駄な悪足掻き!」
抜殻の放つ光の割合が赤より緑に傾くにつれ、その活動がゆるやかに再開した。少年の命を容易く終わらせる巨大な顎が迫っていく。
その光景を見ながら、ファルファは少しずつ冷静さと希望を取り戻していた。
部下たちの解毒ならば、帝罰を足としてあの村へ戻ればいい。毒を製造・保管していた場所にその解毒手段がないということなどよもやなかろう。……その際、帝罰目撃の口封じと、村内から反逆者を出したことへの相応の罰を与えねばならなくなったが、それもまた、大領主として果たすべき義務と彼は飲み込む。
「平伏せ、神獣の威光へ。帝国に、偉大なりし剣帝に逆らった愚かさを噛み締めて――」
「誰だよ、そいつは」
少年の判断は迅速であり、一切の躊躇がなかった。
邪魔な荷物……シュヴィスタを下ろすと、再び帝罰に向けて血涙を飛ばす。
それは既に見た、学習された攻撃だ。血涙は帝罰から剥がれ落ちた破片が受け止めることで、本体に至る前に防がれる。
「帝国だの、剣帝だの、僕らのことも知らない奴が、僕らが生きるのを邪魔するな」
防がれる。防がれる。飛ばす血など、何度やろうと届かない。
届かないのに、諦めない。
血の涙は止め処ない。だが無尽蔵でもあるまいに。流した血の分だけ肌から赤みが失われ、体力の消耗という代償が現れているのに、少年は平然と続ける。
「そんなのがこの世界の決まり事だっていうのなら。そんなどうでもいいことが、僕の大切なものを脅かすなら。安納辰巳は、そんな世界を作っている奴を、そのルールごと塗り潰す」
「――貴様は、何を言っているのか、わかっているのだろうな。帝国の在り方に、続いてきた平和に、何より剣帝に逆らう……その重み、知った上での狼藉か」
「さあ。けれど、何をするのかだけは、覚悟したつもりだよ。好き嫌いも選り好みも、僕が楽しいかどうかなんてことも、どうでもいいってくらいには」
血化粧に塗れながら、少年は宣言する。
「僕は、僕がしあわせになってもらいたい人たちを、しあわせにする。そのためなら、僕自身が、どれだけ穢れようと構わない」
多量の出血による朦朧も意に介さず、少年の姿をした化物が唱え、ファルファを睥睨する。彼を、その後ろにある帝国を、剣帝すらも串刺しにするように。
「……くだらない。無知とは罪だな、逆賊」
ファルファは腰の
「帝罰――イスサナ帝国を外敵より守り、内政を支える威力のわずか片鱗にすらその有様の貴様が、一体何を成し遂げるのか。分不相応な願いを夢見たまま、流れる血に溺れ、二度と帰らぬ底へと沈め――!」
武を鍛えあげた騎士団の長が、短剣の刃先を掴み、投擲の構えに移る。照準は頭部、一撃にて必殺を狙い、足を踏み出しながら腕を振りかぶり――。
「その通り。いいこと言うじゃねえか、ボンボン領主。剣帝打倒とかいう大仕事が、ガキ一人にできてたまるかよ」
……声が割って入るよりも先に、上から飛んできた
「あぁ、それ以前に、だな。後から入った新参に、そこまでハデなことされちまうと――古参の立つ瀬がねェんだわ」
驚愕と共にファルファは見あげる。地面の自分たちより上、岩壁に張り付く抜殻より上、礫が来た、声が聞こえた、断崖の上を。
若々しい中年男性と、白と黄の入り交じった髪をした、年端もいかない子供がそこにいた。
「ほんじゃァま、出番だぜ。隠し球」
「もっかい聞くけど、ほんとにいいの? 準備が万端に整うのは次の次くらいで、それまでは根回しと積み立てに専念するんじゃなかったっけ」
「絶好の機会。本来の計画。そういうのはうまくいかないのが常だ。なら今回くらいは、いっそこちらから崩れてやるさ。知ってるか? 運命なんてものは、ぶち壊す瞬間が最ッ高に気持ちいいんだぜ」
腕を組み胸を張る男性に、子供は心底嫌そうに肩を竦める。
「うわ、出たよ。さすが、運命神ミハテなんて邪神を崇拝してる連中は頭がおかしいね。まあいいけどさ、わかった上での賭け事なら。頭がおかしいのは、あなたに乗ると決めたこっちのほうも同類だし」
「褒めるな、照れる。チューしてやろうか?」
「おことわり。じゃ、そそのかされて行ってくるよ、トラ爺――いえ、ビヨンドレス」
「久々の戦闘だ。楽しむついでになまった身体をしごいてこいや、ルー・ガ=ルゥ」
そうして、ファルファは見た。
夜空に浮かぶ
頭に耳が、短い下穿きを突き破るように尾が生えて……最も大きな違いが現れたのは、毛皮に包まれていく両の手足だった。
形状が人のそれから獣のそれに、加えて右の手だけが、大きさも幼女のものから巨獣のものに、歪で禍々しい変貌を遂げた。
雄叫びがあがる。
それは大地で生きる者が、己は誰にも縛られぬ、とその宣言を示す声。ルー・ガ=ルゥと呼ばれた半人半獣の少女が、肥大化した右腕を、上空からのすれ違いざま、蛇の抜殻へと振り下ろした。
「……馬鹿、な」
信じられない光景に、ファルファがおののく。
帝罰の鱗は、打撃や斬撃、高温や低温、様々な破壊や変化に対する桁外れの耐性を持つ。……彼自身が試した折にも、全力の一撃で傷一つつけられなかった。
なのに、それが、またしても。
猫が紙に爪を立てるかのような呆気なさで、切り裂かれた。
「だ、だが……多少形を崩されたところで、帝罰は……」
「よぉーっし、よくやったルー・ガ=ルゥ! 続いて――【
「「「「「「はっ!」」」」」」
トラ爺……ビヨンドレスと呼ばれた壮年の男の号令で、隠れていた者たちが姿を表す。
左右の崖際にずらりと、ミハテ村の村民たちが並ぶ。各々が背に樽のようなものを背負っており、そこから伸びたホースの先端から、崖下に向かって液体が撒かれた。
「っぷぁっ!? こ……これは、この甘ったるい臭いは……酒、か!?」
火計でも行うつもりか、と推測し、馬鹿が、とファルファはほくそ笑んだ。そんなもので帝罰がどうこうなるわけが……。
「……え」
一瞬後には笑みが失せた。酒を浴びせかけられた帝罰が……再生、していない。
湿った破片は地に落ちた後、幾度か元に戻ろうとのたうち回った後に動きを止め、完全に停止する。まるで、酔い潰れでもしたように。
「あり、えない、ありえない、ありえないありえないありえない……帝罰が? 剣帝の威光そのものが? こ、こ、こんな……こんな、無様に……」
茫然と呟くファルファのほうに、突然、崩れかけた蛇の抜殻が首を向けた。
「――へ?」
彼が脳裏に猛烈な嫌な予感を覚えた時、その通りの事が起こった。
爪に刻まれ、酒を浴びせかけられた蛇の抜殻が、蛇行をしながらも確実に、ファルファへ向かって突っ込んでいく。
「いひゃぁぁぁぁぁあぁぁっ!? なななななんでぇぇぇえぇぇえっ!?」
喰われる。死ぬ。本気でそう思った。
帝罰の乱心は何のためか。ファルファが恐怖した通り、泥酔に狂って彼を喰おうとしたのか……それとも、危機に瀕して自分のねぐらへ、彼が持つ封印の筒の中に逃げ込もうとでもしていたのか。それは、わからない。
その前に、事はすんでいたから。
「命じる」
血涙の少年が呟いた瞬間、蛇の抜殻の全身が、緑色から真紅に染まる。ファルファの元へ到達する直前に停止する。支配に対し、抗う力が消えている。どうやら――“血”を媒介に染みついたモノは、酒を浴びても、落ちていない。
「{逃げるな。生きるな。ここで死ね}」
帝罰は、その通りになった。
身の端から速やかに、塵となって消えていく。呻き声の一つも立てられず、抵抗に身を捩ることも許されず、剣帝の威光の具現が、この世から放逐されていく。
「……う……わ、若様……?」「っぶは……! なんだこれ、酒ぇ……!?」「おはよう、ございま……あれ、まだ夜……?」「これは……何が、どうなって……」
次々に目を覚ますのは、シュヴィスタを始め四人の騎士たちだ。どうやら、撒かれた酒は解毒の作用も含んでいるらしい。それは実にめでたいことだ。……とはいっても、だとしても。
「……何だろうね。わかんない」
呟きは、現実逃避気味に。
訓練された動きで、次々に岩壁から下りて自分たちを取り囲む武装した村民たちを見ながら、イスサナ帝国大領主にして騎士団を束ねる赤髪の青年は、笑うことしかできなかった。
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