平林

 その女性の名を、都合により本名を記すわけにはいかないので、仮に平林麻里としておく。

 平林は当時26歳だった。


 買い物から六畳和室の自宅アパートに帰り、ショッピングバッグから買ってきたものを冷蔵庫に入れていると、インターホンが鳴った。


 玄関に出てみると、見たことのない若い男が立っていた。

 何かの勧誘だろうか、と思っていると、男は強引に和室の中に入って来て、平林の手を引っ張って畳の上に押し倒した。男はそのまま平林の下着だけをはぎ取るように脱がせて、強姦した。


 抵抗して声を出そうとしたが、頸部を強く圧迫されていたため、息もできないくらいだった。

 終わると男はズボンを履き、何事もなかったかのように平然とした様子でアパートを出て行った。


 平林は呆然とする意識のなかで、なんとか気力を振り絞って110番した。

 警察が到着したとき、平林は意識を失っていたという。呼びかけても返事がなかったため、救急車が呼ばれた。


 病院に運ばれ治療を受けているときに平林は意識を取り戻した。生命に別状はなかったが、妊娠5か月目に入っていた胎内の子供は、強姦された際に腹部を強く圧迫されたことが原因となって、流産となった。


 翌週、別の強姦未遂事件で逮捕された男のDNAが、平林の体内に残留していた体液のDNAと一致した。

 犯人は近隣に住む21歳の男だった。



 性犯罪の報道は、難しい。特に被害者が生存している場合は、きわめて慎重に被害者のプライバシーに配慮しなければならないため、事件の内容が克明詳細に報道されることは、まずない。ゆえに、多発する強姦事件について、その悲惨さ悪逆さを本当に知る機会は、驚くほど少ない。


 横山の事件と、この妊婦強姦事件、両方とも記憶している方もいらっしゃるとは思う。しかし、このふたつの事件の関連を知る人は、ほとんどいないのではないか。

 平林は、横山の婚約者だった。



 平林のそれまでの人生について、記しておく。

 平林は18歳、高校卒業すると同時に、15歳年上の彼氏と駆け落ちした。相手の男とは、高校2年の夏休みころからの付き合いだったいう。


 真剣な交際で、結婚も考えていたが、歳が離れすぎているという理由で、両親や親族に反対された。


 両親は相手の男の家に何度も出向き、娘を別れるよう迫っていて、嫌がらせや犯罪に近い行為もやっていた。


 やむを得ず、ふたりは駆け落ちということになった。それまで住んでいたところを離れて、部屋を借りてともに生活するようになった。


 平林が20歳の誕生日を迎えると同時に、入籍した。

 しかし、その後いきなり男ののDVが始まった。男は、「飯の味付けが悪い」や「風呂のお湯が熱い」など、何かと理由を付けて平林を殴った。美容院に行って髪を切った日には、料金がいくら掛かったかなどを聞かれ、金額を言うと「無駄遣いするな」と殴られた。


 顔だけは殴られなかったが、全身に青あざが絶えたことはなかった。

 平林は精神的に男に支配されていた。殴られるたびに土下座をして、涙を流しながら許しを請うた。すべて自分が悪いと思っていた。


 しかしある日、テレビのワイドショーでDVについて特集していて、司会者が「DV被害者・加害者の特徴」というカラフルなフリップを示しているのを見て、全身に衝撃が走るようなショックを受けた。

 そこには、まさに平林と配偶者の男の現状と、まったく同じものが書かれていた。


 自分が被害者であると自覚した瞬間だった。


 その番組で、DVシェルターという、被害者が避難するための施設があることも知った。

 しかし、近隣にそういう施設があるのか、平林は携帯電話もパソコンも持たされていなかったため、調べることができない。


 家を出て、市役所の出入口のすぐ横にある今どきめずらしい公衆電話ボックスに入り、タウンページをめくった。「社会福祉施設」という項目に、「NPO法人ドメスティックバイオレンス救済センター」というのが、隣の市にあるのを見つけると、希望の光を見たような気がした。


 しかし、電話をしようにも1円も持っていない。平林はそのまま徒歩で20キロ以上離れたそのNPO法人に行った。


 NPO法人の代表者の女性は親身になって平林の話を傾聴した。

「もう、家には帰らなくていいですよ。いままで辛かったですね」

 そう言われると、平林は静かに涙を流した。


 DVシェルターには4畳ほどの広さだが個室になっていて、細長い小さいベッドもあり、宿泊できるようになっていた。


 その後、NPO法人と連携する精神科医や弁護士の協力を受けて、離婚協議をすることとなった。


 配偶者の男は平林の行動と主張を容認できないと言ったが、勤務先にDVについての話が伝わることを極端に恐れていたため、離婚理由を「性格の不一致」とすること、慰謝料や財産分与は行わないことを条件として、離婚を承諾した。



 離婚が成立した後、実家に帰るわけにもいかず、行き場のなかった平林は、NPO法人の創立メンバーで役員の、小料理屋を営む夫婦のところに、住み込みで働くことになった。60代の夫婦には子供はおらず、平林を娘のようにかわいがってくれた。


 店は繁盛しているというほど儲かってはいなかったが、顔なじみの常連客が多く安定した売り上げがあり、贅沢をしなければつつましく生活ができるくらいには稼いでいた。


「ゆくゆくは、麻里ちゃんに店をついでもらいたいね。うちに養子に来るかい」大将はよくそんなことを口にした。


 その小料理屋の常連客のひとりが、横山だった。

 当時、平林は23歳で、横山は28歳だった。


 交際を申し込んだのは、平林からだった。しかし、横山はひどく拒絶した。理由を尋ねると、「言いたくない」と繰り返すばかりだった。


 しかし諦めきれず、3度目の告白をしたときに、ようやく横山は、自分に逮捕歴と刑務所に服役した過去があること、故郷の両親には勘当されていることを平林に告げ、

「麻里ちゃんにはもっと、ふさわしい男がいるでしょう。僕みたいな前科者には、近寄らないほうがいい。これまで通り、お店の人と客という関係でいよう」と言った。


 すると、平林も、自分もすでに帰る故郷はないこと、ひどい男にDVされて離婚歴があることを言った。

「スネに傷があるのは、お互い様じゃないですか」

 DV被害者と薬物犯罪者の過去を、同じ「スネの傷」と呼ぶべきかは疑問だが、とにかく、平林と横山の交際が始まった。


 交際開始後、半年ほど経過したところで、平林は小料理屋の勤務は続けながら、間借していた店の二階の部屋を出て、横山のアパートで同棲することになった。


 そのころすでに横山は運送会社で働き始めていたため、横山が朝から夕方までの勤務、平林が夕方から夜12時過ぎまでの勤務と、ふたりの生活サイクルは微妙にずれていた。


 しかし、横山は毎日、平林が帰宅するのを起きて待っていた。

 平林が小料理屋の残りものをもらってきて、それを肴にしてふたりでビールを飲むのが、至福のときだった。


 ここに来てようやく、ふたりは魂の平安を得た。

 当然だが、横山は暴力などはいっさいしなかった。



 しかしその平和な生活も、横山がトラックの事故で逮捕され、中断されることになった。


 平林は頻繁に拘置所に面会に行った。

「私は信じてる。何かの間違いに決まってる。ぜったい、無罪を勝ち取ろうね」平林は何度もそう言って、横山を励ました。


 逮捕後、2か月を経過したとき、面会に来た平林から、横山はあまりに意外なことを告げられた。


「妊娠したらしい」と。

 事故を起こして逮捕される数日前に行った男女の営みにより、新たな生命が誕生したようだ。


 それを聞いて、横山は喜ぶというよりも、困惑を感じた。

 いずれ正式に結婚するつもりはあっても、歓迎してくれる親族もおらず、方や前科者で方やバツイチとなれば、結婚式や披露宴など開けるわけもなく、ふたりとも暗黙の了解として、もし子供ができたらそれをきっかけに入籍しよう、となっていた。


 しかし、ようやく妊娠してみれば、横山は殺人の容疑者という立場に立たされていた。


「もし万が一、裁判に負けたら、産まれてくる赤ちゃんは人殺しの子供ということになってしまう。だから、無罪を勝ち取るまでは、入籍はしないでおこう」

 横山がそう言うと、平林も納得した。



 私は先に、横山と面会したときの様子を書いたが、横山が「殺人者との濡れ衣を着るのは受け入れられない」と言ったのは、こういう事情があったからだった。


「生まれてくる子供のために、人殺しになるわけにはいかない」横山は何度もそう繰り返していた。

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