容疑者について(その1)
交通事故で児童4人死亡、トラック運転手は薬物の前科があり、尿検査でも陽性反応。しかし、容疑をかたくなに否認。
このニュースが報道されると、世論は一気に沸騰した。一度実刑判決を受けて服役したにもかかわらず、再び薬物に手を出して未来ある尊い生命を奪ったなど、もはや鬼畜の所業である。
被害者遺族に同情しない者はいなかったが、特に双子の娘を亡くした父親の浜野雄介氏への哀れみと共感は最大のものとなった。
浜野氏は事件発生の一週間後、顔と実名を出して記者会見を行い、胸の内をテレビカメラの前で率直に語った。
「横山という犯人を絶対に許せない。そもそも何回もクスリをやるような危険な人間を野に放つ理由が理解できない。そういう意味では国も私たちの加害者だ」怒りに震えながら浜野氏はそう言った。
公務執行妨害の現行犯逮捕の後、横山は改めて、危険運転致死傷罪と麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で再逮捕された。
しかし、浜野氏はそれにも納得できないと記者会見で訴えた。
危険運転致死傷の最大の刑期15年、麻薬及び向精神薬取締法10年。併合罪が適用されても、横山が受ける最大の罰は懲役22年6か月となる。
「こんなひどい話がありますか。4人もの子供の生命を奪っておいて、たったの22年ですか。ぜったいに納得できません。これは明らかに殺人事件です。薬物を乱用してトラックを運転し、事故を起こした人間の罪が、殺人以外の何だと言うんですか。警察には改めて、容疑者を殺人罪で逮捕していただきたい。それができないなら、犯人をすぐに釈放してください。私が殺します」
そう言った後、浜野氏は天を仰ぎ、まるで子供のように大きな泣き声を上げた。
容疑者の横山は警察の厳しい取り調べにも関わらず、否認を貫いた。
なぜか。
私には当然、取調室のなかでの出来事を知ることはできないので、捜査関係者以外では最も事情に詳しいであろう、横山の弁護を担当した渡辺弘子弁護士に取材したときのことを記す。
ふつう弁護士事務所というのは交通の便利のため、多少テナント賃料が高くても裁判所の近くに構えることが多いが、渡辺氏の事務所は、市のはずれの工業地域に近いところに建っている、雑居ビルの二階にあった。
製造業の顧問先が多いのだろうか、と思って尋ねてみると、
「少し前まではウチも裁判所の近くにオフィスがあったんですけど、今は母親の介護をしながら仕事をしなきゃいけないので、実家近くのここに移転してきたんです」と言った。
渡辺氏は62歳。ベテランだ。刑事事件以外では、離婚とそれに関連する業務を受任することが多いという。渡辺氏の母上は94歳で、寝たきりではないものの、車いすがなければ移動できないようになっている。
「ウチは私と事務員ひとりだけの小さい事務所ですし、テレビに出てるような売れっ子弁護士と違ってそんなに仕事があるわけでもないし、少々辺鄙なとこでもそんな不便はないんです」
事務員を務める方の苗字も渡辺といい、姪に当たるということだった。
事件当日の当番弁護士だったため警察署に呼び出され横山と初めて会い、そのまま正式に代理人を引き受け弁護を担うことになった。
「横山容疑者は無実を訴えていますが、渡辺さんもそう思われてますか?」私がそう質問すると、
「ええ、もちろんです」渡辺氏はきっぱりと断言した。
渡辺氏によると、横山の主張は以下のようなものだ。
事件の前日、横山が勤務する運送会社から指示された仕事は、静岡県浜松市の港まで荷物を配送し、荷下ろしをした後に帰ってくるというものだった。荷下ろしに要する時間を考慮しても、朝8時に出発すれば遅くとも夕方6時には会社の車庫まで帰って来れる予定だったという。
しかし、横山が出発してすぐに会社の事務から、依頼主のスケジュールに手違いがあり、配送先の倉庫に入れるのは午後4時以降にならなければ無理だという連絡が入った。要するに、「早く来てもらっても困る」ということだった。
横山にしてみれば、いきなり5時間以上の待ちぼうけを食らったことになる。
仕方がないので、横山は高速道路のパーキングエリアに停車して、週刊誌を読んだりトラックのラジオを聞いたりしながら、時間をつぶした。
午後6時になってようやく倉庫での荷下ろしが終わり、帰路についた。本来ならばすでに会社に帰っていてもおかしくない時間だった。さらに運の悪いことに、マイカーで帰宅する渋滞に巻き込まれ、トラックはなかなか進まない。高速道路のインターに入ったときは、午後7時半を過ぎていた。
このままだと会社の車庫にたどり着くのは、急いでもかなり遅くなる。下手をすれば日付をまたいでしまうかもしれない。
3時間ほど夜の高速道路を運転すると、横山は自分が集中力を欠いていると自覚するようになった。昼間に待ちぼうけとなった時間は、ほとんど身体を動かさなかったが、退屈は労働よりも強い疲労を招いていた。
とりあえずパーキングエリアに停車して会社に連絡を入れると、「トラックは明日の朝8時までに会社に戻ってくれば問題ない。翌日は横山は非番になっているから、もし体調がすぐれないなら、どこかに泊まって明日の朝に帰ってきたのでもかまわない」ということだった。
しかし高速道路のなかにホテルなどあるわけもないので、寝るのは必然的にトラックの中で、ということになる。横山は運転席のシートを倒すと、念のため持ち込んでいた毛布をかぶって眠りについた。
翌朝、目が覚めたのは午前5時くらいだった。とりあえず表に出て自販機でブラックの缶コーヒーを買い、円柱状の灰皿の前に行ってタバコに火を点けた。
タバコを吸っていると、後からもうひとり、ニューヨークヤンキースのロゴが入った帽子をかぶった中年男性がやってきた。その男性もタバコを咥えて火を点けた。銘柄はショートホープ。
「どうも、おはようございます」と男性は言ったので、
「おはようございます」と横山も返事をした。
どうやら相手もトラックドライバーのようだが、もちろん面識はない。
「本日は、どちらまで?」と横山が世間話代わりに尋ねると、なんと北海道までということだった。
男性も、横山に目的地はどこか、ということを訊いてきたので、昨日あったことを手短に説明した。
それを聞くと、男性は大いに肯きながら、
「まあ、製造業が相手だと、たまにあることですねえ。荷物はすぐそこまで来てるのに、倉庫の都合で荷受けを翌日まで拒否されるなんてことも、ありますよ。ジャストインタイム方式だとか言って、最近の大手の工場は在庫を持たないように倉庫面積をわざと小さくしてるようですから、こっちはたまったもんじゃないです」と言った。
男性は、給料がいいので長距離の運転をよく引き受けると言っていた。
横山の勤務する会社は、基本的に一日で往復できる距離しか請け負わないので、今回のようなイレギュラーなケース以外では、パーキングエリアで夜を明かすということはまずない。
「いちおう、6,7時間は寝たとは思いますが、慣れてないとしんどいですね。腰や肩がみょうに凝って、いまいち頭がすっきりしない」
そんなことを話しながら、たばこがすっかり短くなったころに、
「よかったら、これ、いかがですか?」と言って、小さい茶色い瓶をポケットから取り出した。
中には小さな錠剤が入っているようだった。
「なんですか、それ?」
「眠気ざましの、カフェインです。僕みたいに長距離やってると、必須アイテムですよ。忙しいときになると、20時間くらいぶっ続けで運転させられますからね」
横山はカフェインがコーヒーに含まれている物質で眠気覚ましの効果があるということは一般常識として知っていたが、その錠剤が薬局で売られているということは知らなかった。
覚醒剤で逮捕された過去があるため、更生した今でも薬全体に対する拒否感がぬぐえなかったが、万が一居眠り運転でもして事故を起こしたら一大事となる。
「それじゃひとつ、いただいてもいいですか?」
茶色い瓶から灰色をしたカフェインの錠剤を一粒もらうと、横山はコーヒーでそれを胃に流し込んだ。
異変に気付いたのは、ハンドルを握ってから1時間ほど経過したころだった。運転していると、心臓の鼓動がやたら早くなって、頭がフラフラし始めた。軽い吐き気もする。視界がグラグラと揺らいで、まっすぐ前を向いているはずなのに、フロントガラスの向こうの景色がゆがむ。もしかして、カフェインに酔ってしまったのだろうか。
なんとか正気を維持しながら運転を継続したが、限界が近づいていた。しかし、高速道路上で停車するわけにはいかない。とにかく次のインターで降りて、駐車場の広いコンビニかどこかで休もう。
青の看板のETCゲートを通過したところまでは、意識があるという。
次に目を覚ますと、留置所に入れられていた。
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