兄妹

「今日は家に上がらせて貰ってありがとう」

「……別に、大丈夫だよ」


 会長が玄関先で僕にお礼を言ってきた。

 帰るだけなのに、なんでそんなに畏まるのだろう。


 あの後、玲奈が会長に向かって”許さない”と言った後、僕は半ば夢心地の中で驚いていた。

 あの玲奈が、会長を心から憧れていたあの玲奈が、本人に向かって敵意を剥き出しにした行為に僕は心底驚いた。

 

―――日頃から会長の真似事をするような玲奈が、まさか‥‥‥。


 

 でもだからこそ―――嬉しかった。

 こんな醜い兄の為に、あそこまで怒ってくれることが、途方もなく。

 

『―――世界でたった一人の大切な兄なんです。』


 心に響くとはああいうことなんだろうと思った。

 嬉しいなんてものじゃなかった。

 訳もなく、泣きそうになった。

 それぐらいの衝撃だったのだと思う。 


 だけど同時に辛かった。

 

―――なんでだよ玲奈‥‥‥僕の記憶は忘れたはずなのに、なんで優しくするんだ‥‥‥。僕はブサイクで気持ち悪いのに、なんでそんな優しい瞳で僕を‥‥‥。


 いっその事、罵られた方が楽だったのかもしれない。


 その方が余計な希望を持たずに済むから。


 【命分け】を使った時から決めていた。

――影でひっそりと、誰にも干渉されず、誰の目にも止まらないように暮らそうと。

  

 今となってはそんな目標、疾うに潰えたけど。


 だってその方が皆にとっていいはずだ。

 僕は醜いから、その方が―――。 

 

「‥‥‥しかし、本当に良いのかい?私は君の要望になんでも応えれるつもりだったけど」


 なんて思考に耽っていると、会長が申し訳なさそうに言ってきた。


「私のした事は到底謝罪のみで許されるような事ではない。だから――」

「何度も言うけど、大丈夫だから」


 会長の言葉を遮る様に続ける。

 あの後も会長はずっと同じようなことばかり言ってくる。

 曰く、なんでもするだとか。

 

「‥‥‥」


 正直、彼女の”なんでもする”という意味はかなりの価値を含んだものだと思う。

 天才と呼ばれた彼女のなんでもなんて、想像すらできない。

 ともすれば大金を積まれても彼女は頷かないかもしれない。


 けどそれほどの価値を、僕は断っている。


 理由は至極簡単で、僕は会長にそんな大それた事を求めていないからだ。

 それに彼女ほどの傑物とこれ以降関係を持ったことがバレれば、僕は社会的に死ぬかもしれない。

 そんなリスクがある事、僕には到底マネできない。

 

 僕はただ平穏が欲しいんだ。


 ただ、ひっそりと――――。


「そうか‥‥‥ほんと、君らしいよ」

「‥‥‥?」


 僕らしい?

 一体どういう―――、


「では、また学校で」


 そう聞く前に、彼女は僕に背を向け帰路についた。


「帰ったか……」


 なんだか、どっと疲れた気がする。

 たった一日でこんなに体力を使ったのは初めてかもしれない。

 精神的な面でかなりまいってしまった。

 まだまだ考えないといけない事はあるけど、今日はとにかく疲れたから今すぐにも寝たい。


「‥‥‥兄さん」

「っ!」


 いきなり声が聞こえたと思い背後を見ると、階段に隠れる様にこちらを見る玲奈が居た。


「ど、どうしたんだ玲奈」


 いきなり声掛けられたから驚いた‥‥‥。


「あの‥‥‥その、今日はいきなり部屋入ってごめんなさい」

「あ、あぁそんなことか。僕は全然気にしていないから大丈夫だよ」

「そう‥‥‥?」


 確かに玲奈にあの場面を見られたのは、流石に驚いた。

 だけど玲奈は何故か潔く出て行ったくれたから、あの後は思いのほかスムーズに会長を帰らせることが出来た。


「兄さん‥‥‥聞いてもいい、かな?」

「っ‥‥」


 その抽象的問いは、今の僕にとって具体に過ぎた。

 出来れば、玲奈に経緯を教えるのは避けたい。

 でも玲奈が気になるのはとても分かる。あれだけ憧れていた会長に敵意を向けたのだ。それ相応の答えが無いと、玲奈自身消化しきれないと思う。


「‥‥‥分かった。教えるよ」


 僕は掻い摘んで玲奈に説明した。



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