音楽でしか生きていけない。

聖願心理

臆病者と後輩

 私にとって、音楽は、歌は、あの時間は、言葉だった。

 どこへ向けていいのかわからない、無茶苦茶な気持ちを放り出す、唯一の手段だった。


 それ以上に、幸福がそこにはあり、永遠を望んだ。永遠に続くんだと信じていた。

 仮に壊れるとしても、ゆっくりと自然に、口の中で飴玉が溶けるように、消えていくんだと思っていた。


 でも、違った。

 終わりは唐突にやってきて。

 私は行き場を失った。



 ◇



 ヘッドフォンから流れる音が、がんがんと頭に響く。少し音に酔ってきた。

 屋上のフェンスに寄りかかるようにして、しゃがみ込む。


 それだったら聞くのをやめればいいじゃん、と人は思うだろうが、私にはやめることなんてできない。それに、激しいロックバンドを聞いて入るわけじゃないのだ。


 私が聞いてるのは、普通のピアノの伴奏。歌はついてない、伴奏オンリーの曲だ。

 柔らかさが特徴的な音。滑らかなメロディ。心地良いはずなんだが、私は痛みしか感じらない。


 これは少し前、動画投稿サイト話題になった『ネモフィラと瑠璃』の曲だ。

 芯に染み渡る声を持つ歌い手・ネモフィラ。

 心を癒やす音を奏でるピアノ伴奏・瑠璃るり

 この2人組は何の前触れもなく現れて、何の前触れもなくブームになり、何の前触れもなく消えていった。


 顔を出さない。SNSもやっていない。メジャーデビューもしていない。

 ただ、純粋に音楽だけを奏でる2人組。

 月に何本もの動画を投稿していたのに、ある日を境に投稿されなくなり、何ヶ月も経ち、自然消滅した2人組。


『ネモフィラと瑠璃』はいつの間にか、忘れ去られてた。消えていった。皆、新しい別の何かに夢中になっている。

 世の中、そんなものだ。



 ――――それでも私は、忘れられない。



 あの熱くなった瞬間を。心が軽くなった瞬間を。私が私であった瞬間を。

 私は、忘れられない。


「ねえ、れん。どこに行っちゃったの……」


 声は真っ青な空に消えていく。私の声なんて、どこにも届かない。


 がんがんと響く音に身を任せ、目を閉じる。

 悲しいことなんて、全部この音たちに呑み込まれてしまえばいい。

 まっすぐ、まっすぐ、暗い暗い音の世界に堕ちていけばいい。


 そんな乱暴な音の世界に、雑音が混じる。屋上のドアを開く音だ。

 屋上は立ち入り禁止のはずだし、普段は鍵がかかっている。まあ、その鍵はあってないようなもので、力尽くで開ければドアは開くのだけれど。

 でも、その事実を知る者は少ないはずで、この高校で過ごしてきた一年と半年、誰とも遭遇したことはなかった。


 なのに、どうして急に人が来るのだろうか。

 心音がどくどくどくと速くなる。

 臆病者の私は、極力ドアの方を見ないようした。


 ……私に用事があるわけじゃあ、ないだろうし。


「……やっと見つけました、和歌月わかつき先輩。和歌月わかつき律葉りつは先輩」


 歓喜に染まった、わずかに息を切らしたその声は、私の願望を見事に打ち破った。

 ヘッドフォンから流れてくる音を乱すようにして、彼――男性特有の低い声だった――、の声が私に届く。


 なんと反応を返せば良いのかわからず、黙っていることにした。

 こんなところまで私を探しに来るなんて、良くないこと、少なくなくとも面倒なことに決まっている。


 目を閉じて、音に沈む。

 音の世界に完全に引きこもり、周囲の雑音を消す。

 私は私をそうやって、守ってきた。だから今も、そうやって自分を守る。


 がんがんと響く音が心地良くなってきた頃。

 私の世界から音が消えた。


「先輩。無視って、酷くないですか」


 私からヘッドフォンを奪った犯人が、私を探していた彼が、目の前に立っていた。


 音を失ったことにより、どうしようどうしよう、と混乱状態に陥った。

 急に奪われると、こうして恐怖に襲われる。私はどうしようもなく、臆病者なのだ。


「……返して」


 勇気を持って振り絞ったその声は、声になったかどうかも怪しいほどの大きさで、とてつもなく震えていた。


「嫌ですよ。だってこれ返したら先輩、俺の話なんか聞いてくれないでしょう」


 そんな声でも、彼は私の声を拾ってくれた。


「……わかった。話を聞くから、返して」

「そんなにこれが大切ですか」

「私にとっては大切なの。命のように大切なの」

「そこまでですか」


 あまりの必死さに彼は笑いを漏すと、ヘッドフォンを私に返してくれた。「勝手にとってしまってすみません」という謝罪付きだった。

 戻って来た私の武器をぎゅっと胸に抱きしめる。今すぐつけてしまいたかった。けれど、彼の話を聞く約束なので、我慢する。我慢するから、ぎゅっと抱きしめる。


「隣、座ってもいいですか」

「どうぞ」


 彼は私の隣にどっかりと腰を下ろすと、空を見て話し始めた。

 私もつられて、空を見る。今日は清々しいほどの快晴だ。


「初めまして。俺は、一年の久保くぼつばさと言います」

「久保、翼くん……」

「翼でいいですよ。俺、その名前、結構好きなんで」

「つばさ、くん」


 口の中に馴染む、そして今日の快晴に映える名前だった。


「和歌月先輩。先輩にお願いがあってきたんです」


 翼くんの声が、今まで以上に真剣なものとなる。表情が気になって、目線を空から翼くんの横顔に移す。


「先輩に俺の歌を歌ってほしいんです。俺の作った歌を歌ってほしいんです」


 翼くんの口から出た予想外の言葉に、決して言われたくなかったその言葉に、ひゅ、と息が漏れる。鼓動が速くなり、ヘッドフォンを抱きしめていた手が震える。


「……どうして、私なの」

「先輩の声が好きだからです」


 そう言うと翼くんは、私の方を見てくる。当然ながら、目が合った。

 翼くんの茶色の混じる黒くて真剣な瞳に、吸い込まれそうになった。目を合わせたことを後悔した。


「先輩の、の声に、俺は惚れてるんです」


 どうしてそれを、という言葉は声にならなかった。

 今まで誰にも知られていなかった事実が、あっさりと彼の口から漏れた。その驚きが私には隠せなかった。隠すことなんてできなかった。


「和歌月律葉先輩。先輩は、『ネモフィラと瑠璃』の歌い手・ネモフィラですよね?」


 翼くんの瞳はますます力を増していく。


「……どうして、わかったの」


 もう失われたはずの、“私”を引き戻す言葉。

 ネモフィラという、もうひとつの、いや、本当の私を、見つけたその言葉。

 見つけて貰えた嬉しさとその私は二度と戻らない悲しさに襲われた。


「わかりますよ。好きな声を間違えるはずないじゃないですか」

「……そうなの」

「むしろ今までバレてないことが不思議なくらいです。どうしてみんな、気がつかないんでしょうね?」


 真っ直ぐな瞳を歪めるようにして、翼くんは笑った。なんだか懐かしいような気がしたけど、彼とは初対面だし、気のせいだと思う。

 心地の良い快晴と吸い込まれそうな瞳、そして秘密がバレたことによって生まれた気のせい、そう思うことにした。そう思わないと、漠然とした何かが崩れてしまいそうな気がしたから。


 何かってなんだろう。

 私? 彼? 世界? それとも、ここにある偽物?


 そんな変なことを考えていると、翼くんがまた、口を開く。


「先輩、俺の歌を歌ってもらえませんか。歌ってくれるだけでいいんです。他に何も求めません。求めていません」


 決してふざけたお願いではなかった。ミーハーな気持ちで言っている声音でもなかった。

 彼は純粋に私の声が、歌が好きで、だから歌ってもらいたいのだと、真剣に考えていることが嫌でも伝わってきた。


 だからこそ、心苦しい。


「……ごめんなさい」


 私にはその願いを叶えてあげることはできない。


「理由を聞いても良いですか」

「……もう、歌はやめたの。やめたっていうよりは、歌えないって方が正しいのかな」


 私にはもう、歌う理由も曲もない。歌ってもただ虚しいだけだ。

 彼のいない場所で歌うなんて、私にできるはずもなかった。


 ごめんね、と彼の瞳をしっかり見て、もう一度謝った。

 彼の真摯な願いを叶えてあげることのできない罪悪感で、押しつぶされそうだった。なんて私は無力なんだろう。


 翼くんは私から視線を逸らすようにしてうつむいた。

 胸がきゅっとなる。


「…………和歌月先輩」


 少し間を開けて、翼くんは私の名前を呼んだ。


「また歌えるようになったら、俺の歌、歌ってくれますか」


 決意がこもった瞳に、私が映る。


「歌えたら、だけど」

「本当ですね」

「うん」


 でもきっと、私は二度と歌えない。


「俺が先輩を、また歌えるようにします」

「無理だよ」


 彼の決意が眩しくて、つい否定する言葉を漏してしまう。


「無理じゃないです」

「無理なの。私にはもう、何もないから。空っぽだから。奇跡が起こらない限り、無理なの……」

「だったら、俺が奇跡を起こしてみせます」

「そんな簡単に起こせるものじゃないよ」


 私の言葉に、翼くんはいたずらを企む子供のように笑う。


「知らないんですか、先輩。奇跡って簡単に起こるものなんですよ」



 こうして、私と翼くんの奇妙な関係が始まった。

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