命の面
中谷Φ(なかたにファイ)
読切【命の面】前編
2019年の八月初旬。大学二年生の私、顔 美春(かお みはる)は着替えと化粧品の詰まった小さな旅行鞄をゴロゴロと転がしながら山中の一本道を進んでいた。
最近の地球温暖化のせいで日本でも真夏の暑さは殺人的な域に踏み込みつつあるが、ここは深い自然の森の中なうえ標高の高い山道ということもあってか
向かう先は
飛騨山脈の西。月に5本あるバスを降りてからこの細い山道を1時間ほど歩いた先に見無村はある。
女性一人では危ないと思われそうだが、この辺りにはクマやイノシシのような獰猛な野生動物が出ることはないので特に危険もない。
見無村に行くよう頼んできた母も態度も気楽なものだった。
毎年夏になると私の母は村の手伝いで里帰りしていた。だが少子高齢化と夫婦共働きが当たり前の今の時代、とうとうパートが抜けられなくなり私が代役と選ばれたわけだ。
お小遣いもそれなりに出たので、暑い夏をこの避暑地で過ごせるならと私は母の頼みを二つ返事で引き受けた。
♦♦♦
「おじいちゃーん久しぶりーっ!元気してた?」
「ん?お?おぉ~、美春ちゃんか?ずいぶんと美人さんになったのう。」
「でしょ~、小学生の時とは違うんだから。」
長い山道を歩き切り村の入り口にたどり着くと、記憶の中にあるままの祖父が長めのしめ縄を持ちせっせと作業をしているところだった。
「お母さんが言ってた祭りの手伝いってそれ?」
「あぁそうだとも。これを今日明日中に村の出入り口全部に飾るんじゃ。美春ちゃんは明日からでいいから今日は家でゆっくりしておくれ。婆さんがスイカを冷やして待っとるよ。」
「ほんと!ありがとう、おじいちゃん。それじゃ先いくね。」
♦♦♦
母の生家に着くと、祖父の言う通り祖母がキンキンに冷えたスイカをごちそうしてくれた。
程よく熟れたスイカに子供のようにかぶりつくと瑞々しい甘さが口に広がる。
八等分に切ったスイカを三切れも食べたころには口の周りはべったりと赤くなってしまっていた。
大学の友達の前じゃこんな顔絶対に見せられない。母の前でもできないし、祖父の前でもあまりしたくはない。顔は女の命だから。こんな化粧も崩れてスイカ汁だらけの酷い顔は、特に優しい祖母の前だからこそできる顔だった。
「おばあちゃーん、タオルか布巾ないー?」
駄々っ子のように祖母に口を拭くものを求めると紙の切り抜きをしていた祖母は「はいはい」と笑顔で真っ白なタオルを持って来てくれた。
そして祖母は座敷の長机の向かいでまた作業に戻る。
「おばあちゃん。それは何を作ってるの?」
私はタオルで口を拭きながら祖母に尋ねた。
「これはねぇ。ヒトカタって言うのよ。」
「ヒトカタ…?なんだっけ?」
現代っ子の癖でスマホを取り出し検索しようとするが、山の中ということもあり圏外だった。
「ヒトカタにはね、悪いものから守ってくれる力があるの。祭りの間は村のあちこちにこれを貼って、悪いものが村の外から入ってこないようにするの。」
祖母はそう言いながら長机の下から完成品を取り出す。
ヒトカタは大まかに言えば顔に目が開けられたT字型や大の字型の紙人形で、その所々に独特な切り方や折り目など細かな細工が施されている。
「これって私も作っていいのかな?」
「うんうん、たぁくさん要るからねぇ。美春ちゃん、今からやってみるかい?」
「うん、やるやるー。」
私はその後、祖母にヒトカタの切り方を教わって挑戦してみたが作業は思いのほか難航した。なんどもなんどもリテイクを繰り返してヒトカタを作り続けること数時間。祖母が納得する出来栄えのものがやっと一つできた頃にはすっかり日も落ちてしまっていた。
その後すぐに帰ってきた祖父を交えて夕食を取ったが、村まで歩いたこととヒトカタ作りに没頭したせいで疲れ切っていた私はすぐに眠りに落ちてしまった。
♦♦♦
明くる日の午後、私は祖父に連れられ村の入り口まで来ていた。
入り口の両端にそびえる木の間には力強さを感じるしめ縄が三重に張られている。
三本もの丈夫なしめ縄が村の入り口を塞ぐように張られているのは圧巻だが、同時に私は何か物々しい息苦しさを感じて少しだけ怖くなる。
「美春ちゃん。今朝は婆さんとヒトカタを切ってたようじゃが、どれくらいできたかの?」
「ふふーん。20個は作ったわよおじいちゃん。私、昨日ずっと練習してたからね。」
「そりゃあ上出来じゃの。じゃあそれも合わせて入り口の木と近くの木にヒトカタを張っていっておくれ。」
「りょーかい、おじいちゃん。」
私は祖父と反対側の木に意気揚々と駆け寄ると、会心の出来のヒトカタを一つ一つ貼り付けていく。
木の幹を傷つけないために釘などは使わず、それぞれの木の皮を三分の一ほどはがしてその間にひとつづつ挟み込んでいくのだ。
余り無理をすると木の皮が取れてしまうので、中腰の地味で丁寧な作業が続き昨日とは別の疲れが襲ってくる。自分が手伝いで呼ばれたのはこれが理由かと納得してしまうキツさだ。
だがその地味な作業も二時間ほど。入り口周りの木はヒトカタに覆いつくされて、幹が真っ白に変わってしまったかのようだった。
私はふと、さっきの息苦しさを思い出して祖父に尋ねた。
「おじいちゃん。ヒトカタって悪いものが入ってこないようにする為のものなんだよね?」
「ん?あぁ、そうだとも。」
「でも…、こんな風に何本もの縄でふさいだりヒトカタを何百個もつけたり大変だよね、なんでここまでしなくちゃいけないの?」
「ん?んん…、そうだな…。」
私の疑問に祖父は珍しく歯切れが悪く答える。昔から聞いたことにはすぐに答えてくれた祖父がこんな反応を見せるのは初めてだった。
「――――昔から続く祭りにはな、どこでもそうすべき決まり――掟のようなもんがあるもんじゃ。この村の祭りもそう。掟を守っておけば悪いものは絶対入ってこんし、出ていくこともない。あとは難しく考えんほうが村の皆のためになるんじゃよ。」
「――――ふぅん。」
村には村のルールがある、ということだろうか。
祖父の言っていることはよく分からなかったが私はそういうことだと適当に納得することにした。
「さぁ美春ちゃん。明日は祭りじゃ。今晩は早めに寝なさい。ぜったい夜更かししちゃいかんぞ。」
「分かってるよー、わたしもう子供じゃないんだから。」
私たちはそうやって軽く談笑すると作業を終えて帰宅した。
家に帰ると、祖母が祭りの準備を労って地元の鍋料理を作っていてくれた。
すりつぶした大豆をふんだんに使った鍋で、夏なのに涼しい見無村の夜で冷える体にはぴったりの料理だった。
故郷の味は舌にも合い、私は何度もおかわりしてお腹をいっぱいにしてから眠りについた。
♦♦♦
ぶるりと寒さに体を震わせ目を覚ますと、部屋は仄かな月明かりだけの薄暗い闇に包まれていた。祖母が用意してくれた布団からごそごそと這い出て、カバンの中のスマホを見れば時間は2時13分。
すぐにでもトイレに駆け込みたい気分を考えると、どうやら昨日の鍋で水分を取りすぎたとすぐ思い当たる。
寝ぼけまなこでスマホを見ていると大学の先輩からRINEの通知まで入っていた。時間はおとといのバスを降りる直前。山の中でも電波が来るところがあるのだろうか?
メッセージには「いそいで返事が欲しい」とあるのですぐに返事を送りたいが村を出るのは5日以上先だ。ならばもう村の中で電波の通じる場所を探すほかはない。
トイレを済ませると、私は体が冷えないように上着を羽織って家をこっそり抜け出した。
♦♦♦
スマホの電波マークと睨み合いをしながら10分ほど家の周辺を歩き回ってみた。
だが電波が立つ気配は一向になく、私は気づくと昨日の午後にヒトカタを貼った村の入り口まで歩いてきてしまっていた。
入り口は昨日と変わらず3本のしめ縄で塞がれ、夜風に吹かれてカサカサと音を立てるおびただしい数のヒトカタが闇の中で睨みを利かせている。
ここでもスマホの電波状況を見てみたが、表示は相変わらず圏外のまま。
私はがっくりと肩を落とすと先輩への連絡を諦めて踵を返そうとした。
だがその時、ふと視界の隅に白い何かが映りこんだ。
木に張り付けたヒトカタ達ではない。
村の入り口から少し離れた
月明かりを受けて闇の中でぼうっと浮かび上がるように光って見える彼女はどこか不気味でどこか異常な存在だった。
村の住人なのだろうか?
こんな時間に畑で何をしてるのだろう?
いくつかの疑問が湧いたが、――私には関係ない。そう思って家へと帰ろうとした時、その女性がゆっくりとこちらへ振り向いた。
「―――えっ?」
彼女の顔を見た瞬間、私は今までの認識が甘かったと悟った。
どこか異常、などではない。
彼女は明らかにおかしかった。
彼女の顔には何もなかった。いや、正確には凹凸のないのっぺりとした純白のお面を被っていたのだ。
この深夜の薄闇の中で15メートルは離れているのにも関わらず、目の穴も開いていないお面を被った顔が私を真っすぐに見つめている。
私が闇の中に佇む彼女の異様さに怯えていると、彼女がスッと右手を持ち上げた。
それと同時に袖がずれ、彼女のすらりと伸びた手があらわになる。
「――ひっ……。」
私はそこでとうとう声を上げそうになった。
異様に白かったのだ。
彼女の手は彼女が来ているワンピースと同じくらい青白い。
その皮膚は服と同じように闇の中で不気味な白さを発し、およそまともな人間とは思えない。
地面に水平に上げられた右手は徐々に彼女の顔へと近づき、彼女の被るお面へと手がかかった。
――逃げなきゃ。
恐怖で凍てついた私の中の危険信号がそこでようやく警報を鳴らした。
――怖い。――怖い。――怖い。
何なのか分からない。分からないけど、彼女がお面を取ってしまえば私は恐ろしい目に合うと本能が叫んでいる。
だが、恐怖から覚めたのは頭だけで体はまるで凍り付いてしまったように動かない。
――もうだめだ。
そう思った時、びゅう、と強い風が吹いた。
木に張り付けらたヒトカタ達が――ざざあっ、――バタバタバタ、っと威嚇音を響かせる。
途端、彼女の視線がそれて私の体に熱が戻るのを感じた。
私はそこから一目散に逃げだすと、振り返ることなく家に戻り布団の中へと潜り込んだ。スマホの電源を切り、万に一つも明かりが漏れないようにした。
――追ってこないで。――追ってこないで。――追ってこないで…ッ。
今の私にできるのは、「彼女の顔は見たくない」とただただ一心に祈ることだけだった―――。
―――さらさら。―――かちゃり。―――ぴちゃん。
何か分からない音がするたび
時折、びゅうびゅうと吹き付ける風が窓や雨戸をガタガタと揺らす。
そのたびに私は、彼女がやって来たんじゃないかと、私を追って家の中へ入って来たんじゃないかと震えた。
忘れよう忘れようとしても彼女の姿が脳裏に焼き付き、彼女の面の下にある素顔を想像させてしまう。
なんどもなんども布団の中で終わらぬ恐怖と戦い続けて心身疲れ果てた頃、小さな声が聞こえた。
「――――ン……。―――――ァン……。」
だがもう体を強張らせるだけの力もない。
深い諦めが私を覆い、声の主が近づいてくる。
「―――るち~ゃん。――美春ちゃ~ん。朝ご飯ができましたよー。」
のそのそと布団から這い出ると
(後編へ)
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