1.ゲームをしましょう(その4)

 警備員や一部の客は、全身から威圧感を醸し出す若き白兎の登場に気付くと、にわかに畏まった。

「これはオーナー……!」

「メアリー・アン様……」

 彼女はもともと、この町に住む上級役人の白兎の家に仕えるメイドであった。ところが革命時の混乱に乗じて彼女は白兎の養女となり、老いを理由にして彼を無理矢理引退させたのだ。そうして引き継いだ財産を使って政府公認のカジノを建て、オーナーとして莫大な収入と絶大なる権力を手にしているのである。

「……メアリー……!」

 トカゲのビルが、憎しみを押し殺すようにして呟いた。彼とメアリーは、革命以前は同じ主人の白兎の家で働いていた、使用人仲間である。それが、今ではまるで月とスッポンほどの差が付いてしまったのだ。

 元メイドのメアリーは、ルーレット台に隠れるようにしてかがんでいるビルをまるでゴミを見るかのように一瞥すると、すぐに問題のよそ者に視線を戻した。紳士は羽交い絞めにされたまま、なんとか呼吸を落ち着けてメアリーに言った。

「フゥ……、あなたがこのカジノの……。騒ぎになってしまって申し訳ないですが……、印象操作というのは、正しくありませんね。数学的には事実ですか」

 ドムッ!

 メアリー・アンが僅かに顎を動かしたのとほとんど同時に、再び警備員の強烈なボディーブローが紳士に突き刺さった。

「ガッ……! カハッ……!」

 紳士は再び悶え苦しむが、メアリーは明るい笑顔を客の方に向け、高らかに言った。

「皆様! 所詮計算は計算ですわッ! ポケットをぱんぱんに膨らませてお帰りの方だって、毎晩必ずいらっしゃるでしょうッ?」

「……それ、は、確率……」

 紳士が息も絶え絶えに言いかけるが、メアリー・アンはそばにいたウエイトレスのトレイからシャンパングラスを一つ取って、紳士の顔に酒を浴びせた。

「ワタクシは皆様の真剣勝負を応援していますの。他のお客様を惑わすようなデマは……」

 続いて彼女はグラスをルーレット台の縁に叩きつけ、割った。

「ワタクシ、許しませんことよ♪」

 メアリーは微笑みながら、割れたグラスを持って、その尖った先を紳士の顔に近付けていく。紳士はもちろんの事、脇で縮こまっているビルも戦慄を覚えるが、周囲の警備員はおろか客の大半は、好奇の眼差しで黙ってそれを見つめている。『ブラッディー・メアリー』――問題を起こした客に容赦なく血の制裁を加えるオーナーを、客たちは陰でそう呼んでいた。

 と、その時だった。

「……ゲーフオシワショー……」

 今にもガラスの切っ先が当たりそうな唇を動かして、旅の紳士が何か言ったのだ。メアリー・アンの手が思わず引っ込められる。すると彼は、今度ははっきりと言葉を発した。

「ゲームをしましょう……! 私とあなたで、勝負するんです!」

 メアリー・アンは一瞬唖然とし、客たちは再びざわつき始めた。しかし間もなくメアリーは歪んだ笑みを浮かべると、グラスの柄をゆっくりと振りながら言った。

「勝負……? いったいどういう事かしら?」

 トカゲのビルも全く同じ質問をしたかった。初めは風変わりな紳士だと思った。それが博打の秘訣を知っていると言うので信じたところ、彼はカジノの不正を公然と暴露したのだ。その彼が、事ここに至って、ゲームで勝負とは。

「子供の頃、よくやったでしょう?」

 ビルの疑問をよそに、紳士は顔から酒を滴らせながら、どこか笑顔で言う。

「『勝った方は負けた方に、何でも一つ命令できる』って!」

 周囲の者たちはざわついたが、メアリー・アンは思わず噴き出した。

「ホホッ! なるほど。そちらが勝ったら見逃せと?」

「いえいえ、とんでもない! そうじゃなくてですね……、」紳士は言った。「そのおっかないグラスも含めて……、『全て』です。私が勝った暁には……! あなたの持つ全て、カジノの全てを私がいただきます!」

 その瞬間、どよめきで室内が震えた。

「うおおお……! イカレてる!」

「神をも恐れぬ強欲! ギャンブラーの鑑だぜ!」

「滅茶苦茶だけどスケールが違え!」

「待ってました! いいぞッ! やれやれ!」

 客たちは顔を赤くして騒ぎ立てるが、トカゲのビルの顔は青ざめていた。そしてメアリー・アンはと言えば、周囲の熱狂をきょろきょろと気にしながらも、その表情は落ち着いていた。

 オーナー相手に一対一のノーリミットあおてんじょうの勝負を挑むイカレた客はしばしばいる。そしてその全てを、メアリー・アンはさばいてきたのだ。客の多くはその事実を知っている。それ故、トカゲのビルも思わず紳士に向かって言った。

「旦那っ! いけねえ! 分かってんのか? カジノ丸ごと賭けろなんて言ったら……!」

 紳士は羽交い絞めの体勢のまま横目でビルを見ると、声を落として彼に言った。

「ええ、もちろん……。分かってますよ。釣り合い的にも、常識的にも、物語的にも……、ただでは済まない事は明らか……」

 紳士の表情には緊張が見られるものの、その目は真剣だった。ビルは言葉を失い、メアリー・アンも黙って男を見据えた。彼女は考えていた。

 ……この男、味な真似を……。クレーマーかと思ったが、最初からアタシとの勝負が目的で……。けど! 結局はこいつもギャンブル中毒者って事! 即ち、カモさ!

 彼女は黙ったまま手で合図し、紳士の拘束を解かせた。紳士は深く息をつき、肩や腕を回しながら、先ほどの酒をハンカチで拭う。メアリーはその様子を見ながら、密かにほくそ笑んだ。

 ……さあて、どうやってこいつで金儲けしようかしら? どうやってこいつは泣き喚くのかしら? ……アタシには絶対、勝てないとも知らずに……!

「ホホッ!」

 メアリーは割れたグラスをウエイトレスに下げさせると、紳士に向かって大声で言った。

「お客様の決意の挑戦、ワタクシ謹んでお受けいたしますわ!」

 客たちがどよめいた。紳士はハンカチをポケットにしまいながら言う。

「流石オーナー! 『はなせます』、なんちゃって! では私が負けたら――」

「それは追い追い」

 メアリーが紳士の言葉を遮って言った。

「それより勝負の内容ですわ。ここはやっぱり、ポーカーなんていかがかしら?」

「ダメだッ!」

 叫んだのはトカゲのビルだ。メアリー・アンは彼を睨みつけ、警備員たちは今にも取り押さえようと身構えるが、ビルは紳士に近付いてまくし立てた。

「旦那ッ、ポーカーはダメだ! メアリーは昔っからポーカーで、ただの一度も負けた試しがねえんだ……! 相手が悪すぎる!」

 紳士は顎に手を当てながら言う。

「うーん、しかし……、せっかく勝負を受けてくださるというのに……」

 ビルは悲痛な顔をして紳士に言う。

「そもそもッ! オイラぁあんたに、こんな勝負してほしくねえんだッ……! 旦那は変わってるけどいい人だ。今からでも取りやめて……」

 ここでウサギのメアリーが大声で言った。

「ビル! そこの老いぼれトカゲ! やると決まった勝負ですのよ? 水を差さないでくださります? ワタクシ忙しいんですの。時は金なりですわ!」

 彼女は腰に下げた大きな時計を手に取って見る。ビルも思わずその時計を見た。時計を目にするのは久しぶりだ。なぜならカジノの中には、客が時間を忘れてギャンブルに夢中になるように、時計の類は一切置いていないからだ。ビルはかつて白兎の家で働いていた時に置いてあった、数々の時計を思い出した。……チク・タク・チク・タク……。ご主人はいつも時間を気にしていたっけ……。

「……チクタク、トー……、ゲーム……」

 ビルが呟いた。紳士が片方の眉だけをぴくりと動かす。ビルは自分の口をついて出た言葉を、後から自覚して目の色を変えた。

「へ……、へへ……! そうだ! それだ! チクタクトーゲームだ! それで勝負すりゃあいい! な? 旦那……! そうしてくれ!」

「チクタクトー? いったいなんの事ですの?」

 メアリーは苛立ちながら言ったが、紳士は笑って彼女に言う。

「フフッ……。なるほどなるほど……。いいですね……! それで行きましょうか。あなたも知ってるゲームですよ。早い話が英語に直すと……、ずばり、『○×ゲーム』です!」

「○×! マルバツですって?」

 メアリーは嘲笑い、客たちは戸惑った。メアリーはビルと紳士の顔を交互に見て言う。

「ホホッ! 怖気づいたのかしら? ○×ゲームなんて子供の遊び! ちょっと先読みできれば必ず引き分けに終わる、単純で下らないゲームですわ! 勝負はする、けどやっぱり負けるのは嫌だからって、引き分けありきでお茶を濁そうってわけですの?」

 ビルは返事はせず、メアリーをちょっと睨んだ後、哀願するように紳士の顔を見た。彼は同意してくれたはずだ。

 が、紳士はメアリーに向かって、次のように言ったのである。

「……単純で下らない? なら、もっと楽しくすればいいんです……! フフッ! いいアイデアが浮かびまして! ○×ゲームが引き分けばかりなのはですね、駒も先の動きも丸見えだからです。そこに一つだけ……、ほんのちょっとした要素を加える……」

 紳士は笑みを浮かべながら喋るが、ビルの表情はみるみる曇り、メアリーの顔からも笑いが消えていく。紳士は声高に言った。

「プラスする要素、それは『罠』です……! お互い一箇所ずつ、盤面に罠を仕掛ける! 変えるのです。生きるか死ぬかの、ギャンブルゲームに!」

 周囲の客は一斉に歓声を上げた。

「おおお! 面白そうだ!」

「オリジナルゲームか! やれやれ!」

「○×をギャンブルに! どうなるってッ?」

「スゲエぞ兄ちゃん、イカレてるッ!」

 トカゲのビルはめまいを覚えていた。客たちは最早興奮で我を忘れ、目を血走らせている。こうなれば彼らは歯止めが利かない。無理矢理にでも二人にゲームをやらせるだろう。群集心理というやつだ。オーナーのメアリーの権力を持ってしても、下手な抵抗はできない。彼らが更に調子に乗って暴徒化すれば、先の革命の再現になってしまうからだ。

 メアリー・アンは若干動揺しながらも、紳士の提案したゲームの内容を推測し、その結果、密かにほくそ笑んだ。それから彼女は挑戦者の顔を正面から見据えると、声を張り上げてこう言った。

「いいでしょうッ! 楽しい勝負になりそうですわ!」

 紳士は不敵に微笑んだ。ビルも最早、覚悟を決めるしかなかった。この奇妙な優男を、なんとかして勝たせて――恐ろしい破滅から、逃れさせてやりたかった。

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