第22話 自分という人間(1)
昔から、人付き合いが苦手でした。
それは私の、狡猾でもある自己中心的な性格のせいです。私は基本、自分自身のことしか考えていません。
小学生とかの幼少の頃であれば誰しもが、たくさんお友達を作りましょう、とか、お友達と仲良くしましょう、といったことを口酸っぱく教えられると思います。私はその教えについて「友達が多ければそれだけステータスとなり、優れた人間になる」と間違った方向の解釈をしてしまったのです。まあ、友人が多ければそれだけ影響力が増しますので、あながち間違いとは言い難いですけどね。大人の社会でいうところの資産家や権力者といったものは、子供の社会において友達が多い人気者のことを指すと、当時の私は本気で思っていたのです。
とにもかくにも、自身の価値を高めるためにあらゆる手段を尽くして友達作りに励んだ、というのが私の子供時代でした。それは相手のことなど微塵も考えていない、物で釣り、嘘で欺き、己を誇示するという、あまりにも身勝手な行動でした。
まだ無邪気な年頃ならそれでもよいでしょう。自分も相手も深く理解できる判断力はないのですから、思惑など関係なくお互い単純でいられます。しかし年齢を重ねるにつれ友達作りの裏に潜む歪みが表面化し、関係はすれ違っていきます。自分の価値のために他者と仲良くしようとしているため関係性に中身が伴っておらず、相手からしたら厄介な存在でしかないのです。なにせ当時の私にとって友達とはアクセサリーか何かの類でしかなかったので、それは向こうにとってはとても気分のよいものではありません。「ウザい」や「鬱陶しい」、はたまた「馴れ馴れしい」といった感情を言外に示され、果てには直接言葉で告げられることもありました。それが私の小学生時代でした。
中学校に入学しても根本は変わりませんでした。むしろ思春期になったことでより考えを拗らせていました。
人間関係において肩書があると便利であることに気がついた私は、部活動に入部すれば部活仲間という建前が無条件で入手できるため、自分の学年の中で一番部員数の多い運動部に入ることにしたのです。別にそのスポーツに興味があったわけではなく、正直試合の勝敗などどうでもよかったですが、苦楽をともにさえしていれば繋がりを持つことができると、中学生の残念な頭で思っていました。
しかし部活仲間はあくまで部活動という前提があってでしか効力がありません。一年生や二年生のときは繋がりがあったものの、部活動を引退して受験に専念する三年生になると仲間との関係は希薄になりました。なにせ当時の私は部活仲間のことを、試合を行うにあたり必要となるただの駒としか認識していませんでした。当然そういった私の態度は相手にも伝わってしまうもので、チームメイトとして頼られることはあっても友人として頼られることなど一度もありませんでした。
小学校の頃も中学校の頃も、私は交友関係を広げようとする一方で関係を深めようとはしませんでした。一言に、馴れ合いが嫌いでした。他者と馴れ合ってしまえば、私も他者にとってのアクセサリーや駒に成り果ててしまうのではないかと恐れていたのです。とりわけ女の子たちは繋がりを大切にする気持ちが強いので、私の性格は女子社会において逆行をしていました。だからといって独りになるわけにはいきません。顔が広いことはすなわちステータス、友達もいない独りぼっちは存在する価値すらない底辺、と盲信していたので、無理してでも接点を多く確保しなければならないと思い込んでいました。とにもかくにも、身勝手で人一倍プライドはあるものの中身が伴っていない私は、中学三年生の二学期が終わる頃には誰からも相手にされず孤立する立場になっていました。
中身や価値などといったものは脆いものでしかなく、何をどうやってもうまくいかない人間関係に、私は早くも人生の挫折を味わっていました。ステータスとしての友人関係という意識を改善すれば解決するのですが、しかし幼少の頃からの長年培った意識は、そうたやすく変わるものでもなく、どうするべきか見失っていました。
とりあえず小学校中学校と悪目立ちしてしまったこともあり、高校では人間関係をリセットしたいがために、同じ中学校から受験する生徒が少ない学校を選びました。高校生になる頃には無理に自分の人間としての価値を高めようとはせず、身の丈に合った立場で無難に過ごすことにしました。高校生として受けがよく一般的な身だしなみをし、緩い関係でつるむことができる友人さえ何人か確保していれば、学校で孤立することはありません。中身がある深い関係を築けないというのなら、築けないなりにひっそり過ごせばそれでいいと思いました。
それは功を奏したといえるでしょう。教室で物静かに過ごしていたせいかクラスメイトからは、ミステリアスで雰囲気いいとか、意外と不思議ちゃんで可愛いところがある、などと噂され、キモいとか根暗といったネガティブな評価を聞いたことがないので、少なからず最悪な印象ではなかったと自負しています。また一部生徒からは、天才肌で頼りになるとして一目置かれていました。しまいには数人から告白されることもあったのです。しかも男子だけではなくなぜか同性である女子からも。無理に歩み寄らず一歩引いた人間関係にした途端この変わりようですから、高校生の私は真面目に人間関係の価値について考えざるを得ませんでした。ちなみに自分の性格をよく理解しているため、結局誰とも付き合いませんでした。
人間関係はそこまで高尚なものでもなく、適当に無難にしていれば大抵うまくいってしまうことを学んだことにより、友人はステータスといった悪い解釈は徐々に薄れていきました。一方で、自分にメリットのある有益な人物と関わりを持っていれば得する、といった損得勘定での人間関係を見出してしまい、私の人付き合いの解釈は矯正されることはありませんでした。友人は量より質、ということです。私はどこまでも残念な人間であるようです。
ここに至ってから、私は生まれながらにしてソシオパスなのではないかと、そう疑念を抱きました。精神異常者であるサイコパスの人間関係版。反社会性パーソナリティ障害。共感性に乏しく自己中心的な思考の持ち主。ソシオパスという言葉を知ってから自分なりに調べていくと、その特徴に自分自身が面白いほど当てはまっているものですから、私としては妙に納得してしまいました。犯罪をするほど重症ではないものの、自分は軽度のソシオパスなのだと。もちろん専門家にそう診断されたわけではないですが、しかし自称ソシオパスとしてある程度割り切ることができたのです。
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