三章

第20話 巡る季節(1)




 まつりの父親との邂逅と、波乱を呼んだいじめ問題という、ある意味では衝撃的な出来事が過ぎてから、私は彼女のギターを預かってしっかり調整することにしました。別に彼女のために特別なことをしてあげようという気概はなく、単純に以前、出会った当初に楽器の調子を見てからもう半年も経過していたので、時期的に一度プロの診断を受けた方がいいと、現役の楽器職人として判断したためです。


 まつりは「料金はいくらですか?」と不安気に尋ねるので、私は「ツケにしてあげる」と答えたものの、真面目な彼女は「でも……」と気後れするものですから、私としては以前も言ったように「子供がお金の心配なんかするもんじゃない」と諭しました。まつりは遠慮がちに「ではお願いします」と言いながらギグケースを預けてくれました。要望を窺ったら「弾きやすくなればいいです」と答えました。


「明日には返すよ」とまつりには言ったものの、実際の作業時間としては一時間程度のもの。話をしたのは夕方でそこから工房に戻って作業するわけにもいかず、朝一で作業を済ませても日中まつりは学校へ行っていて返せないので、結果として一日預かることにしたのです。


 以前まつりは、リサイクルショップで購入したと言っていました。おそらく再販される際まともにメンテナンスされなかったのと、購入後の路上での酷使によって、楽器には粗大ごみと見間違うくらいの使用感がありました。


 まずはオーバーホールとして楽器全体をクリーニングし、金属パーツも全て磨く。といってもアコースティックギターなので、パーツ数自体はかなり少なく、そこまで苦労するものでもありません。塗装面にこびりついた汚れも溶剤を駆使して洗浄すれば容易に落とせますし、ボディ内に入り込んだ大量の埃も、サウンドホールから集塵機のホースとエアコンプレッサーのノズルを入れ、空気で吹き飛ばしたそばから吸い込めば除去できます。


 次いで組み込んで楽器としての調整ですが、こちらはまつりの演奏に合わせる方向で作業しました。女性でかつまだ子供のためか、手が小さくか弱いためにしっかり押弦できていない場面がまだあるため、弾きやすさ重視としてサドルを削って弦高を下げ、張る弦の太さゲージも細いものを選び、軽いタッチで弦を押さえられるようにしました。音の張りはやや損なわれますが、しかし正常に押弦できず音が鳴らせないよりはいいです。調整によって限界まで弾きやすさを底上げしましたので、あとは本人の練習次第となります。


 そうして、ほぼ新品同様にまで磨かれ、かつ投げ売りされていた格安楽器とは思えないほどの演奏性を獲得したギターを、私は夕方の柏駅前にてまつりに返却した。受け取った彼女は瞠目し、「まるで別物みたい!」と感嘆の声をあげました。試しとして少し演奏してみると、今までしっかり押さえることができなかったギターコードが容易に鳴らすことができ、深く感動している様子でした。


「今まで鳴らせなかったのはギターのせいだったんですね」とまつりは言うものですから、私は「楽器は演奏者に合わせて調整するものよ」と言っておきました。普段のまつりの演奏から楽器の改善点を見抜き、今回はそこを修正したことを伝えると、「やっぱり師匠は師匠ですね」と彼女は微笑みました。一応「これで下手くそを楽器のせいにすることができなくなったから、あとは自分の努力でなんとかしな」と忠告をすると、まつりは屈託なくハキハキとした調子で「ハイッ」といい返事をしました。



 そして事実、こののちまつりは目覚ましい成長を遂げました。



 演奏性が格段に向上したギターに、日々の独学ボイストレーニングの成果も発揮し、彼女の路上ライブは以前に比べてかなりまともとなりました。加えてSF小説によって患った中二病により、楽曲の歌詞も文学的で意味ありげなものに練磨されていき、確かなテーマ性やメッセージ性を獲得しつつありました。未だ立ち止まって聴いてくれる通行人はいないものの、しかし歩きながら彼女の方に振り向く人や、歩調を緩めて通過する人が増えている印象を覚えたので、観客を得るのは時間の問題だと感じました。



 そうして十月、十一月と過ぎ、凍てつく冬が本格化してきました。


「さすがに冬は休業したら」


 そう助言する私も年齢にふさわしいシックなコートを羽織っていて、季節としては長時間外にいるような時期ではなくなっていました。まつりと会う時間もこれまでと変わっていないものの、しかし柏駅前は既に日没しており、空は夜の帳が下りている。通行人だって寒さのせいか足早に歩いているくらいでした。


 そんな冬の到来にも関わらず、まつりはいつもの閉店した百貨店のシャッター前に立って、駅前の街灯をスポットライト代わりにして路上ライブをしている。彼女自身だって、中学校の制服の上にダッフルコートを着込み、膝丈スカートから伸びる細い脚は黒いタイツに包まれていて、しっかり防寒対策をしています。


 しかしそれでもカバーしきれないものもあります。とくに手。まさか手袋をしてギターを演奏するわけにもいかないので、当然まつりは素手です。加え、母親が亡くなり父親も帰ってこない自宅で一人暮らしている彼女は、日々の家事によって手が荒れあかぎれができていました。冬の寒さによるかじかみと、あかぎれの痛みによって、屋外でまともにギターの演奏ができなくなっていたのです。


 路上ライブを休むよう言うと、「ですが……」とまつりは残念がります。しかし現状冬の寒さのせいでまともに演奏できていないので、私としては「無理をするものではない」と忠告するしかありません。「ライブをするなら万全な状態で挑まないと、受け手に迷惑がかかる。何を目的にライブしているか考えなさい。演奏したいだけなら暖かい家でもできる」と言ったところでようやく納得してくれました。



 冬の間まつりは路上ライブを休止しましたが、それでも私たちの路上の関係は途切れませんでした。時間帯的に夜となり冬の寒さもあって、会っても十分程度の時間で世間話をするくらいですが、変わらず毎日彼女と会っていました。


 私はタイミングを見計らって、彼女に父親のことを尋ねました。夏を過ぎた頃に邂逅したあの男のことがまだ印象に残っていたからです。


 自分としてはとても自然に「路上ライブをやっていたことに対してお父さんは何も言わなかったの?」といった、会話の流れから気さくに聞いてみたのです。すると彼女は「パパは放任主義だから」と答えたのち、「わたしが小さい頃から、仕事が忙しいのかあまり家にいなくて、正直に言うとパパの顔ってどんなのか思い出せないときもあるくらい」と記憶から絞り出して無理やり思い出そうとしているかのような、眉を寄せて難しい表情をしながら告白した。私が「そういうものなの?」と聞き返すと、彼女は「ずっとママのことで一杯一杯だったから、いない人のことなんて気にかける余裕もなかった」というものですから、妙に納得させられました。納得させるほどの、インパクトある母親だということを知っていたからです。



 そういった話をしつつ、音楽や楽器の話だったり、学校のことについての相談だったりといった会話に終始した。あと小説の貸し借りなんかもしました。


 私が小説を貸して以来読書家として目覚めたまつりは、今は読みやすいといった理由からライト文芸なるジャンルの小説を漁っているようで、一押し作品を貸してきた。金髪の女子高生と成人の主人公の関係を描いた内容は、性別の違いはあれど、どことなくまつりと私との関係を彷彿とさせていて、半ば複雑な心境となりました。あとSFファンである私にとって、この小説は男女の物語であると同時にSF作品でもあるという印象を抱きました。生物学的なアプローチがされていますし、なにより哲学的な問いかけもあったからです。私は読み終わったあとまつりに返却してから、自分の蔵書用として購入しました。


 お返しとしてサイバーパンク小説を貸しました。本筋は真理を追い求める内容ですが、一方でこちらも成人主人公と十代の少女との深い関係を描いた物語でもありました。まつりはこの小説の作者名を見て「この作者知っている」と反応しました。「他の作品で、自殺を肯定する自殺法が制定された都市のお話を書いているの」と言いましたが、あいにく私はそちらの作品の方は知らなかったので、またまつりから小説を借りることにしました。こうして私とまつりの本の貸し借りをする関係が築かれました。


 そうして季節は進み、私は年末年始で仕事を休業し、まつりは学校が冬休みとなりました。休みに入る前に、どうせ学生は休み中暇だろうと思い、私はSFアニメのブルーレイボックスをまつりに貸しました。刑事ドラマの要素を取り込んだサイバーパンク作品で、黒幕である悪役が哲学的な名言を多く発言するのが特徴です。その名言の中には、彼女のバイブルの作家を彷彿とさせる思想もあり、影響を受けているまつりには楽しく視聴できるであろう作品でした。


「わたしこの台詞が好き」と、作中で人の意志について訴えかけた台詞を嬉々として引用していました。案の定、まつりはSFアニメに夢中となりました。冬期休暇中は外で会う機会がなくなりましたが、一応お互いSNSで相互フォローしているものですから、ダイレクトメッセージにて感想のやり取りをしていました。


「わたしずっと漠然としてた。ママの束縛から逃れて、わたしがわたしであることを求め自分なりに示してきたつもりだったけど、このアニメを見てやっと本質がわかってきたかも。周囲に流されて抑圧されるんじゃなく、自分の意志を抱えて悩んで、その末に貫き通して生きていくことこそが、つまり『わたしがわたしである』ってことなんだね」


 まつりはまたしてもSF作品から思想を見出したようでした。



 実際にまつりと会ったのは、年明けで中学校が始業した頃でした。約二週間ぶりの再会でしたが、しかしSNSで語り合っていて新年の挨拶も電子的に済ませていたため、お互い久しい気分とは無縁でした。



「わたしね、お休みの間いろんな作品に触れて気がついたことがあるの。物語は結末が一番面白いってこと」


 その年、対面で語り合った最初の話題がこれでした。私はそれに対して「カタルシスみたいな感じの、読後感のことかな?」と反応しました。まつりは「そうかも」と受け答えします。


「漫画とかって週刊誌や月刊誌で連載する形式だけど、それはつまり人気があれば物語はいつまでも続いていくことになる。でも面白さって慣れがあると思うの。最初はとても面白いけどその面白さに慣れてしまって、途中から刺激が足りなくなってしまう。その部分が、連載作品の嫌いなところ。でも小説や映画って、尺の都合上完結を前提にした物語だから、ちゃんとした結末が用意されていて、面白さに慣れることなく面白さを堪能できると、わたしは思うの」


 まつりの意見について私は黙考する。素直に一理あると思えました。終わりよければすべてよし、ということのようです。


「別に短くてもいいの。続きが気になる、ではなく、確かな結末がある、という方がわたしの好みに合うと感じたの。面白く幸せな時間が惰性になってしまう前に、ピークのまま終えられれば、そのピークを噛みしめることができる。だからわたしは小説や映画が好きなの。……というか、面白さや幸せに慣れて惰性になったら、それってなんだか余生みたいで味気ないかも。一瞬でもいいの。物語は絶頂のまま終わりたい」


 私は「なるほどね」と笑みを浮かべながら納得しました。量より質、いやこの場合長さより質といったところだろうか。「いいと思うよ。なんか、全力で楽しんでいる感じがする」と共感しておきました。その反応に、まつりも微笑む。持論についての理解者が得られたかのようで、とても満足そうな表情でした。



 その後も変わらず柏駅前の例のシャッター前で会い続け、バレンタインデーではまさかのまつりからチョコレートをもらいました。


「日頃お世話になっているお礼です」といって差し出してきた包みは、どうみても市販品のチョコレートではなく、お手製のラッピングでした。「手作り?」と思わず尋ねてしまいました。年頃の女の子の手作りチョコレートなど、易々と受け取っていい代物ではありません。しかしまつりは飄々とした様子で「外側だけです。中身はただの板チョコですよ」と答え、実際に開けてみると、本当にスーパーで買ってきたものをそのまま入れただけのチョコレートであり、一癖ある性格をしているまつりらしいバレンタインでした。とにもかくにも、たとえ相手が女子中学生であったとしても、他者からお菓子をもらえるのは嬉しいものです。その後、お返しとして市販のクッキーをそのままラッピングしたものを渡しました。



 そんな冬が過ぎ、まつりも中学三年生に進学した四月に、彼女は神妙な面持ちで話を切り出しました。



「わたし、しばらく路上ライブをやめます」




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