一章

第1話 路上の少女(1)




 柏市に住んでいた私は、毎日自宅の最寄り駅である柏駅から一駅のところにある個人工房に通っていました。個人工房といってもそこまで大袈裟なものではありません。少し広めの部屋を借りて作業場にしていた程度です。店舗でも事務所でもないので看板なども出さず、直接お客さんが来ることもない、住宅街によくあるただの部屋です。そこに住んでいないことを除けば、ごくありふれた賃貸物件でした。


 当初は運動のためクロスバイクで通っていたのですが、柏という街に行ったことがある方はご存知かもしれませんけど、柏周辺は道が狭いのに交通量が非常に多い地域なので、歩道も車道も埋め尽くされ自転車乗りには不向きな街でした。そういった事情もあり、私はたった一駅区間の定期券を買って電車移動していて、その日の夕方もいつも通りに柏駅を降りて自宅に向かっていました。


 その日の夕焼けはとても印象深いものだったと記憶しています。いや、彼女と初めて出会った日だったからこそ特別に記憶していただけかもしれません。とにかく、少しずつ暖かくなっていく四月の日々の中で、冬の澄んだ空気と日中の陽気の残滓が混じり合い、鱗のようにも見えるまだらな雲が夕日に照らされている幻想的な空が、柏駅にある百貨店の建物の隙間から見ることができた、そんな日でした。


 柏駅の周辺では路上ライブをしている光景をよく見かけます。聞くところによると、柏は登録制で柏駅前のパフォーマンスが許可される、音楽に寛容な街だそうです。平日よりも週末だったり祝日だったりする日の方が、通行人が多いせいか演奏している人が多い印象です。毎度不思議に思うことは、どうやら駅舎に近い場所を陣取っている人ほど人気があるアーティストのようだということ。私が勝手に感じていることではありますが、まるで路上アーティスト間でヒエラルキーがあるかのように、あるいは暗黙の了解でもあるかのように、演奏場所と駅との距離がそのままアーティストの地位であると錯覚してしまいます。


 そのため、駅から離れ通行人が疎らな、閉店した百貨店のシャッター前に陣取っている演奏者を見かけたとき、物珍しさとともにそういう立場の人なのかという印象を受けました。その日は平日で他に誰もライブをしておらず駅前の特等席は空いているのに、こんな場所で演奏しているということは、つまりそういうことなのだろうと。遠目に若い女の子であることはわかりましたので、路上デビューしてから日の浅い新人さんだろうかと、一人納得しながらその前を通り過ぎようとしました。奇しくも私の帰路でその女の子が演奏していたので、前を通らざるを得ませんでした。


 しかし駅から離れ彼女が陣取っている場所に近づくにつれ、私の表情は険しくなっていきました。繁華街の雑踏や自動車の走行音、信号機が発する発信音などで街は雑音で溢れているのに、彼女から発せられる音ははっきりと認識することができました。



「……これは酷い」



 私はたまらずそう呟いていました。彼女の演奏は雑音の中でも美しく抜けて響いているというわけではなく、むしろ反対に歪な音として悪目立ちしていたからです。まともに弦を押さえることができておらず部分的に音が欠けている和音に、そもそもチューニングがグチャグチャで各弦が気味の悪い調和を織りなしている。そんな不協和音で自己主張するかのようにギターをこれでもかと掻き鳴らしているので、街の喧騒と混じり合って実に不快な音でしかありません。


 顔を歪ませながら下手くそな音を我慢して歩き、彼女との距離が縮まっていきます。そうしてあと数十歩で目の前を通るというタイミングで、私はたまらず足を止めました。



 これは驚いた、と素直に思ったのです。



 不快な音を掻き鳴らしている女の子は、まだ年端もいかない少女であったから。背格好から小学生ではないのかと思えてなりません。ミディアムボブの髪を脱色して金髪にしているものだから、てっきりもっと上の十代後半なのではと、遠目から思いましたけどどうやら違うようでした。


「へぇ、これは見ものだ」


 この柏駅周辺で路上ライブをしているアーティストの中では断トツで若い。そんなあどけない少女がいったいどういった曲を演奏しているのか、純粋に興味が湧きました。そんな気持ちが芽生えたので、冷やかしとして彼女の演奏を聴くことに。近くの自動販売機で飲み物を買い、さも適当に一服しているだけですよという雰囲気を醸し出しながら、路上の隅で彼女のライブを視聴しました。


 アコースティックギターでの弾き語り。小柄だからか大きく見えるギターを掻き鳴らして叫ぶように歌っているのは、ただの不平不満でした。親とか先生とかの大人に対する反発だったり、学校などの集団における無個性を揶揄するものだったり、あとは取って付けたような愛とか平和とかの漠然とした思いなどが混ざっている。まあ、若い子が抱えていそうなよくある憤りの塊でした。歌で自身の思想を主張するのはよくある手法です。ただテーマ性というかメッセージ性に一貫性がなく、主張しているすべてが表面的で上滑りしているかのようで、聴き手に何を伝えたいのかまるでわかりませんでした。演奏も酷いですが歌も酷かったです。


 当然、少ない通行人は立ち止まって彼女の曲を聴いたりしません。皆無情にも前を通り過ぎるだけです。何人かが金髪少女という外見を珍しがって視線を向けるも、所詮それだけでした。彼女の曲は人を惹きつける強さがなく、厳しい言い方ですが聴く価値のない音楽でしかありませんでした。


 唯一立ち止まって聴いていた私は、ふとこう思いました。



 小さなイデオローグ、だと。



 別に小難しいことを言いたいわけではありません。ただ下手くそだが自分なりに思想を吐き出しているその姿は、広義的なイデオロギーを感じた。ただそれだけです。



 そうこうしていると彼女は演奏を止めました。どうやら一曲歌いきったらしいです。そのタイミングで私は空になった容器を自動販売機に併設されているごみ箱に捨て、彼女に近づいていき、そして声をかけました。


「ねえ、チューニング大丈夫?」


 別に親切心から心配して声をかけたわけではありません。


 どうせその日一回限りというわけでもないでしょう。今後もこの場所でライブをするかもしれない。そうなったら私は仕事帰りに彼女の不快な音を聞かされるはめになる。別にここで路上ライブをするのは構わない。勝手にすればいい。ただ、歌はひとまず置いておき、不協和音を奏でるギターだけでもなんとかしてほしかった。


 それはつまるところ、自分のためでした。彼女の成長のためではなく、自分の気分を害さないため。正直彼女がどうなろうが私には興味がありませんでした。


「え、あの……」


 声をかけられた少女は一瞬ビクッと身体を縮こまらせたのち、困惑しながら刺すような視線を返してくる。それは当然の反応です。いきなり見知らぬ人に声をかけられれば誰だって警戒する。私だって同じ状況であれば同様の反応をするでしょう。それに、とりわけ年端もいかない少女ですから、見知らぬ人に対して尋常ならぬ恐怖を抱いてしまうのは当たり前でした。


 黄色い前髪から覗く警戒の表情は、はっきりとした印象を抱かせる大きな瞳とややつり目がちな目元から、まるで猫のような雰囲気がありました。こうして一人路上に立つ彼女は、さながら野生の猫が人間に対して敵対心を抱いているかのようにも思えたのです。


「すまない。私はこういう者なんだ」


 私は仕事で使っている名刺を差し出しました。少女は肩からギターを下げたまま両手で名刺を受け取り、そこに記載されている内容を一瞥する。


「フリーのギター職人だよ。自宅も工房も柏にある」


 名刺には私の本名の他、誰が見たとしても一発で何をしている人なのか把握できるようなわかりやすい肩書と、便宜上名乗っている屋号、作業場としている部屋の住所と電話番号、さらに隅には広報目的で利用しているSNSのユーザー名とQRコードが申し訳程度に書かれている。


「帰宅途中に見かけたんで、そのまま演奏を聴かせてもらったよ」


 ここまで示せば、たとえ見知らぬ人だったとしても、何者でここにいる経緯もわかってくれるでしょう。完全に心を開かせることはできなくとも、多少は警戒心を解いてくれるのではなかろうか。


 事実、少女はその猫のような目をさらに大きく見開き、口を半開きにして驚いている様子でした。


「お、音楽業界の方ですか?」


 少女は驚愕したまま緊張気味に尋ねてくる。が、私はあくまで楽器業界の人間であって音楽業界には関りがない。楽器業界と音楽業界は密接な関係にあるように思われるが、あいにく私自身には音楽業界へのコネクションはない。知人を経由すれば音楽業界の人に繋がるかもしれませんけど、直接的な関係は皆無。そのあたりのことを誤解がないようにやんわり簡潔に説明しました。


「で、でも、こういったお仕事をされている方にお会いできたのは初めてです」


 それでも少女は緊張しつつも興奮を隠せていない様子でした。


 と同時に気になったのが、このときはまだ詳しい年齢は聞いていないものの小学生と思えてしまうくらいの容姿で、さらに髪を金髪に染めるようなやんちゃな子が、気持ちが高ぶった状態であっても丁寧な言葉遣いを忘れないところに、少女の潜在的な教養の高さを感じたことでした。この年頃の子供ならもっと生意気な態度という印象がありましたけど、どうやらそれは偏見だったらしいです。しっかりしている子はしっかりしているようです。


 だがしっかりしている分、ではなぜ彼女は髪を染めてまで一人路上ライブをしているのだろうか。それも不平不満を吐き出すような曲を歌って。そのあたりに言い知れない少女の事情が見え隠れしているように思えたので、このときは気にしないことにしました。きっと彼女にとって聞かれたくない事情でもあるのでしょう。私は彼女の演奏が悪い意味で気になっただけで、彼女本人にそこまで興味はありませんでした。


「ところで、ギターのチューニングは大丈夫? 演奏よりも音が合っていない方が気になったから」


 少女と会話したくて声をかけたわけではないので、早速本題に移りました。私の目的は、楽器職人として不快なギターをなんとかしたいだけです。



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