例の「献血騒動」騒動に関する極めて私的な雑感

@shiningTNP

雑感

以下文章は例の「献血騒動」騒動に関する極めて私的な雑感兼私の思考整理のためのメモ用紙である。人によっては不快に感じるので、例の「献血騒動」に関するヒトの意見を見るのが苦手な人はブラウザバック!!(いにしえの文)


(あと私は現代人権論とかジェンダー論とかレキシとかの類は詳しくないどころか赤点レヴェルなのでその辺も容赦してね)


まず私の基本的なこの騒動に関する感想は、

かなりヤバイ

である。

以下で何故ヤバイと感じたのかを書いていきたい、というか自分でも整理していきたい。



表現の自由というのは(わたしにとって)難しい。

たとえば私が同じクラスのXさんに恋心を抱いているとする。ただしXさんの母親は私の父親によって過去に暴行を受けており、Xさんはその息子の私を激しく嫌悪しているとする。またそのことを私は知っている。このとき、私がクラス内でXさんに告白することは嫌がらせでありその表現を規制する必要があるだろうか。具体的な事例を考えるとなんとなく規制したほうがいい気がしてくる。

が、表現の自由が安易に規制されてはならないということはこれまでの歴史を見れば一目瞭然である。


だが、


今回の騒動では公的な議論のなされていない「配慮」の名を借りて、表現の自由が侵されようとしている/侵された。



憲法で保障されている人権を制限することは公的な場で議論されなければならない、と思っている。というか個人的な話し合いで人権がどうこうされたらいかんでしょ、というのはすべての人の了解を得られると思う。

しかし、日本(世界)では時折「配慮」の名を借りて表現の自由が容易に侵される。



断言しよう。

裁判所等の公的な場で議論されていない意見は、誰かの「お気持ち」でしかない。

そんな「お気持ち」で表現していいものとしてはいけないものが分類され、表現の自由が侵されることはあってはならない。


今回の騒動で日本赤十字社が何かしらの配慮を示したのかはわからない。

しかし過去の事例から見てそのようになる可能性が十分にあっただろう。


ポスターを不快に思い批判した人は恐らく自身の権利か他人の権利を主張しただけなのだろう。

黙ってろとか、意見を主張するな、とは言わない。

相手方が勝手に変えただけだ、と言えばそれまでなんだろう。

それでも、かなりヤバいものの片棒を担いている、とだけ言っておこう。私程度に言えるのはそのくらいである。


現代にヒトラーが現れるとしたら、同じように超人的な演説力と人心掌握術を持つ人間だろうと考えていた。

それは誤りのようである。

現代のヒトラーは暴走集団に存在する無貌の神なのだろう。構成員それぞれがその手であり、足であり、口であり、誰一人としてヒトラーではないが、誰もがヒトラーなのだろう。


『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』という詩がある。30秒で全文が読めるので暇な人はWikipediaを覗いてみるといい。


このままの状態が続くなら20年後に残っているのは「ぐりとぐら」ぐらいだろう。いや、ぐりとぐらすら「児童労働に対する反感」とかでなくなりそうである。

私はこんな世界を私の子どもに引き継ぎたくない。

誰かへの配慮で圧縮され続ける世界は変えなければならない。


幸いにも私には参政権がある。

私の一票がより良い未来への一手となることを願う。

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