5-6 cleared each other's worries

「テメー、ホントはなんでマジック教わろうと思ったんだよ」

 三秒間の沈黙のあとで、封筒から顔を上げ、ぎこちなく良二に視線を向ける若菜。

「な、なんですかまた、突然」

 ギギギ、と不格好に上がる左口角。

「『こういう方』がやたらと手際いいだろ、テメー」

 いびつな表情の意味には気が付かない良二。

「いや、手際とやりたいことは違いますよ」

「ま、まぁ、そらそーか……」

 事務椅子を引き、背もたれをギキイと鳴かせ、良二は事務椅子にどっかりと座った。

「例えば掃除業者で働くとか、衣類製造に携わるとか。そういう選択肢は多かったんじゃねぇのかって思ったんだよ。家政科カセーカ卒って、そういうこったろ」

 純粋な質問だと思った若菜は、しかし口腔内で言葉に迷っていた。


 反論の言葉は思い浮かぶのに、しかしどれもこれもが言い訳がましい。沸く言葉のどれもこれもが、若菜の本心からは程遠い位置にあるように感じる。


「私みたいな人は、沢山居るんですよ」

 ぎゅ、と口の中で溜め息を噛み殺し、流れ出る言葉を細く紡ぎ始めた若菜。

「簡単にいろんな服作ったり、掃除が得意だったり、料理べらぼうに上手かったり。そんな人は、ガッコにたくさん居たんですよ」

 握った白い封筒に、力がこもる。

「それに、私はガッコに居る間、こういうのを好きだとは思えませんでした。職業にするなんて、とてもじゃないけど……」

 濁した言葉尻を、良二は想像できない。想像出来なかったが、ネガティブな意味合いだということだけは察するに至る。

「なにも私だけが特別じゃない。私より上手で手際も良くて成績もいい人は、簡単にプロの方から声がかかるんです」

 裏を返せば、若菜はその事象からはあぶれていたということで。『残り物』のように取れる言葉の羅列に、良二は喉の奥がイガイガした。

「私ね、柳田さん。肉親って母親しか居なくて、しかもまともに育ててもらえたわけじゃないんです。だから身の回りの最低限は自分でやらなくちゃならなかったし、それが当たり前なんです」

 若菜は突如、隠し徹そうとしていた自らの生い立ちを、なぜだか良二に聞いてほしいと思った。喉の奥から、勝手に言葉が放流直後のダムのように流れ出る。

「今日を生きるために、カネはあるだけ全部遣って腹を満たすんです。だからカネの遣い方がよくわかんない。ずっと一人でいるもんだから、人付き合いの仕方だってよくわかんない。だからもあって、笑い方もわかんないんです」

 瞼のみでなく、顔ごと上向ける良二。震えている若菜の声に、片眉を寄せた。

「そんなときにね、いつどんな人にでも笑顔を振り撒ける芸人さんだけは、私にもスゴいと思えたんです。ありとあらゆる芸の中からその人らしい芸を使って、誰かと自分を笑顔にする。私には超能力か魔法だと思ったんですよ」

 目を閉じれば思い出す、あの日見た、あの輝かしいステージの光景。

「あの日私、YOSSYさんのステージを見て泣くくらい感動して、笑えたんです。私もあんな風に、私と同じような誰かを笑わせたい、って思ったんです。そっちの方が必要とされそうで、羨ましくて、自分も楽しいかな、って」

 窓の外に立ち込める曇天。事務所内が薄暗くなってきた。

「だけど、いざやってみると全然覚えられなかった。当たり前にこなす人は、この世界にもたくさん居たんです。ガッコのときと同じように。でも──」

 硬い真っ直ぐの黒髪を散らし、勢いに任せて俯けていた顔を上げる若菜。良二は、若菜を睨むように見つめていた。


 あの顔は心配している顔だ──若菜は冷静に察知する。


「──でもマジックだけは、少しマシだったんですよ。指先のものなら、多少。だからマジックなら、と思ったんです」

 ベージュのスーツジャケットの中に着たハイネックニットの裾を、きゅっと掴む若菜。

「昨日も言いましたけど、別にマジック『でもいいや』なんて思ってここに来たわけじゃないですからね」

「……わーってるって」

「ちゃんと覚えて、すぐに柳田さんくらいになって、誰かを笑顔にできるようにと思い描いてやってますから!」

 事務椅子から立ち上がる良二。いつものように乱暴な立ち方ではなく、気の抜けた炭酸水のように覇気の無い立ち方で。

「テメーがこころざしを持ってやってんのはわかる。俺から盗もうと必死な態度見てりゃな」

 良二はゆっくりと若菜へ歩み寄っていく。


 互いに視線が逸らせない。

 目つきの悪い者同士の睨み合いの光景。


「じゃあどうして、こんなこと聞くんですか」

 吸った息と同時に、ふにゃりと眉をハの字に緩めた若菜。

「て、テメーはこういう仕事のが熱中できんじゃねぇかと思ったら、その事が、頭から離れねんだよ」

 つられて緩む、良二の眉間。

「は?」

「…………」


 沈黙三秒。情報処理速度は遅い。

 これは、初めて言葉に出された良二の『悩み』だ。


 くしゃりと顔を歪めた若菜は、そろりそろりと良二を下から覗き込む。

「な、なに?」

「だァら! 俺にとっちゃ、その、マジックのが当たり前で、ソージにサイホーのが、なんだ。能力? に見えてんだよ」

 若菜の三歩手前で立ち止まった良二。

「なんか、わかんねぇんだよ。最近の俺自身の、その、モヤモヤする原因がっ。ましてテメーのことなんて、わかるわけねーっつの」

 スラックスポケットに突っ込んでいた右手を、がしがしと後頭部を掻くことに使った。自然と視線が下へ向き、やがてチッと漏れた舌打ち。

「あの、柳田さん」

「あ?」

「私のこと、わかろうとしてくれてたんですか?」

「は?」

「そんなに、一生懸命に?」

 言われて、ハタと気がつく良二。

「や、だァらっ、それは」

「…………」

「…………」

 しばし困惑しながらも、見つめ合ってしまった二人。

 やがて「ブーッ」という若菜の吹き笑いで、やがてバリンとその緊張感が破壊された。

「んだよ」

「ごめんなさい、嬉しくて、つい。クっクククク……」

 肩を小刻みに震わせ、目を閉じくの字に折れ曲がる若菜の上半身。笑われている意味が皆目検討もつかない良二は、耳を赤く染めた。

「チッ、意味わかんねぇ」

「わかんなくていいんです。私は嬉しい言葉を、柳田さんから貰えたんです」

 若菜は体を起しながら、残り笑いで目尻を拭った。


 若菜の当たり前の日常的な秘書業務が、良二には特殊な能力のように映っていた。

 誰かの当たり前は、きっと誰かの特別。それが、こんなにも身近な相手同士でそう思い合っていたとは──他の誰に褒められるよりも、格段に嬉しいと思えた若菜。それはまるで、YOSSY the CLOWNのパフォーマンスを見て感動したときに似た心地で──。


「柳田さんがマジックを大好きなのだって、傍で教わってればわかります」

「だっ、好き、とか……」

「だから、中途半端な気持ちで教わろうなんて、最初から思えませんでしたよ」

 言いながら、自然に柔らかく上がる若菜の口角。

「私も、ちゃんとマジック好きですよ。柳田さんが、真剣に教えてくれるからです」

「そ、りゃその」

「私は、私の意思で芸事をやめたりしません。たとえ私に芸事マジックの才能が無かったとしても、たとえ柳田さんが教えたくなくなっても、です」

 優しくそう言う若菜は、世間一般的な女性のような、柔らかな笑みをしていて。

「…………」

 無意識に目を見張る良二。

「私は、柳田さんが免許皆伝してくれる日まで、ここで柳田さんのために働きます」

 目のやり場に困り、良二は自らの襟足に左手をあてがう。照れ隠しにするために、悪態を敢えて吐き出した。

「チッ。図太くてしぶとい女だな」

「あーそれ悪口ですか、褒め言葉ですか」

「うるせぇ」

 チラリ、目が合う二人。

 瞬間、胸の奥からギュウと苦しくなっていく良二。その締め付けに抗いたくて、深く息を吸おうとするも叶わず。意思とは別に、襟足に触れていたはずの左手が、なぜか若菜へと伸びていく。


 伸びていった左手は、するりと若菜の右脇に向かう。

 右手は、若菜の後頭部へと伸びていく。

 まばたきをひとつした若菜が良二を見上げるよりも速く、自らの鎖骨下へ頭を埋めて視界を遮った。

 左腕が、くびれの無い若菜の腰をまるで絞めるように抱き寄せて。

 そこまでして、ようやく息が吸えた良二。どこかで嗅いだような懐かしい匂いに目眩がして、瞼を固く閉じた。


 若菜コイツから甘い匂いがするなんて、知らなかった。

 この匂い、居なくなってしまったひとの匂いに似ている気がする──。


「え、や、やなっ」

 ハッ、と我に返った良二。

「わ、だ、違っ!」

 バリッと音がするかのように若菜を剥がし、壮大な距離を取る。割り増しの大股と、かかとを激しく擦る音で、触れ合ってしまった事実を懸命に誤魔化した。

 若菜を振り返ることなく、アルミ扉のノブを握る。

「ちっちち、調査、行ってく、るっ」

 片や、ひしゃげた顔面が全くもとに戻らない若菜。

「は、はい……」

 アルミ扉が『静かに』閉められる。

 何ひとつ深く考えられなかったので、そのまま良二の背を見送って、二〇秒が経過。

「え……なに、なに?」

 かかとを激しく擦る音が、カツンカツンと遠ざかる。

「今の、なに?!」


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