【6/どうして、どうして】
僕は初めて外に出た。
初めての外に感動する暇はないまま僕は走った。
衝動的に家を出て行ってしまった。僕の頭の中で母さんの言った言葉がぐるぐると回る。母さんは『あの子には嘘をつき通したまま』と言った。あの子というのは前のやりとりから僕のことで間違いないだろう。
母さんが嘘をついていた。そして父さんも共犯者のようだった。二人のことが大好きだ。信じていた。僕を騙すはずないと、裏切るはずないと、信じて疑わなかったのに。どうして、どうして。
ぐるぐると回る思考のまま走っていると丘が見えた。あれがテレーゼの言っていたお気に入りの場所だろうか。
僕は丘を登る。斜めっている地面を登ったのは初めてだ。息が上がり、脚が痛む。丘を登り終わる頃には僕はすっかり息があがっていた。
そこにはテレーゼがいた。真っ白でふわふわしたドレスと白い肌が月明かりに照らされて蒼白く染まる。彼女はゆっくりと振り向いた。そしてあの、大人びた微笑みを浮かべる。
「ご機嫌よう」
優雅にお辞儀をした。
こうして間近でテレーゼと対面するのは初めてだと気付いた。僕は常に上からテレーゼを見ていたから、大分印象が違う。彼女は思ったよりも背が高かった。僕よりも頭半分背が高い。僕の背が低いのか、彼女の背が高いのか……。
そして間近で見る彼女は本当にお人形のようだった。真っ直ぐで長い黒髪、小さな顔、陶器のように滑らかな肌、大きくて透き通った青い瞳、小さな鼻、赤い唇、細い手脚……。つい僕はぼうっと彼女に見惚れてしまった。
「ドナテラ、貴方がここに来たっていうことは、ご両親疑念を抱いたのね?」
「うん……」
再び僕の内に動揺と混乱、悲しみが溢れ出してきた。どこまでが偽りだったのだろう。母さんと父さんの『愛している』という言葉も、もしかして嘘だったのだろうか。そんなはずないと思いたくても、さっきの母さんの言葉が脳裏に浮かび上がってくる。
「母さんが言っていたんだ、僕に嘘をついていたって……」
涙が出そうになるのをぐっとこらえる。
「そう……」
いつの間にかテレーゼがかなり近い距離にいて、僕は驚いた。さらに彼女は近づいてくる。どうしてだか僕は動けない。
テレーゼはとうとう彼女の息が僕の顔にかかるくらいの位置までにきて、ようやく止まった。
「ねえ、ドナテラ」
赤い唇が動く。テレーゼの息はかすかに血の匂いがする。ぞわりと僕の背筋に悪寒が走った。
「な、何?」
「私ね、とても鼻がいいの。それで初めて会った時から思っていたのだけれど……貴方、不思議な匂いがするわ」
「え?」
テレーゼは僕の頬を優しく撫でた。彼女の手はぞっとするくらい冷たい。
「ええ、そうね、吸血鬼じゃなくてまるで……人間みたいな」
「何言って」
「お馬鹿さん……今まで気づいてなかったのね、貴方、人間よ」
何が起きたのか分からない。
突然テレーゼが僕に抱きついたかと思うと、首筋に激痛が走った。訳がわからず僕は絶叫する。彼女を振り解こうともがくも強い力で抱きついているためできない。視界が明暗を繰り返す。
……誰かが僕の名前を呼んだ、気がした。僕の肩に誰かのてのひらの感触。次の瞬間、僕は地面に倒れていた。首筋がずきずきと激しく痛む。何が起きたのかわからない。
僕は状況を把握しようと眼球だけで周りを見た。
「ドナテラ! 大丈夫かっ!?」
「……父、さん?」
父さんの顔が見える。僕は思わず泣きそうになってしまった。父さんが僕を抱きかかえているようだ。父さんが僕をテレーゼと引き剥がしたのだろうか。父さんは僕の首筋にハンカチを当てている。
眼球を動かす。霞む視界の中に、テレーゼを羽交い締めする母さんの姿が見えた。テレーゼは拘束から逃れようと暴れている。
テレーゼの口元から血が垂れている。純白のドレスに血がついてそのコントラストが目に痛い。僕はようやく、彼女に吸血されたのだと理解した。
「何するのよ!!」
テレーゼは顔を歪め必死に抵抗していた。こんな形相のテレーゼを僕は初めて見た。
「邪魔っ、しないでよ!!」
テレーゼは羽交い締めにしている母さんの腕に牙を突き立てた。拘束が緩まる。彼女はその隙を逃さなかった。するりと腕から抜け出すと母さんを突き飛ばした。たまらず母さんは尻餅をつく。
「オデット!!」
父さんの叫び声。
テレーゼは起き上がろうとする母さんの背中を思い切り踏みつけた。苦しそうに呻く母さん。テレーゼは醜く取り乱しながら叫んだ。
「何なのよ、ふざけないでよ! 何であんたなんかが邪魔すんのよお!? 初めての新鮮な血だったのに!!」
母さんは何とか顔だけ起こすと、テレーゼを睨み言った。
「……ドナテラは……大切、な息子よ……あんたの食糧じゃないわ……!」
テレーゼは一変、哀れみのこもった目で母さんを見下した。そして嘲るように鼻で笑って言った。
「馬鹿じゃないの? あいつは人間よ。まさかそれを知らない訳じゃないでしょう? 人間を息子だなんだって、馬ッッ鹿みたい! このこと父様に言いつけてやるわ」
母さんの目の色が変わったのがこの距離でもわかった。気づかないテレーゼは上機嫌にまくし立てる。
「これがどういう事がわかるわね? 父様はこの村で一番力を持っているんだから。そしたらあんたたちはお終いよ! きゃははははははははははっ!」
テレーゼは耳障りな甲高い笑い声を上げた。
「……させないわ」
母さんがぼそりと呟いたのが聞こえた。
次の瞬間、母さんが踏みつけている足を押し除けて立ち上がると、テレーゼの首を絞めた。とっさのことだったからか、油断していたからなのか、テレーゼはされるがままだった。
大きな目が見開かれることによって更に大きくなった。お人形のように愛らしい顔が醜く歪む。あの僕が見惚れた彼女の美しさは面影すらない。
テレーゼは母さんの手に爪を立てて抵抗する。
「あ……ぐっ、やめ、なさい……っ!」
「やめるものですか!」
細い首がぎりぎりと絞められていく。
「こんなこと……! 父、様が……、許すわけ、ないわ!」
「許されなくたって構わない! ドナテラを守るためなら!!」
テレーゼが白目を剥いた。彼女が全身から力が抜ける。ぶらりと腕が垂れる。母さんは手を離した。テレーゼが地面に倒れた。倒れたテレーゼには一目もくれず母さんは僕に駆け寄ってきた。
「母さん……」
僕は誤解していた。二人が僕を騙してテレーゼの言う事が真実だと思い込んでしまっていた。母さんは確かに嘘をついていたのかもしれない。けれど『愛している』という言葉は本当だったのだ。母さんも父さんも僕を命がけで守ってくれた……。
涙が溢れた。
「ごめんなさい……、僕……」
「謝るのは私達の方よ、ドナテラ。貴方にずっと嘘をついてきた。謝って許される事じゃない。でも、ごめんなさい」
「嘘……」
父さんが苦しそうに僕に告げた。
「子供の吸血鬼が外に出ちゃいけないというのも、血が飲めないというのも全部嘘なんだ」
そんな些細な嘘、どうだっていい。僕はどうしても確認しなくてはいけない事があった。
「僕が……人間って、本当?」
僕は二人が首を振ることを、僕の言葉を否定することを望んだ。願った。それはテレーゼの嘘なのだと期待していた。しかし僕の期待に反して父さんは「ああ」と肯定した。涙が更に溢れて頬を流れて落ちた。
「じゃあ僕は……」
その事実を口にするのが怖かった。このまま何も言わないでいたら何も知らなかった頃のように、何事もなかったように三人で暮らせるような気がした。でも僕は口を開いた。
「僕は……、父さんと母さんの、本当の息子じゃないの?」
「ああ、そうだ」
あっさりとそう認めた父さんの顔を直視できずに僕は目をそらした。「でもドナテラ」と父さんは続けた。
「これだけは言わせてくれ、たとえ血が繋がっていなくても、ドナテラは私達の大切な息子だ。それは絶対に揺るがない」
涙が溢れて止まらなくて、二人の顔が見えない。ちゃんと見たいのに……。涙を拭おうにも身体が動かない。
「父さん、母さん、ごめんなさい、僕……」
「どうしましょう、もしドナテラが……」
母さんはさっきテレーゼに対して強い口調で言っていたのに、今は泣きそうで弱々しい。父さんが安心させるように優しく母さんに言う。
「大丈夫だ。テレーゼからすぐ引き剥がしたんだ、吸血鬼化はしないだろう。その兆候も見られない……」
「そう、良かった……」
母さんの声がまた強いものに変わった。
「ドミニク、一年早いけれど、ドナテラをあの場所まで連れていきましょう」
「あの場所……?」
あの場所、ってどこだろう……?
父さんは「ああ」と頷くと僕を抱き上げて歩き始めた。
僕を『あの場所』へ連れていくために。
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