【2/あの子の頭の方がおかしいんだ】
「ご機嫌よう」
テレーゼはスカートの端を摘んで優雅にお辞儀をする。今日着ている服は昨日と同じく白いが、違う服だとわかる。丈が昨日のものより長い。
今日も昨日と同じくらいの時間帯にテレーゼは窓の向こう側に現れた。
「こんばんは……」
「今日も星も月も綺麗ね」
テレーゼは、夜空を見上げて微笑んだ。彼女の言う通り今日も雲一つない星空は綺麗だ。「そうだね」と僕は同意した。
「何か聞きたそうな顔ね」
テレーゼは全てを見通すような青い目で僕を見、年齢に合わない大人びた笑みを浮かべた。僕はどきりとして目を逸らした。
「……よく、わかったね」
「ふふ、誰だってわかるわよ、貴方相手じゃね。分かりやすすぎるもの。それで、何が聞きたいの?」
「…………君って、何歳?」
突然テレーゼの微笑みが消えた。いきなりの変化に僕は戸惑う。感情の移り変わりが唐突過ぎて予測不可能だ。硬い声音で彼女は言う。
「あら、レディに対して失礼じゃなくて?」
「ご、ごめん」
「ふん、まあいいわ。私は今年で一二〇歳よ」
僕はその一二〇という数字を頭の中でうまく処理できなかった。一二〇? 僕の聞き間違えか? それとも冗談の類だろうか。思考がぐるぐるして黙っている僕をテレーゼは不思議そうに見つめる。
「何よ、どうかした?」
「あ、いや、えっと……お、驚いたなあって」
僕はしどろもどろになりながらも何とかそれだけ言った。
「そう? 別に驚くことはないと思うけれど」
「ぼ、僕は十五だよ……」
「はあ? 貴方の年齢なんてどうでもいいわよ。それにしても幼いのね」
「き、君はすごく……えっと、大人だね……」
大人、というレベルを超しているとは思うけれど……。一二〇という数字が理解を超え過ぎていて、どうして良いかわからない。詳しく聞きたいのだが、テレーゼがさもそれが普通のことという風に喋るものだから、聞きづらい。
「そうかしら?」
「うん、その年齢には、見えないし……」
「見ただけじゃ年齢なんてわからないでしょ?」
認識を改めなくてはいけないのかもしれない。テレーゼが一二〇歳だなんて、見ただけじゃわからなかった。
「ああ、うん……」
「それより降りてらっしゃいよ。お喋りがしたいわ。貴方も私と同じように夜空が好きなんでしょう? よく見えるおすすめの場所があるの。そこに案内してあげるわ」
テレーゼは魅力的な提案をしてきた。心が動かされそうになる。でも無理だ。
「だから無理なんだってば。僕まだ十五歳なんだよ?」
「何なのよそれ」
さっきから僕とテレーゼとは妙に噛み合わない。
「十六歳にならないと……成人しないと、外にでちゃいけないって言われてるから」
「はあ?」
テレーゼの反応から、僕が彼女にとって理解不能なことを言っているかのように見える。僕は当たり前のことを言っているだけなのに……。
「何でそんなに驚くの?」
「そんなこと初めて聞いたからよ」
「え?」
今度は僕が驚く番だった。
テレーゼは今度は苛々しはじめた。
「だーかーらっ、十六歳にならないと外にでちゃいけないなんてこと、初めて聞いたって言ってるの」
「そんな、でも父さんと母さんは、それが吸血鬼にとって普通だって……」
「貴方のご両親が言っていることなのね。それで、どうして外にでちゃいけないってご両親は言っているの?」
「十六になるまでは吸血鬼としてまだ未熟だからって……」
「未熟?」とテレーゼは疑問そうに僕の言葉を反芻した。
「まだ大人の吸血鬼みたいに傷の再生能力もないし、身体能力も低いし、血もちゃんと飲めないから。血の代わりにお薬で栄養取ってるんだ」
「何それ。変なの。私、よく覚えているわけじゃないけれど、十六歳より幼い頃普通に外に出ていたし、血も飲んでいたと思うわ」
信じられない言葉だった。
「え、本当に?」
「信じられないって顔ね。でも本当よ」
彼女の言っていることが本当ならば……
「父さんと母さんが嘘をついているってこと? そんな、まさか」
「多分そのまさかよ」
「ありえないよ、君こそ嘘つきなんじゃないの?」
苛々していたテレーゼは一変、どこか憐む様な目で僕を見た。そして憐む様な声音で僕に言う。
「違うわよ。変なこと言わないで頂戴。大体おかしいと思わないの? いくら未熟だからって外にでちゃいけないなんて」
「……」
僕は何も言い返せない。
「ドナテラ、貴方きっと騙されてるんだわ。貴方のご両親、過保護すぎるのか頭おかしいのかどっちかなのよ」
「父さんと母さんの悪口を言うな!」
僕は衝動的に窓を閉め、分厚いカーテンをさっと閉めた。
父さんと母さんが嘘をついている……? まさか。そんなはずはない。父さんと母さんが僕を騙すはずない。嘘をつくはずがない。あの子の言葉に惑わされちゃいけない。そうだよ、あの子の頭の方がおかしいんだ、きっと……。
僕が膝を抱えてぐるぐる考えていると、ドアを誰かがノックした。
「ドナテラ」
父さんの声だ。
「どうしたの? 父さん」
ドアが開いて父さんが部屋に入ってきた。父さんは顔をくしゃっとさせて言った。
「実は一日遅れの誕生部プレゼントを持ってきたんだよ」
「本当!?」
嬉しさのあまり、ついさっきまでぐるぐるもやもやと考えていた事が頭から吹き飛んで、僕は父さんに駆け寄った。父さんは「ああ」と頷いて、背中の後ろに隠していた手を出した。そこには青のリボンがかけられた小箱があった。
「開けてごらん」
父さんは僕に小箱を渡した。僕はどきどきする心臓を抑えつけてリボンを解き、箱を開けた。
「これ……!」
「前から欲しがっていただろう?」
そこにはぴかぴかの懐中時計があった。
「嬉しい! 覚えていてくれたんだね!」
以前、父さんが持っている懐中時計を「かっこいい!」と言って、羨ましがったことがある。それを父さんはちゃんと覚えていてくれたのだ! 僕は嬉しくて嬉しくて、懐中時計をぎゅっと握りしめた。冷たい金属の感覚がてのひらから伝わってくるのが心地よい。
僕は懐中時計を首にかけた。ずしりと重い。
「大切にするよ!」
「そうしてくれると嬉しいよ」
父さんはくしゃっとした顔のまま肩をぽんぽんと叩いた。
僕は嬉しくて嬉しくて、懐中時計のぴかぴかの表面を撫でた。父さんと同じ懐中時計を持っていることが、なんだか大人に近づいた様な気がした。十五歳の証。
……あと、一年。
「どうしたんだいドナテラ」
急に黙ってしまった僕の顔を、父さんは怪訝そうに覗き込む。緑の目で僕を見る。
「ああ、いや、えっと……、あと一年で外に出られるんだなって思って」
「嬉しくないのかい?」
どうやら声音に不安の色が滲んでしまって、それを気取られてしまったらしい。もちろん嬉しい。だけど……。
「嬉しいよ。でも……ちょっとだけ怖いんだ」
「怖い?」
「うん。外のことあんまりよく知らないから……だから、ちょっとだけ、怖い」
僕が知っているのは部屋の窓から見える景色だけ。少し遠くに見える家々、夜空だけ。他のことは本を読んで知識として知っているけれど、見たことがないからどういうものか想像がつかない。
透き通った青い海、どこまでも広がる草原、夜でも灯が絶えない街、外の世界の広さ……。知らない。何も知らない。
僕の世界はこの家と窓から見える景色だけだ。
「不安、なんだね」
僕は膝を抱え、小さく頷く。
「未知、というのは誰だって不安になってしまうことだよ」
「そうなんだ……」
僕は少しの間黙って、「ねえ」と父さんに声をかけた。
「外の世界って、どんな感じ?」
「……そうだねえ。とても美しいところだ」
「美しい……?」
そう言われても、僕の想像は膨らまなかった。むしろ漠然としていて、抽象的で、混乱してしまう。
「ああ。外の世界にはドナテラが知らない美しいものがたくさんある」
「それって、星空みたいに綺麗な景色がいっぱいあるってこと?」
父さんは少し考える様なそぶりを見せた。
「……たしかにそれもある。けど、それだけじゃないんだ」
「それだけじゃない?」
「外の世界ではたくさんの人や吸血鬼が出会って、別れて、新しい生命が生まれてくることもある。ひとつの生命が途絶えることもある。みんな喜んだり、悲しんだりもする。それってとても美しいことだとは思わないかい? それに私はそんな世界でオデットと出会うことができたんだ」
正直、父さんの言うことが僕にはよくわからない。喜ぶ事はともかく、悲しむことがどうして美しいのだろう。
僕のそんな様子を見てとってか、父さんはどこか遠くを見る目をして笑った。
「まあ、ドナテラにもわかる日がいずれくるさ」
「うん」
父さんの目から見える美しい世界を僕も見てみたい。いつか見られる日がくる事を願って、楽しみにしておこう。
「……ねえ父さん、僕、立派な吸血鬼になれるかな?」
「なれるさ」
父さんは自信ありげだ。
「だって私とオデットの息子なのだからね」
僕は妙にむず痒くなる。そうか。そうだな。父さんと母さんはすごく立派な吸血鬼だ。僕もそうなれるに違いない。
『立派な吸血鬼』というけれど、どういう吸血鬼が立派なのだろう。ふと僕はそう思った。考えてみた。……優しくて、何でもできて、嘘をつかない?
僕はあの子の言葉を思い出した。
『貴方きっと騙されてるんだわ』
「ねえ、父さん」
「何だい?」
「父さんは嘘、ついたことある……?」
僕の質問に父さんはさっと目をそらした。僕は急に不安になる。父さんは立派な吸血鬼だから、嘘なんてついたことないと思っている。けど、何もやましいことがないなら急に目をそらしたりするだろうか。
どくどくと心臓が暴れる。僕はべとついた手で服の裾をぎゅっと握りしめた。
「あるよ」
「え」
信じられなかった。
父さんが、嘘を? あの父さんが、立派な吸血鬼の父さんが嘘を? テレーゼの言っていることは、まさか本当なのか?
「ドナテラが楽しみにとっておいたクッキー、あれ食べたの父さんだ」
「な!? 何だよそれ!! すごく楽しみにとっておいたのに、あれ食べたの父さんだったの!? ひどいよ!」
憤ると同時に僕はほっとした。なんだ、良かった。やっぱりテレーゼの言っていたことの方が嘘なんだ。
怒る僕に、父さんはくしゃっと笑って軽い調子で「すまんすまん」と謝った。
「すまんじゃないよもう……」
「今度、お詫びにとびきり美味しいクッキーを買ってきてあげよう」
「約束だよ?」
疑念が晴れてよかった。そう思っているはずなのに、テレーゼの言っていた事が胸につっかえている気がしてならなかった。
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