この恋を奪ってでも
えどわーど
Chapter 1
とんとん
病室のドアをノックする。少し遅れて、中から「どうぞー」と声がした。私はドアノブを握ると、ドアを開ける前に、生唾を飲み込んだ。
僅かな逡巡の後、私は引き戸をそっと開け、隙間から中を覗き込みながら言う。
「お邪魔します……調子どう、
そんな私の仕草を、ベッドの上に身を起こした少女が、クスリと笑いを零しながら見た。彼女は口元に微かな苦笑を浮かべて、
「そんな遠慮してないで、入っておいでよ、
手招きされた私は、おっかなびっくりという足取りで、ベッドの前まで歩み寄った。背後で音も立てず、ドアが自然と閉まる。
入院着に身を包んだ少女は、病人とは思えないほど血色のいい顔で笑っていた。もともと凛々しい顔立ちだけに、一層ここにいることが似つかわしくないように思えてしまう。
切れ長の目に、細い眉。はっきりした鼻立ち。艶やかな黒のショートヘア。そして白く、きめ細やかな肌。
「お見舞い、毎日来てもらっちゃって悪いね。でも嬉しい」
そんな水奈は私の幼馴染で、だからこそ私は彼女が入院して以来、毎日ここへ通っている。他の誰でもない私がその役割を担っていることを、私はちょっぴり誇らしく思っていたりする。
「迷惑なんかじゃないよ。私だって水奈のこと、気になるし」
小さな手を振って否定する私を、水奈はおかしそうに見ていた。
こうやって普通に言葉を交わせるのは、私も嬉しい。けど一方で、水奈の態度がいつもと変わらないことに、どうしても落胆せずにはいられない。
それでも、私は一縷の望みをかけて彼女に問う。
「ところで……どう? 何か思い出せた?」
「……ごめん」
私の問いかけに、水奈は肩を落として、申し訳なさそうに零した。
少し前、水奈は交通事故に遭った。
外傷は大したことはなかった。それだけならば、入院なんて大ごとにはならなかっただろう。けど、実際にはそれよりずっと深い傷が水奈には残った。
記憶障害。水奈はあの事故以来、自分のことや家族、友人、その他の人々に関することを思い出せずにいた。子供のころからずっと一緒だった私のことも、忘れてしまっていた。
事故後、初めて水奈に面会したときのショックは、今も褪せずに胸を抉っている。
「先生は「何かの拍子にいきなり思い出すかもしれない」なんて言ってたからね。今は駄目でも明日には、ってこともあるかもしれないけど」
強がりのように言う水奈だけど、その表情は暗い。私だって知っている、その逆もあり得るんだってことくらい。
「……ごめんね、寂しいよね」
「そんな……こと、なくはないけど。でも、水奈ほどじゃないよ」
もう一度謝りながら、水奈が私の頭に手を置いた。私はそれに、どうにかそう答える。
私の言葉を、どう思ったのだろう。水奈は小さくため息を吐くと、少しだけ口元を緩めた。
「まぁでも、お見舞いはもういいよ。じきに退院することになったから」
「そうなの?」
「怪我自体はほとんどなかったからね。少しでも普段の生活に近い方が、記憶も戻りやすいかもしれないからって。学校にも、近いうちに戻るつもりでいる」
そう語るうちに、水奈の表情も少しずつ明るくなっていった。本当に嬉しいんだろう。それは私も同じ気持ちだ。
「そっか。良かった。じゃあ、また水奈の家に遊びに行ったりしても大丈夫かな?」
私の言葉に、水奈はまたも苦笑を漏らした。何を当然のことを、とでも言いたそうに、彼女は頷いて答えた。
「もちろん。むしろ歓迎するよ。色々話したいし、聞きたい。澄香は私との思い出を、たくさん話してくれるから」
微笑む水奈の顔。その顔を見た瞬間、私の胸がちくりと痛んだ。
私は水奈を、子供の頃から知っている。ずっと仲良しで、たくさんの思い出を共有してきた。水奈の言う通り、きっと私以上に水奈との思い出を語れる人は、それこそ家族くらいのものだろう。
ただ。絶対に話せないことが一つだけ。
「……うん。けど水奈、焦って無理に思い出そうとしちゃ駄目だよ。ゆっくり、ゆっくりね」
「分かってるって。心配してくれてありがと」
念を押すような私の言葉に、水奈は笑って頷く。再びその手が、私の頭に触れた。
「あ……ごめん、無意識で」
「? ううん、別にいいけど」
と、すぐに手を引っ込める水奈に、私は首を傾げながら応えた。水奈は自分の手を怪訝そうに見下ろしながら、
「私、前からこんなことしてた?」
「ううん、今日が初めて」
「……そっか」
私が答えると、少し寂しそうに顔を歪める。私は、直前の彼女と同じように、そんな水奈の頭に手を乗せた。驚きの表情で私を見る水奈を見つめ返して、私は言う。
「言ったばっかりでしょ。無理に昔のこと思い出そうとしなくていいし、記憶が無くなる前の真似をしようとか考えなくていいよ」
私の言葉に、水奈は静かに息を吐き、強張っていた表情を緩めた。
「ありがと」
「どういたしまして」
おどけた口調で返す私に、水奈が小さく噴き出す。私は水奈の頭の何度か撫でまわすと、同じように笑い声を漏らした。
それから少しだけ世間話をして、私は病室を出た。「退院するときはちゃんと教えてね」と扉の隙間から何度も言う私を、水奈は呆れた様子で手を振って見送ってくれた。
水奈と別れると、途端に寂しい気持ちになる。病室で一人退屈な思いをしないだろうか、本当は人に見えないところで苦しんでいないだろうか、そんな心配にも襲われる。
けど、だからといっていつまでも貼りついていたら、それはそれで迷惑だ。私に出来るのは、水奈が安心して今までの生活に帰って来られるように準備すること。そう自分に言い聞かせて、私は病院を出た。
出たところで、ポケットの中で携帯が震えた。取り出すと画面には『
「もしもし、麻衣? ……うん、そう。水奈のお見舞い。終わったとこだよ」
電話に出るなり、麻衣は前置きも無しに問いをぶつけてきた。答えつつ、私は家に向けて歩を進める。
「様子は、って。自分で行けばいいじゃん……うん、まぁ元気そうだけど、記憶はまだ、うん。けど、もうすぐ退院するんだって。自分の家の方が落ち着くだろうからって」
そう伝えた途端、電話の向こうで麻衣が歓声を上げた。興奮した声で捲し立てる妹に、私は思わず携帯を耳から離した。
「嬉しいのは分かるけどうるさい……そ、今日はまだ病院だって。帰ってくるときには知らせてくれるらしいから、もうちょっと待ってなさい」
そう言い聞かせて、私は通話を切ろうとした。
のだが、麻衣に呼び止められた。怪訝に思いながらも、私は画面に伸ばしかけた指を止め、再びスピーカーを耳に当てる。
「まだ何かあるの? っていうか、別にうちに帰ってからでも――」
わざわざ電話じゃなきゃ話せないようなことなんて無いでしょ。そう思いながら喋る私の声を遮って、麻衣が尋ねてきた。それに、私は足を止めてしまう。
けど、それも一瞬のことだ。私は溜息を一つつくと、声を落として麻衣に答えた。
「言ったでしょ。そのことは話さないって……何でもなにもないよ。水奈が自分で思い出すまで、私からは絶対言わない」
硬い口調で宣告すると、なおも何か言おうとする妹を無視して通話を切った。光の消えた液晶を見下ろす顔が、不機嫌に歪んでいるのが自分でも分かる。
こんなやり取りをした後で、結局家に帰れば麻衣と顔を合わせることになるのが、正直嫌だった。親は怪訝に思うかもしれないけど、今日はもう徹底して無視してやろう。せめてもの仕返しだ。
どうせ、家で迂闊に今の話題を口にする気は、麻衣にだってないだろう。
「……言わないもん」
決意を改めるように、私は声に出してみた。
意に反して、どこか拗ねたような声が漏れてしまう。それを認めたくなくて、私はぶんぶんと頭を左右に振ってから、何も考えないように努めて家路を急いだ。
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