七
そこに携帯の着信音が被さった。
お兄ちゃんは慌ててジーンズの後ろポケットから携帯を出した。開いて、さらに慌てている。
きっと一清さんからだ。
トイレへ行ったぼくを迎えに出たまま音沙汰なしじゃあ、こっぴどく叱られるのは目に見えている。
ぼくも携帯を開いて時間を確認すると、十時になろうかというときだった。
お兄ちゃんは必死で言い訳している。変な桜に遭遇したとかなんとか。そんなの信じてもらえるはずがないのに、逐一説明しちゃっている辺り、進歩がないなと思う。 ごめんなさいと一言謝ればすむことなんだ。
お兄ちゃんは携帯を閉じると胸を撫で下ろした。「こっちも怖ぇ」と肩をすくめてもいる。
「一清さん、なんだって?」
「向こうが来るからここを動くなってさ」
「だよね。ここがどこかぜんぜんわかんないもん」
「しこたま酒飲んでっからな。兄貴もちゃんと来れるかわかんねえぞ」
そんな口を利ける立場じゃないのに、お兄ちゃんは笑いながら言って、近くにあったベンチへ腰を下ろした。
ぼくはふと、さっきのいかつそうな人たちを思い出した。
鋭い目つきでぼくらを見ていた。いま思えば、あの桜よりそっちのほうが怖い。
だからといって容易に首は突っ込めない。根掘り葉掘り訊いたら、また疎ましがられるだけだ。
ぼくがベンチに座らないでいると、お兄ちゃんが不審げに見上げてきた。となりへこいと言うように、固い座面を叩いた。
一人ぶんの間は空け、ぼくは腰を下ろした。
意識してそうしているかのように、お兄ちゃんが押し黙った。膝に肘をついて前屈みになる。首を下げ、頭を掻くとよそへ視線をやった。
お兄ちゃんのそんな仕草が、なにか話したいことがあるけど、どうしようか悩んでいるように、ぼくには見えた。
こっちから声をかけようか。ぼくも迷っていると、重たそうにお兄ちゃんは口を開いた。
「……なあ、お前さ」
「うん」
「兄貴のこと、どう思ってる?」
ぼくはただ瞬きを繰り返した。
てっきり、さっきの怖い人たちの話をするのかと思っていたら、一清さんのことをお兄ちゃんは言い出した。
「ど、どうって。立派な人だと思ってるよ」
なんで?
ぼくはそう続けたけど、お兄ちゃんは黙ったままだ。前屈みだった背を起こし、地面を凝視している。
ぼくは内心、戸惑っていた。
お兄ちゃんがなにを考えているのかわからないけれど、流れ始めた空気からして、こんなインスタントな場所で話すことじゃない気だけはする。
「急にどうしたの」
「俺さ、兄貴と対等に話せるようになったの、結構最近でさ」
「うん……」
「それまでは目を合わすことさえできなかった」
ぼくは目を丸くした。
「……そんなに怖かったの? 一清さんて」
「怖いっつうか、俺を鼻であしらう感じか。一番下で、年も離れてるからしょうがねえのかなって、俺も気にしないで次郎や広美とばっか遊んでた」
「……」
「あと、咲子さんのこともあんのかなって」
落としていた目線をぼくは跳ね上げた。
「咲子さんのこと?」
「ん……やっぱ、俺のせいって思ってんのかな……とか」
「お兄ちゃんのせいって──」
ベンチから立ち上がった。ぼくは強く、強く首を横に振る。
「咲子さんが亡くなったのはお兄ちゃんのせいってこと? そんなの、ぼくは一言も聞いてない」
「人夢。ちげーよ」
「もし……もしそうだったとしても、一清さんはお兄ちゃんのせいになんてしないし、言うはずない!」
「ちげえって」
お兄ちゃんがぼくの腕を掴む。引っ張って、またベンチに座るよう促した。
ぼくは座りながらも、溢れ出てくる言葉を止められずにいた。
「そんなふうに思ってたら……とっくに家出てるよ。一清さん」
「わかってるよ」
「お兄ちゃんには怖い存在かもしれないけど、一清さんは、なんの考えもなしにお兄ちゃんを傷つけるようなこと言わない」
「だからわかってるって。最後まで聞けよ。むかしはそう思ってたって話。兄貴も親父も、俺の前で咲子さんの話したことなかったから」
ぼくは自分を落ち着かせる呼吸を置いて、お兄ちゃんの顔を見た。
「……ぜんぜんなかったの?」
「ああ。つっても俺は、咲子さんのことは、もう亡くなった人としてしかあんま意識してなかったから、そんなに変とは思ってなかった。いつも次郎や広美がいて、だから、お母さんがいなくても寂しくなかったし。チビだった俺には、それが当たり前だった」
「……」
「でも、小学校の高学年になったら、やっぱお母さんの存在を考えるようになってさ、どんな病気でどんな経緯があって死んだのか知りたくなった。けど、親父や兄貴たちには訊けなくて、おじさんのとこまで訊きに行ったんだ」
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