メンヘラを倒さないと外に出られない部屋

小紫-こむらさきー

前門のメンヘラ

「じゃあなんで連絡くれなかったのよ!」


 えー。なんかめっちゃキレてる。どうしよ。

 目の前で髪を振り乱して包丁を持っている彼女。こみ上げてくる笑いのせいでついつい持ち上がりそうな唇を隠すために口元に手を当てて考える。


「だから…最近シフトが変わったって言ったでしょ?」


「嘘だっ!」


 ◯ぐらしじゃん。いや、嘘なのは本当だけどさ。

 吹き出しそうになっていると、手に持っている包丁を前に突き出してきた彼女は、テーブルの上にあるコップをこっちに向かって投げてくる。

 空を縦に一回転して中に入っていたお茶をぶちまけたコップは俺の背後にある壁に当たってガチャンと派手な音を立てて割れた。

 窓もドアも彼女の背後に見える。位置取りミスったなー。刺されるなら心臓は避けたいなー。


「まぁまぁ、まゆちゃんさあ、一回落ち着こう。ほら、包丁をとりあえず置いてさ?」


「いまさら優しくなんてしないでよ!祐也ゆうやはいつもその場で適当なことしか言わないじゃん」


 作戦失敗。三回目まではなんだかんだ許してくれたのにな。さて、どうしようか。

 目にかかる前髪をかきあげて、彼女…まゆちゃんを見る。

 ツヤツヤしたミルクティー色の髪はゆるく巻かれていて鎖骨あたりで揺れている。健康的な肌の張りと白い肌、そして透けている青い血管が実に良い。それなりに長く生きているけれどやはり一番いいのは20代前半の女だな。

 それに、メイクもしてないのにアイラインを引いているみたいに見える長くて濃い睫毛とか、瞳孔が開き気味の真っ黒な目が大好きだったんだけどなぁ。そろそろこの子も潮時かなぁ。

 致命傷にはならないだろうけど、俺も刺されると痛いんだよなー。

 近くを見回しても盾になりそうなものはない。

 あ、先週一緒にニトリで買ったサメのぬいぐるみ…これいい感じに盾にできるかな…。


「ねえ!なんとか言ってよ」


 あ。サメーーーー!!!!俺のサメが…!

 勢いよく踏まれたサメのぬいぐるみはどことなく悲しそうな顔に見える。

 えー?もうこれ刺される未来しか見えなくない?警察呼ぶ?いや、警察はめんどくさいから嫌だなー。俺、身分証明書ないし。


「なんとかって言ってもさ、まゆちゃん今は冷静に話を聞ける状態じゃないでしょ?」


 ポケットに手を入れる。スマホがない。


「冷静だもん!祐也が浮気した証拠だってあるんだから!」


 包丁をこっちに向けたまま、彼女は左手でふわふわもこもこのパーカーから俺のスマホを取り出す。

 あちゃー。指紋認証寝てる間に突破された?まじかー。スマホの名義はまゆちゃんだから別に文句はないけどさ。


「んー。俺のことを刺せばまゆちゃんの気持ちは楽になる?じゃあ刺しなよ」


 確率は五分五分。これでうわーんって泣いて包丁を落とす子もいるし、そうじゃなくても不意打ちされるよりは任意のタイミングで刺されたほうがダメージは少ないもんね。

 心臓だけ刺されなければ大丈夫。最近の刃物は銀製でもないし。


「…え」


 さっきまでつり上がっていたまゆちゃんの目が少し泳ぐ。こういう激昂しやすいけど、その場に流されやすい子はいざとなると躊躇うのが可愛いよね。

 躊躇わずに踏み込んでくるのもそれはそれで可愛いけどさぁ。そういう子は今の御時世だとお付き合いするのもしんどいし、愛玩用にはこのくらいの気性がいいよね。


「ね?好きにしていいよ。それでまゆちゃんがいつもみたいに戻ってくれるならさ」


 距離を詰める。これで包丁を下げたら俺の命の危機はないも同然。なんとか彼女をまるめこんだら部屋から出てタバコを買うふりして外に出たタイミングで別れ話をすれば完璧。

 包丁を向けられたままなら…どうしよっか。うーん。

 玄関も窓も彼女の背後にある。実質密室じゃん…。

 密室で包丁を持ったメンヘラと二人きりかー。


「こ、こないでよ。今度は…ちゃんと浮気しないって約束してくれなきゃやだ」


 あ。まだこの子俺と離れる気ないんだ。マジで。

 この場でまた適当に話を合わせたほうが楽かな。浮気はいけないらしいけど実際一人だけじゃ満たせないものもある。あと、取り乱す彼女は可愛いので定期的に見たくなっちゃうんだよな。

 でもまぁ約束したら包丁さげてくれるなら試しに言ってみるかー。


「わかった。じゃあ、約束するからさ。刺すつもりがないならその怖いやつ下げようよ」


「嘘だ!」


 え、ええー?

 ボルテージがあがったのか切っ先を下げていた包丁はまた俺の方を向いた。

 罠じゃん。


「まゆちゃんはどうしたいの?」


「わかんない!」


「そっかー」


 刺すつもりはないなら、このまま強行突破して玄関まで走り抜けるか?でも突き飛ばした拍子に彼女が死んだり怪我したらめんどくさいなぁ。それならまだ刺されたほうがちょっと楽かもしれない。

 いっそのこと刺してくれたほうが楽なのでは?刺したらその罪悪感で浮気も許してくれないかなー。


「祐也はいつもそうじゃん。そうやって適当に私のこと丸め込んで誤魔化して、私が怒っても泣いても祐也ばっかり冷静でずるいもん」


「…ごめんね」


 まゆちゃんおっぱい大きいなー。オーバーサイズのパーカーを着ても胸が目立つもんね。会った時はGカップで十分大きかったけど、二年で2サイズアップしたもんなー。


「私は…最近連絡が取れなくて心配したりしたんだよ?デートもドタキャンされた時、本当にお腹を壊したり、実家のペットが死んじゃったのかもしれないけどさ…他の女の子に好きってLINEしてたら疑いたくないのに疑っちゃうよ」


「…たくさん心配したり、不安にさせちゃったね」


 あー。こういう顔に弱いんだよなー。瞳孔開きながら泣いてる顔はえっちです。はー。ムラムラしてきた。

 実家のペットいつ死んだことにしたっけ。父さんが気に入って買ってきたんだけど可愛かったなー。すぐ老いて不味くなっちゃうとはいえ今思えば、あんな子をすぐ絞めちゃったのもったいなかったなー。


「なんで勝手にスマホ見たことを怒ったりしないの?それに私、祐也に包丁向けてるんだよ?私のこと好きじゃないから怒ってくれないの?私ってそんなにどうでもいい存在かな?」


「そんなことないよ」


 あ、昨日ソシャゲのログインし忘れたかも。やば。あと一日でガチャ一回券もらえたんだけどな。気になる。スマホ早く返してくれないかな。


「じゃあ、ちゃんと私のこと見てよ!どこが好きとかちゃんと言ってよ」


「血管とおっぱい」


「は?」


 あ。やば。

 泣きじゃくっていた彼女の顔が般若みたいになる。

 さっきまで鈴が転がるような可愛い声だったのに、急にドスの利いた声になった。

 ソシャゲのこと考えてたら本音が漏れた。リカバリーできるか?血管はやっぱり怪しかったか。


「ち、ちが。そのさ、優しいところとか」


「包丁を祐也に向けてる女が優しいわけ無いでしょ!」


 正論だ。


「えーっとでもさ、先週妊婦さんに電車で席譲ってたじゃん。そういうところすげー好きだよ」


「…がう」


「え?」


「私、祐也と先週でかけてない」


「あ…」


「っていうか、ここ半年くらいずっとおうちデートじゃん」


 あー!まゆじゃなくてまなの方だったかー。名前がま行だから間違えたー!あー。

 まゆちゃんの表情が完全に無になってる。これはやばい。

 後ずさりをしてみたけれど、すぐにドンッと背中に壁が当たって逃げ場がなくなる。


「お、落ち着こう?浮気もしないし、スマホも好きにチェックしていいからさ」


「さっき好きにしなよって言ったよね?」


 うつむきながら近づいてきた彼女が、言葉とともに顔を上げる。

 瞳孔の開ききった目は真っ黒で一筋の光も差していない。

 飲み込まれそうな迫力にゾワゾワと肌が粟立つ 。


「ま…」


 腹の部分が熱を帯びる。当てた手にぬるりと生暖かいものが付着する。

 少し遅れて、燃えたみたいな痛みが体を貫いた。

 一歩離れた彼女の手には血まみれの包丁が握られている。


 なんの感情も読み取れない人形みたいな顔をしている彼女が、ふたたび包丁を持った手を振り上げた。

 ああー。これは殺意マックスですわ。


 諦めてただ、彼女が振り落とした包丁の切っ先を甘んじて受け入れた。

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