第15話
氷
転んだ子供はしばらく桶を掲げて斜面に横たわったまま動かない。斜面を滑り落ちていく小石の立てる音がいつまでも耳に残る。
やがて子供は、桶を水平に保ちながらゆっくりと身を起こす。そして、斜面の出っ張りを利用して桶がまっすぐになるようにそっと置き、立ち上がる。
子供は私に顔を向ける。その表情は、おどおどとして、明らかに怯えた様子が見て取れる。
私はもう一度話しかける「大丈夫か」。
子供はますます怯えた様子で、少し後ずさりする。
私も少し途方に暮れる。
私は考える。なぜ、こんな所に子供がいるのか。なぜ、桶に氷を入れて運んでいるのか。なぜ…
私は子供を今一度よく見る。
砂人…。子供ながらにしっかりとしたその体つきは、少なくとも山人ではない。私が、山城に来た時、共に連れてこられた子供のことが思い出される。あの子供はどうしただろう。
そういえば、砂人たちと大広間で過ごしていた時、老人たちは日がな一日、特に何をするふうでもなかったけれど、子供は、時々、世話をする山人と共にどこかへ行ってしまうことがなかっただろうか。
私は、それが子供だけに、漠然と、何か教育でも施されているのだろうぐらいに思っていたのだが。
砂人に教育…そんなことがここで行われることなど、もとからありはしないことが、今ならはっきりと分かるけれど。
私は、子供の姿を見ながら、だんだんと分かってくる。王の「慈悲」の正体が…少なくとも王の「慈悲」を行う者の、その思惑が。
砂人はこの「王宮」でも、やはり使役に供されている。
王の「慈悲」で王宮に引き取られた砂人は、確かに砂の海のうろに降りて水を汲むことはしない…できない。けれど、王宮でもやはり水は必要には違いない。ならば、その水は誰がどうやって手に入れてくるのか。
私は、当然、麓の市街から誰かが運び上げてくるのだろうと思い込んでいた。
けれど、それなら、何ゆえこれほど峰の頂近く、水を運び上げるには恐ろしく無駄な労力を要する不便な場所に王宮を建てねばならないのか。貴重な水が簡単に手に入る麓近く、その高台に城を設えるだけで、市街の統治者、権力者としての面目は十分に保たれるではないか。
しかし、そうではなかった。水は…貴重な水は、峰の頂にこそあった。地下に澱んだ水を汲み上げなくとも、峰の頂からは、何者にも汚されていない清らかな水を、簡単に手に入れることが出来る。それは、頂を覆う白い氷…解けることのない積み重なった雪の固まり。今しがた、子供の携えた桶の中から転がり出たその氷…
そして、その氷…水を取り込む者は、砂人…。王がそう考えているかどうかは別にして、少なくとも王に仕える、この宮殿の山人たちは、何の疑いもなくその使役を砂人のものと考えている。あの女ですら、砂人は水を汲む者と、はなから思い定めていたではないか。
ただ、王宮には、使役に耐え得る砂人はいない。少なくとも年老いた者はその用をなさない。何しろ、一緒に王宮へ連れてこられた年寄りなど、王宮への斜面を登ってくるだけで、すでに息も絶え絶えになってしまっていたではないか。もとより、使役の用をなさないからこそ、市で売れ残り、王宮に厄介になることになった者ばかりなのだから。
けれど、水を手に入れるには砂人は必要。となれば、話は簡単。うろに降り、水を満たした桶を持って再び昇ってくるほどの労力を要さないこの「氷取り」なら子供にさせればよい…。なぜなら子供は程なく「大人」になる。そう、すぐに役に立つ大人の砂人になるのだから。
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