聖典

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聖典①

 少年のノートには、彼の崇拝する偉人たちの言葉が書き連ねられていた。小説家、ミュージシャン、画家、そういった芸術を生業にする人間の言葉を、彼は何よりも愛していた。それだけではない、彼がペンを走らせて書きつけたその言葉たちは、まぎれもなく彼にとっての真実であり、また救いでもあった。聖典と呼ばれるものの類は、多くの場合が写しである。大抵は崇拝の対象となる当人でなく、その弟子がその教えを記すかたちで編纂されている。しからば、彼のノートもまた聖典として差し支えない。それには、狂気的な畏怖の念が注がれており、宗教的な戒律が授けられる。さらに、時にそれは、現実生活においておよそ遵守不可能なほど厳格な規律で彼を縛り付けるが、倒錯的にも彼はそれによってかろうじてこの世を生きていく綱を渡っているのだ。ここでは、その聖典が彼の人生における苦闘の合間にいかなる啓示を与えたかの話を二、三ばかり記したい。


 少年は16歳、今年の春に高校に進学した。彼は学校での人付き合いに疲れたという名目でもって、隣町の進学校へと通うことを決めたのだった。無論、そこでも世渡りのいろはが変わるわけではなく、煩わしさに託けた孤独を演じていた。16の年齢は何につけても人間の軽薄さを露にする。彼の目から、彼の周囲の人間はそういう風に映っていた。また、それを鏡写しとするように彼の周囲も彼を軽蔑の対象とした。ささやき声での嘲笑の言葉が彼の自尊心に掠り傷を刻んでいく。しかし、彼は反撃の術を持っていない。ただ、耐えるばかりの毎日が過ぎるばかりの春であった。

 少年は日毎自宅に戻ると、お気に入りのCDをかけるようになった。何の飾り気もない野性的なギターロック。しかし、その詩は捻くれた表現を自称しながらに、本当を語っていた。耳につく甲高いボーカルの歌声は、きっと皆にとって不快に聞こえるだろう。しかし、それがかえって心地良い。なけなしの2,000円で買ったそのバンドのアルバムも、彼の聖典の源となった。

 「薄っぺらい顔で点数をつけてくる馬鹿ばかり。そうしていればご機嫌ですか。」

 二番のAメロのフレーズを全肯定するように聖典に記す。少年は、この手の挑発的な詩に傾倒するようになった。

 明くる日、少年は同じクラスの男Aに声を掛けられた。

 「○○は、どこから来たんだっけ。いきなり、知り合いもいない学校に通うなんて不安でしょ。」

 「そうだね。なかなか慣れなくて。本当に、ちょっとばかり。そうだよね。」

 そうして、彼とは少しばかり当たり障りもない会話を交わして、あとは普段と変わりなかった。いつものように放課後になると、足早に家までのバス停まで歩いた。Aが純にやさしさでもって彼に声を掛けたのも、お高い倫理観に基づいた自責の念に後押しされたのも分かっていた。しかし、彼は決して孤独が救済の対象になるとは思っていない。そういった、一義的なものの見方に盲目的に従順な人間もまた、何もわかっていない馬鹿なのだ。エイトビートと胸を抉る声。本当はそうやって、その場で全部ぶちまけてしまいたかった。しかし、結果彼はふつふつと沸き立つ毒を体内に溜め込んだまま、無力で慎ましい人間のふりをしてごまかしてしまった。

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