アブサン

東堂栞

三千八百円

私がその店を知ったのはスマホのブックマークを眺めている時だった。

 私のスマホのブックマークは「いつか未来の自分が眺めた時に役立つだろう」と過去の聡明な自分(無論、今の自分も聡明だ)(ちなみに本当に聡明な人は自分のことを聡明だと声高に言ったりしない)(詰まるところ自虐的皮肉)が残した足跡だ。そのブックマークの一覧は、ある日に大学の先輩と飲んだときの会話で上がった「市内ならこの店で飲むのが良いだろう」のかたまりであった。


 一覧からその店を選んだ理由というのも、その店でアブサンが飲めるからであった。

 アブサンがかつて「麻薬に近い、どころか麻薬の成分が入った非合法な酒(あまりにも解像度の低い認識)(詰まるところ自称聡明な者の限界)」であったことは博識な者なら知っているだろう。無論、博識な私(本当に博識な者は自分のことを博識だと声高に言ったりしない)(詰まるところ以下略)はそのことを知っていたし、極めて残念なことに現代では合法なお酒であることも知っていた。


 その店に入り、客が私一人しかいないことに気後れした。コミュ力下限界突破の私には店主とのマンツーマンはとても辛かった。


 会話の糸口を探るようにメニューから何となく指差したメニューも


「あ、今ちょうどそれは切らしていまして」


 という店主の苦笑で打ち砕かれた。


「おすすめは何がありますか?」


 コミュ力下限界突破でも本だけは山ほど読んだ人間が私なのだ、それっぽい場でのそれっぽい会話(地頭の悪さが見える文章)を知らないわけではない。


「そうなると~~か~~になりますね」


 そう言って店主が見せたのは二本のボトルだった。名前は失念した(自称聡明な者の限界)が度数の低い方を選んだと思う。


 店主がボトルからカクテルを作る小さい銀のカップ(名前が分からない。バーで店主がカクテルを作るときに使うアレだ。ちなみに今さらだがこの店はバーだ)に注ぎコップに移す。

 店主がコップと違うガラスの容器に氷と水を入れる。小指よりも細い蛇口を捻ると水滴がぽたり、ぽたりとガラス容器の下に設置された配管から湧き出た。


 たぶん、この水滴でアブサンの色が変わっていくのを楽しむのが風流なのだろう。私はそう信じてコップをじっと見つめた。決して店主と二人きりの空間に耐えられなくなって目を逸らすことのできるなにかを求めた訳ではない(本当だ)(間違いなく)(そこ、疑いの目をしない)。


 一杯目のアブサンは正直言うと、よく分からなかった。美味しいお酒は浴びるほど飲んだが記憶は酔って飛んでいるのが私だ。後から美味しいお酒の名前を言えと言われても言えないのが私である。

 そんな私にとってアブサンの是非は分かるはずもなかった。


 二杯目を頼むとき、私は自分の知る精一杯の知識で


「アブサンスプーンで砂糖を乗せて飲みたいです」


 と述べ、手近にあったボトルを指差した。


「い、いや~アブサンに砂糖入れて飲むのはブルガリア式(ここは聞き逃してしまった。ブルガリアでなかったかもしれない)で質の悪いアブサンが出回っていた昔の飲み方であって、この一番高い値段の最高品質のアブサンを砂糖入れて飲むのはもったいないというか……いや飲み方は自由なんでそれが良いと言うならそれで出しますが」


 はっきり苦い顔をされたし言外に「これ高いよ!? うちの店で一番良いやつなのにマジで砂糖入れて飲むの!?」と言われたので


「あ、じゃあひとまずストレートで」


 と適当な知識を投げたことを恥じながらストレートを頼んだ。


 ストレートは甘かった、いや痛かった。「純粋なアルコールは甘い」なんてことを先輩が言っていたなぁ、と思いつつ甘さを感じていたが味蕾が軒並み焼かれる感触(もちろん錯覚)(アルコールは消毒にも使われると言うならこの現象は……いや止そう)で味わうどころではなかったので水で割ることを頼んだ。


 先と同じ水滴を垂らす機械で水を入れてもらい(その間に二人目の客が来た)、改めて二杯目を楽しんだ。水で割られた二杯目はいくぶん口当たりがまろやかになっており(水で薄まっているのだから至極当たり前の話だ)、また甘味をはっきりと感じた。


 ボトルで買ったら恐ろしい値段になるのだろうな、と思いつつちびちびと楽しんだ。


 三杯目は一番値段の安いアブサン(博識な者なら知っていることだが、一般的なアブサンは緑色だ)(だが、このアブサンは黒いのだ!)(さながらコールタールのごとく黒いのだ!)(ちなみに私はコールタールの実物を見たことがない)(詰まるところそういう印象を受けるほど黒いということで、ここはひとつ)を頼み、最初はストレートで飲んだ。


 三杯目はミントの香りが強烈な自己主張をしていた。鼻の通りが良くなるほどに自己主張してくるミントだった。


「アブサンスプーンに砂糖を乗せてお願いします」

「はい、良いですよ」


 店主はそう言ってアブサンスプーン(スプーンの先が葉脈だけ残った葉のような形をしたスプーンだ。名前通り、これ以外の用途で使えるとは到底思えない)に角砂糖を乗せ、これまた先と同じく水滴を垂らす機械にて角砂糖を溶かしていった。


「甘い、ですね」

 

 砂糖が入っているから甘い。小学生でも分かる理屈である。砂糖の甘さを塗り潰さんばかりにミントが相変わらず激しい自己主張をしていた。すーすーする(飲んでいる間に二人目の客は帰り、三人目の客が来ていた)。


 四杯目に頼んだアブサンはボトルに「Traditional」と書かれていたので頼んだ。博識で聡明な私(ボロの出まくっている設定)は「Traditional=伝統的=伝統的ということはロングセラー=ロングセラーは消費者に気に入られている=美味しい。Q.E.D」という式を導きだしていたため(喋る度にバカを露呈していく)、このアブサンが不味いということはないだろうと思いつつ頼んだ。





 苦くて泣きそうだった。「グレープフルーツの皮くらい苦いやつですねー(なんとも奇遇で不運なことに、私が食べられないほど苦手な食べ物の一つだ!)」という店主の言葉に引きずられたのも多少あるかもしれない。だがそれにしたって苦かった。「これを飲み切るのか? 正気か?」と自問自答したくなるほどに苦かった。


 頼んだ手前、涼しい顔をしつつ飲み切り、会計を頼んだ。表題の値段になった。


「うちには他にも色々アブサン置いてあるんで、また来てください~」


 と言われたのでまた行こうと思う。





 未知を知ることは喜びだ。酔いの泡沫に消えるとしても、美味しいものを食べて、飲んで生きていたいものである。


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アブサン 東堂栞 @todoshiori

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