カナリア

時計 銀

カナリア

カナリア。金糸雀。



彼女、沙々季ささき金糸雀かなりあはそう名付けられた。

普通に病院で生まれ、なんの異常もなく。そして、両親と二度目の再会を果たした。


ここまでは、なにもなかった。ただ、他と違うと言えば、両親が世界を股にかけて飛び回るような仕事で彼らはほとんど家にはおらず、金糸雀が物心ついた頃には普通に母方の祖父母に預けられていた。


そして、母方の祖母は厳格な人だったのだ。毎日彼女はカナリアに色々なことを言い聞かせる。


例えば、

「雷が落ちている時は、へそをとられるから、隠せ」だとか。

例えば、

「蛇の抜け殻を財布の中に入れておくと、金が貯まるから、絶対に入れておけ」だとか。

そして、例えば、

「親よりも早くに死んでしまうと賽の河原で一生、石を積むのだ。つまりは地獄だ。だから、絶対に死ぬな」だとか。


カナリアはそんな祖母に従順であった。なぜなら祖母はカナリアがなにか間違えれば、怒鳴り散らし、暴力を振るう。そんな厳格な発言や行動がカナリアに祖母に対しての恐怖を植え付け、また、カナリアも祖母に従わなければ殺される、とさえ考えていた。

彼女が五歳の頃であった。


小学校に入ると、低学年の頃はまだ多くの友達がカナリアにいた。彼女の祖母の影響によるどこか不気味な行動は低学年の頃は誰も気にしなかった。

雷が落ちれば、泣きそうになりながら、へそを必死で隠す。担任もまだ小学一年、二年だからと特に何かを思うわけでもなく宥めるだけであった。


だが、学年が上がるにつれて、人は疑うことを覚える。人は差別というものを覚える。人は優越というものを覚える。

クラスメイトや先生方は彼女をいわゆる『不思議ちゃん』だと思っていた。

いまだ、雷が発生すると泣きそうに必死でへそを隠す。

小学生、三、四年のころである。

誰もが、この言い伝えは嘘だともう思っていた。いや、嘘とは言い切れないが明らかな誇張表現であることは誰もがわかっている。

ここで、違和感に気づき、誰かが動いてくれたのなら、これから起こる悲劇はなかっただろう。


それからか彼女のまわりに人は寄り付かなくなった。小学生、高学年である。彼女の話は生徒の親にも伝わり、誰も彼女と目さえ合わせようとさえしなかった。


しかし、カナリアは何も変わらなかった。祖母の言葉に従い、日常を謳歌するだけ。

学校では、ただ、脳の思考回路の前部分、つまりは、勉強しか教えなかった。もちろん、道徳だとか、そういう授業もあった。しかし、それが何になるというのだろう。

よく道徳の授業で、色々な体験談や物語を読まされる。

そして、読んだ人間は同情はする。だが、その体験を自分には置き換えないのだ。だから、『そんな考えを持っている人もいるんだなあ』とその程度でしか思わない。考えない。無意識に思うだけなのだ。

『自分ならば、どうしますか?』などは論外である。

自分の飛ばした分身をシミュレートさせて、終わるだけなのだ。その考察を紙に書き、それをもう一度、頭にインプットして、考えはしない。考えるのは、語彙間違いだけなのだ。

だから、どうあがいても脳の思考回路の後ろ部分、心の深層にたどり着くことはない。

道徳に意味なぞないのだ。


小学生。孤独の生徒。では、次に何が起こるだろうか。

もちろん、いじめ、である。

ガキ大将のような子供が最初は道の真ん中にいたカナリアを押して、退かす。始まりはそれだった。


自分には力がある。自分はコイツを操れるだけの力がある。

そう考えた後の彼の行動は速かった。

取り巻きを連れ、カナリアを人気のつかない場所に呼び出し、殴った。

人に殴られる、ということに忌避感を感じる彼女はすぐさま、ガキ大将もどきに許しを求めた。

しかし、それでも、彼らの暴力は止まらない。


そして、全校生徒から彼女はぞんざいに扱われるようになった。


いじめでよくある、カナリアのいる机と椅子に傷はつけたり、水浸しにする、という行動はなかった。

彼らも人間だ。考える力はある。担任にバレる。それだけを彼らは恐れるのだった。


「気持ち悪いんだよ、お前。もう、黙れよ」

「金糸雀ぁ?なんだよ、その変な名前。キモいんだよ。お前なんかウンコでいいんだよ」


「…金糸雀は、いい、名前、なの。きれいな、こえ、だから、おかあさんと、おとうさん、がつけて、くれた名前、なの。なにも、わるく、ない」


「うるせえよ。お前の声なんか豚といっしょだよ」


彼女はただ、殴られるだけだった。



しかし、転機が訪れる。カナリアの両親が日本に留まって仕事をすることが決まったのだ。そして、それを機に職場に近いところに移るため、カナリアの引っ越しが決まった。


だが、どちらに幸運が舞い降りたのだろうか?

カナリアだろうか?いや、ガキ大将達だろう。

彼らは人に暴力を振るっても子供なのだ、人間なのだ。罪悪感にのまれるのは当然である。

だから、何も知らない担任から彼女が転校することが決まった時、遊び相手がいなくなった、と不貞腐れるのを装いながら、内心は解放されて嬉しかったのだ。


そして、中高生を彼女は違う場所で過ごした。

最初は彼女の『金糸雀』という名前に誰もがカタカナを思い浮かべ、外国人か、と思った。しかし、実際の彼女は純日本人の黒髪の女の子であった。


彼女のいじめ生活はここで終わった、と誰しもが思うだろう。

だが、彼女の行動に改めはないのだ。

やはり、雷が鳴れば、へそを隠す。必死で。

ただ単純に彼女はこの行動は正しいことなのだ、と思っている。


彼女は中高ともに気味悪がられ、彼女の言動を訂正する者はやはりいなかった。

そして、これもまたやはり。

彼女は男子から数回ほどあったが、それ位じゃない女子から嫌がらせを受けた。

しかし、彼女は脳は賢くなっても、基本的な行動は昔のまま。


誰かを頼ることはしなかった。

これも、祖母が関係する。彼女の教え、パートいくつかに、

「他人を頼るな。それはお前が弱虫であると同意義だ。弱虫になるな」と。


彼女は耐えた。耐えに耐えた。

だが、一つ。逆説があることにお気づきだろうか。

脳は前後部分がある。後部が変わらずとも、前部は変わるのだ。

彼女は虐められるも、勉強には真面目に取り組んだ。


人には頼らない。自分の力で彼女たちを見返す、と。


そして、そのおかげもあってか、彼女の成績は学年でトップレベルとなった。

やはり、どこへ行っても何も知らない担任は彼女を褒め、一方でクラスメイトたちからは罵倒され、暴力を振るわれる。


最初に報われたのは、大学受験だった。彼女は難関といわれる、とある国公立大学に受かった。


そして、普通に何事もなく、大学生活を送り、卒業した。


そして二つめは、とあるサイトで戸籍法というものを見た時であった。


曰く、その法律により、正当な理由がある場合、名を変更できるというのであった。


カナリアは思った。

小学生の頃から、ずっと『金糸雀』という名前のせいでいじめられていたのだ、と。


実際に彼らの口から出たのは、「カナリア」という名前と、その罵倒。考えれば、『金糸雀』が悪いのだと思える。


彼女は早速、名を変更した。

別段、名前の変更理由でなにか疑われることはなかった。

『金糸雀』は鳥である。は人の名称にはならない。キラキラネームと思われても仕方ないだろう。実際、それでいじめられたのだから。


そして、カナリアは『沙々季金糸雀』から『沙々季香奈かな』となった。


そこからも、彼女は普通の大学生活を送り、そして、普通に企業に就職した。二十五歳のころだった。


その頃からなのだろうか。悪夢を数日に一回は見るようになった。

赤黒いなにかに覆われた空に血塗れのような砂利の地面。自分はただ、石を積み上げ、たまに、透き通っていない空を見るだけ。

そして、いつも何か、背筋に寒気が走り、後ろを振り向くと黒い人型のなにかに襲われる夢。最後はただ、殴られ続ける夢。


一週間に一回。五日に一回。二日に一回。毎日。


彼女は毎日、そのような悪夢を見るようになった。

体調不良になることも増え、彼女は心になにか罪悪感というかなんというか、気持ち悪いものがあるように感じた。


そして、考える。自分は何か、間違えただろうか?


一年前、二年前、三年前。香奈は遡る。

そして、たどり着く。二十年前。

自分は一つ、祖母の言い伝えを守っていないのかもしれない、と。

記憶されているものを粗探ししていく。なにか、それっぽいものでもいい。なにか、私を救える記憶を、と。


そして、見つける。祖母は言った。

「親よりも早くに死んでしまうと賽の河原で一生、石を積むのだ。つまりは地獄だ。だから、絶対に死ぬな」と。


これだ。これなのだ、と。自分は悪いことをした。自分はいけないことをしたのだ。自分はガキ大将らと同じように両親のつけた名前を馬鹿にした、と。

自分は、『金糸雀』という名を殺した、と言ってもいいのだ。




彼女の精神は昔からただ、恐怖に縛り続けられるものだった。

恐怖だけが彼女を突き動かした。


だからだろう。人間焦れば、選択肢は二つに限る。立ち向かうか、逃げるか。


彼女の行動は速かった。すぐに、自分の名を返してもらうよう、市役所に向かった。


もちろん、名を返すくらいどうってことないだろう、と何も感じず、役員たちは彼女の戸籍の名前を変えた。


そして、事件は起きたのだった。


『ニュースです。昨夜、十一時ごろ、○○県●◆市で二十六歳女性が自身の両親を殺害したとして、逮捕されました。犯行理由として、今のところ容疑者は「ただ、怖かった。これで、私は助かった」としか言わず、警察は詳しいことは調査中のことです』


インタビュアーたち、ジャーナリストらはこの情報手に入れた後、ゴミの中から食べられるものを探すカラスが如く、彼女の事件の要因を探した。


ただ、昔から彼女のことを知っているであろう人たちの口から出てきたのは、『アイツの頭はイっていた』、『最初から変な行動しかしなかった』などしかなく、祖母である人に聞くと、『ちゃんと、育てたはずなのに…』と、泣きながら答えた。


これらを踏まえて、ジャーナリストは諦めた。自分ではここまでしか、調べられない、もう他に真実は発掘されないと。そして、新聞記事等に彼女のことをボロクソに書いた。


誰も、真相は知らない。考えや動機を国語的、精神的に考えても最後の行動への移し方の経緯の瞬間に表れる気持ちは同じ経験がない限り、わかるはずがないのだ。


動機は分かっても、彼女になりきれることはない。

彼女の心情は分かっても、彼女にはなれない。

いや、深層を全て理解しても、彼女と同じ行動をとらないように自分を動かすことはできないのだ。


他人は他人の心に共感はできない。

だから、彼女の心を理解した時点で彼女と全く同じ行動をとってしまい、彼女を別の方向へ動かそうとしても、彼女の思いに気づくことはない。それは、彼女の心を理解していない、ということである。


『人』という感じは一方がもう一方に支えられて漢字が成立する、とよく言われる。


だが、それは表面に触れているだけにすぎない。

深層にはたどり着いていない。

たどり着いたら、他人の全てを理解したのならそれは、一本の線である。それは、双方、ではない。一本なのだ。


だからといって彼女を助けられない、わけでもない。彼女の間違いを優しく訂正してくれる、誰かがいてくれれば良かったのだ。


そんなことがないよう、後悔をしないよう。君たちも周りを見てみよう。誰かが助けを呼んでいるかもしれない。

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