第10話 君の字は
物ぐさ太郎は思いのほか足が速く、走りに走ってようやく追いついた。一人で立ちつくしているところを見ると、どうやら女房は逃げおおせたらしい。
物ぐさ太郎は僕を見て、
「あれ? なんで忠助がここにいるんだ?」
などと、のんきに言っている。僕は息を切らせながら、
「もうあきらめろ。妻なんて、そんなに簡単に得られるものじゃない。信濃へ帰るんだ」
と
「そうはいくか。それじゃあ、何のためにここまで来て働いたのかわからない」
「それほど妻が欲しければ、信濃へ帰って向こうで見つければいいだろう」
「都の女のほうが、美しくて
やはり、何を言っても無駄らしい。
いっそのこと、放っておいて僕だけで信濃へ帰りたくなる。しかし、もし被害者が出たらと考えると、それもためらわれた。何より、あたらしの郷のみんなに責められるのが目に見えている。
仕方ないので、見張りの役目をまっとうするべく、さらに説得を試みた。
「そうは言っても、彼女がどこの誰なのかも、どこへ行ったのかもわからないんだろ?」
「こっちに走っていったはずなんだがなあ。通行人にも聞いてみたが、そんな女は見てないらしい」
「都はこれほど広くて人も多いんだから、手がかりもなしに、そうそう見つかるはずがない。もうやめておけ」
「手がかりならある。歌だ」
歌というと、逃げる
「あれだけで何かわかるのか?」
「『唐橘の紫の門』が『我が宿』だと詠んでるんだから、おそらくそこにいるはずだ」
「いや、ちょっと待て。都にどれだけ屋敷があると思ってるんだ。唐橘だの紫だのに当てはまるかどうか、外から少し見ただけではわからないだろう」
「わざわざ見て回らなくても、探す方法はある」
そう言って物ぐさ太郎は、
あきれる僕をよそに、物ぐさ太郎は紙に筆で何か書き始めた。長々とした文章のようだが、途中で考えたり手を止めたりしない。川が流れるように、一息に
書き終わるとそれを丁寧にたたみ、辺りをぐるりと見回して、
「よし。あそこで聞いてみよう」
と、言うが早いか、一軒の公家の屋敷へずんずんと近づいていった。僕は
物ぐさ太郎は屋敷の門番に紙を見せながら、
「あのー、すみません。
と、へりくだった態度でたずねた。
門番はその風貌を
「『唐橘の』というのは何なんだ? 他には何もわからないのか?」
「お忘れになったご
門番は少し考えてから、
「『唐橘の紫の門』だな。少々待っておれ」
と言って、
程なくして戻ってきた門番は、
「そなたが探しているのはきっと、
と教えてくれた。どうやら、他の家人にも聞いて調べてくれたようだ。
物ぐさ太郎はぱっと顔を明るくした。
「いや、どうも助かりました。ありがとうございます」
へこへこと頭を下げながら、そう礼を述べると、さっさと七条を目指して歩き出した。
それを追いつつ、僕は疑問をぶつけた。
「よく怪しまれなかったな。文を届けるなんて、嘘だろうに」
物ぐさ太郎は不思議そうな顔をして、
「本物の文に見えるように、ちゃんと文章も書いたぞ。白紙じゃさすがに疑われるだろうから」
と言いつつ、先ほど門番に見せていた紙を僕にも見せた。
驚いたことに、そこには実に流麗な文字で表書きが記されていた。
以前に見た地頭様のお触れ書きよりも、さらに整った筆の運びだ。いかにも身分の高い人が書いた文、という印象を受ける。広げてみると、文章のほうも美しい文字ばかりで埋まっていた。
僕は読み書きを習ったことがないので、書かれている内容まではわからない。それでも、整った文字か悪筆かぐらいは、見た感じでだいたい推察できる。
門番もきっと、相応の身分の人が書いた文と見なしたからこそ、信用したのだろう。
こいつに家作りの才能があるのは聞いていたが、まさか筆も巧みとは。どうしてそれが、あんな
当の物ぐさ太郎は、ただただ女房の居場所へたどり着くことしか頭にないらしい。浮かれた顔と軽い足取りで、都の大路を突き進んでいく。
僕はだんだん他力本願になってきて、「唐橘の紫の門」でこいつが追い返されるまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせた。
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