第5節 不機嫌な名誉顧問と天狼の解説
自分の身に迫る危険の正体がなにか判明するまで、そう時間はかからなかった。
ラディアスの見舞いに行ってから数日後、リトは職場に復帰した。
住まいはまだ王宮だが、物事は順調だった。
本邸は取り壊され、住居となる館は現在建設中だ。失われた家具や衣服などは新調することにはなるものの、ラァラと店を回りながら買い物をするのは新生活を始めるみたいで悪くはない。
ルウィーニの儀式で取り戻した記憶。そして天狼が拾い集めた、幼い頃に散らばった記憶。
それらをようやく整理できたので、リトは研究所に足を運んだのだった。
休んでいる間に、ライズを始め部下達は自分たちで片付けられる書類をさばいてくれていたらしい。
予想していたより仕事の量が少なくて、リトは心の中で彼らに感謝した。いや、後でちゃんと礼を言わなくてはいけないのだが。
机に向かい、書類にインクをたっぷりとつけた羽ペンを走らせる。
しばらく黙々と作業していたが、ふと胸騒ぎを覚えた。
顔を上げ、目を凝らして所長室の入り口の前を見つめる。
透明な魔力があふれ、空間が歪み始めている気がした。
すぐに立ち上がり構えていると、見知った人物が姿を見せる。
白のローブに身を包んだ、真白い髪の
男性にしては華奢な身体だが、実は意外と腕力があるのをリトは知っている。
魔術師や賢者達の間では有名な人物で、一般的には北の白き賢者と呼ばれている。
そして黒曜姫の言葉を借りるなら、いつの間にか
ティスティル帝国の守護者、と様々な肩書きを多く持つカミル=シャドールとは彼のことである。
「久しぶりだな、リトアーユ」
深紅の瞳を細めて、カミルは微笑んだ。
その所作はいつも通りのはずなのに、リトの胸に不安がよぎる。
「久しぶり、だな。突然どうしたんだ?」
彼とは関係が深くなったせいで妙な三角関係にもつれた時もあったが、それは過去の話だ。
名誉顧問がたいてい所長室へ足を運ぶのは、たいていは仕事に関連した用事であることがほとんど。
しかし、今日のカミルは手ぶらだった。書類の束も解析が必要な
「どうしただと? この私に向かって、よくもそんな軽い口が叩けるものだな」
口を歪ませて笑うさまを見た途端、リトは悪寒を感じた。
水を頭から浴びたように血の気がなくなっていくのが、自分でも解る。
どうした。何が起きている。
なぜか解らないが、カミルはとても怒っている。
突然、カチャリと音がした。所長室を施錠された音だ。
「ちょっ……」
「おまえのせいで私の〝予約〟が無効になってしまった。どうしてくれるのかね?」
こつ、と靴音を立てて距離を詰めてきて、リトは後ずさった。
予約って何のことだ。まるで覚えがない。
封じられていた記憶は全部解放してきたから、単に忘れているということもなさそうだし。
「カミル様が何のことを言ってるか、解らないんだけど」
「そうだろうな。安心しろ、すぐに解らせてやるよ」
じりじりと迫り来るカミルの両目は鋭く、リトの狼狽した顔をとらえていた。
逃げ腰で後退するものの、ついに背に壁が当たり逃げ場がなくなってしまう。
どうしよう。
白い手が伸びてきて、リトは身構える。
指先が顔に触れる寸前、いつのまに移動していたのか懐から蒼い小鳥が飛び出した。
「
訝しむようにカミルが細い眉を寄せる。
『ピィイイイ!』
甲高い鳴き声は、警告の声のように思えた。
翼を広げた小さなからだが蒼い光に包まれる。
次第に光は強くなり、あふれ、部屋の中を満たした時、リトはあまりの眩しさに目を瞑った。
「リト君に危害を加えるのはやめてくれないかな」
風が頬を撫で、黒い髪がひるがえる。
聞き覚えのある声に目を開けると、人の姿を取った天狼がカミルとリトの間に立っていた。
「やっぱり、ね。私の予感は的中してしまったみたいだね」
「ずいぶんと久しぶりじゃないか、エリュトー」
地に這うような声に、リトは震え上がる。
カミルが怒る場面なんて今までに何度もあったが、ここまで声に表すのは珍しい。
もしかして、ヴァースがすべての元凶なのだろうか。
いや、それよりも。
「エリュトー、って?」
初めて聞く名前だった。
「私が遠い昔にもらった古い名だよ、リト君。カミル、今の私はヴァーハスだよ? ラディアスが付けてくれたんだ。少々凶暴な名前だが、中々面白いセンスだとは思わないかね?」
「そのようだな。ディアは、名付けのセンスが面白いよ」
笑っているのに、鋭い深紅の瞳はちっとも笑っていない。
ヴァースが壁のようにカミルの前に立ちはだかっていて見えないのが、リトにとっては幸いだった。
というか、ヴァースは人族と契約するのは初めてではなかったようだ。
どうりで人の言葉を流暢に喋れるはずだ。
思い返せば、かれはエルディスに対して駆け引きを持ちかける話し方は手慣れたものだった。
「危険な目に遭わせてしまってごめんよ、リト君。カミルが怒っているのは私のせいなのだよ」
「どういうことだ?」
「君はなにも知らなかったと思うんだけどね。ずいぶん昔のことになるのだけど、カミルはラディアスが死んだ時にその魂を貰い受けるという〝予約〟をしていたのだよ」
「——えっ」
あまりの衝撃にリトは言葉を失う。
なにか言わなければ。
真っ白になった頭をフル回転させながら、震える唇を開いた。
「それは、呪いじゃないか。どういうことだ、カミル様」
「死んだ後に魂を貰うくらい、安いものだろう?」
悪びれないセリフは偽りでないことを示していた。
目眩がしたが、今は倒れている場合ではない。
そういえば、とリトは以前の記憶を奮い起こす。
ラディアスと出会って間もない頃、彼は自分の魂はカミルのものだから死なせてもらえないと言っていた。
あの時はどういう意味なのか聞いても答えてくれなかったが、大掛かりな呪いをかけられているという意味だったのだろう。
なにも感じないわけではなかったが、ここで怒りを吐き出しても仕方ない。カミルの心にはなにも響かないだろう。
目の前の天狼を見ると、かれは長い尾を持ち上げ、視線だけは白き賢者から逸らさずに口を開いた。
「最初にラディアスを拾った時に、彼の魂に刻まれていた呪いはカミルが描いたものもあることに気付いたんだ。長い間縛られていたようだし、いつまでもあの子が苦しむのは可哀想だろう? だから、まとめてすべての呪いを私が破壊したのだよ」
「ふん、まさかおまえに横取りされるとはな」
「ふふん、私の得意は〝破壊〟と〝解放〟だからね」
長い尻尾が目の前でブンブンと揺れている。どこか得意げなところは精霊らしくてかわいい。
だんだんと、カミルの機嫌が悪い全貌が明らかになってきた。
自分が気に入っているラディアスを呪いという鎖で繋ぎ止めていたのに、ぽっと出てきたヴァースにその鎖を破壊されたのが気に入らないのだろう。おそらく、鳶に油揚げをさらわれたような気分だったに違いない。
「だけど、そこでどうして俺が怒りの矛先を向けられなければいけないんだ」
リトが納得できないのは、その点だった。
ヴァースの介入は誰にとっても嬉しい幸運だったのはたしかだが、狙ってできるものじゃない。
かれがラディアスを拾ったのは単なる偶然。そもそも天狼は目にすることさえまれと言われるほどの稀少な精霊なのだ。
「おまえの父親のせいだろう、リトアーユ。エリュトー、いや今はヴァーハスだったか。エルディスが天狼のねぐらの近くにラディアスを置き去りにしたせいで、ヴァーハスに奪われたんだ。責任は息子であるおまえにある」
「それはさすがに理不尽すぎないか!?」
ヴァースは振り返り、思わず声を荒げてツッコミを入れるリトを見て苦笑する。
蒼い毛並みの尻尾を一振りし、かれは
「そうだよねぇ。カミルは私に怒りこそすれリト君は無関係だと思っていたのだけど、あの子——ラディアスは強く否定していてね。念のために私の分身を君に贈って様子見していたのさ。案の定、あの子の言う通りになったけれどね」
なんて細やかな気遣いだ。たいていの精霊は不器用だというのに。
まあ、でもラディアスならカミルの性質をよく理解しているし、リトが同じ立場ならやはり注意を促すだろう。
それに今回の事件でエルディスを捕縛したのはカミル本人だ。
女王の命令による逮捕だったのもあって、いつものように危害を加えるのは厳禁とされていたのかもしれない。父が無傷で捕らわれたという話を兵士に聞いたのは、記憶に新しい。
向ける怒りの矛先を失った結果、真っ先に思い浮かんだのがリトだったということだ。なんて迷惑な。
「カミル、そろそろラディアスを解放してもらえないかな。もう十分だろう? あの子は帰るべきところに帰ることができたわけだし」
ヴァースの声は穏やかで、落ち着いていた。
ほとんどの精霊は人に好意を抱く。相手がどれほど悪感情を持っていようと、恨みとか憎しみとは縁遠い生き物なのだ。
すぐに答えを出さず、カミルは黙っていた。
ヴァースの背から顔を出して上司の様子を確認すると、彼は鋭い瞳で天狼を見つめていた。いや、睨みつけているのだろうか。
いつまでこの沈黙が続くのかと思ったが、不意に深いため息が聞こえた。
「こうなっては仕方あるまい。腹立たしいが、手を引いてやろう」
「うんうん、解ってもらえて嬉しいな。ありがとう、カミル」
尻尾を揺らしながら、ヴァースは屈託のない微笑みを浮かべる。
まるっきり邪気のないかれの表情を見てしまえば、さすがの不機嫌なカミルといえど何も言えないようだった。
--------------------
カミル様がラディアスに施した〝魂の予約〟に関しては、3章の第5節「大好きなキミのために」の冒頭をお読みいただければ、より分かりやすいと思います。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます