第2節 託された願いと不安な涙
巣から落ちた迷子の雛鳥は、自分の名前を拠り所にここへたどり着いた。
ルウィーニが行おうとしている方法は、実のところ正式な解呪の方法ではない。
だから、リトが必ず記憶を取り戻せるかどうか、現時点ではまだ何も言えない。
記憶がないのは辛いとは思うが、思い出してもやはり、辛いだろう。
正直なところ、ロッシェはこのまま忘れている方が幸せなのではないだろうか、と思う。
実の父親が呪いという手段で自分を支配しようとしている。
その現実は、知っていて気分のいいものじゃない。
加えて、安否が判らない友人の件もある。
ラディアスという人物について、ロッシェはティスティル帝国現女王の兄という程度しか知らず、何度かは顔を合わせているものの、あまり印象に残っているわけでもなかった。
国を出奔中という現状は、彼を疎んじている者にとって好都合だろう。
彼をどうしようと、証拠を消してしまえば罪に問われることはないのだ。
情報によれば、エルディスは高位の
中位以上の魔法には精神や行動を縛る魔法が数多くあり、それを利用すれば自殺と見せかけて相手を殺すことだって簡単なのだ。
……ルウィーニは、その可能性は低いと言っていたが。
我欲のため実の息子に呪いすらためらわない者が、己の計画を潰えさせた相手を許すだろうか。
むしろ二度と逆らう気が起きぬよう、徹底的に痛めつけるか、二度と邪魔されないように殺害してしまうのではないだろうか。
不安げに周囲を視線をさまよわせながら、記憶のない青年は手を引かれるままに着いてくる。
彼がここにいる意味を考えて、ふと思い至り、ロッシェは黙って唇を噛んだ。
――それを覚悟の、逃亡幇助というわけか。
記憶が戻らない可能性、そして自分が殺される可能性。
すべてを考え合わせた上、雛鳥が猫の爪に掛からないようにと思い付いた避難所が、ライヴァンだったのだろう。
であれば、ラディアスが一番心に掛けているのは、記憶が戻るにせよ戻らないにせよ、これから先どこで誰とどうやって生きていくかという――リト自身の未来だ。
彼自身の身体と生命を守ること、だけではない。
たとえ全部が上手く運ばなかったとしても、彼が悲しみや絶望に呑まれてしまわず、幸せに生きて欲しい、と。
そんな願いを託して、ラディアスは彼を送り出したに違いない。
自分一人が引き受けるには少々重い責任だ。
けれど、幸い彼は友人たちに恵まれている。
もちろんロッシェ自身も自分にできることはしてやる心づもりでいるし、他の者たちだって同じ気持ちだろう。
現実として、自分の元へと彼がたどり着けているわけだし。
今は記憶を失っているから何も解らないとしても、いつかは気づくだろうか。
気づいた時にそれが彼の負担とならず、孤独や悲しみを癒やす熱となってくれればいい、と願わずにはいられなかった。
深く沈み込んでいた思考に結論が付いたところで、ロッシェは足を止めてリトを振り返る。
つられるように足を止めた彼に、にこりと笑って話しかけてみる。
「それにしても、記憶がない君は別人みたいだね。個人的な感想を言わせていただければ、今の君もなかなか悪くないな」
指でつかんだ手首から、彼の身体に走った緊張が伝わってきた。
なに、と首を傾け促してやると、リトは視線をそらして顔を俯かせ、ぽつんと言った。
「記憶がある俺は違うのか?」
覚えていないことに罪悪感を感じているのか、何もかも解らないだけの今の状況が不安なのか。
おそらく両方が混じり合っているのだろうけど。
「そうだねぇ。違うと言えば違うけど、匂いはたいして変わらないかな? 詳細は、記憶を取り戻してから検分してくれたまえよ」
積み重ねられた記憶が思考を導き、行動へと促す。
それなら、今のリトはロッシェの知っている彼とは間違いなく別人だ。
でも、それはそれでいいと思っているのだ、自分は。
放っておいたらどこか危うい方向へさまよいだしてしまいそうなところは、記憶がある頃も今もたいして違わないように感じられる。
「解った」
いや、こうやっていちいち真に受ける素直さはやっぱり、新鮮かもしれない。
割と深黒な事態だと解ってはいるものの、ロッシェは湧き上がってくる悪戯心を抑えることができなかった。
わざと物憂げな顔を作ってリトに迫り、耳元でささやく。
「にしても、勿体ないと思わないかい? 君と僕は、人には言えない関係だったのにさ」
びく、とリトの手が震えた。思っていた以上の反応だ。
そういうつもりでつかんでいたわけではなかったが、利き腕を捕らえていることがおかしな演出効果を生んでしまったらしい。
「どんな関係だったんだ?」
息をひそめるように、問い返される。
そういえば、初対面から誤解されそうな怪しい言動をしてしまった気はするが、ここはあえて気にとめないことにする。
「僕のことを忘れてしまうなんて、悲しいですよ。ご主人様」
久しぶりに懐かしい呼び方で意味深にささやいてみれば、当然彼は凍り付いた。
「……そんな関係だったのか?」
一体、どんな関係を想像したのだろうか。
そのあたりをもっと突っ込んで聞き出したい気分だが、さすがにこれ以上は嫌われるか逃げられそうだ。
そうしたら、今度こそルウィーニが怒り出しそうな予感がしたので、やめておく。
「うん、昔はね」
適当に肯定したら、彼はふぅんと唸って深刻な顔で考え込んでしまった。
いささか、冗談が過ぎてしまったかもしれない。
悪乗りするのも彼と自分の間では案外普通のことなのだが、記憶のない彼には刺激が強すぎたか。
「とにかく僕は、君の全面的な味方だから。安心して頼ってくれればいいよ」
他はともかく、この言葉に嘘はなかった。
リトは黙ってロッシェを見上げ、それから少しだけ泣きそうな顔でこくりと頷く。
その表情がなんだかひどく覚束なくて、ロッシェは空いている右手でリトの頭をぐいっと引き寄せた。
つかんでいた彼の手を放し、左手を背中に回してゆっくりと撫でてやる。
聞こえてきたのは、くぐもった嗚咽。
おまけに肩は小刻みに震えていて、その仕草から彼が泣き出したのが解った。
そのまましばらく抱きしめて、何も口を出さず泣くに任せておく。
これはもう、ルウィーニに叱られるのは確実だろう。
笑顔で文句を言われるか、苦い顔で小言を言われるか……。
どちらにせよ、聞き流すつもりでいるロッシェに反省の気持ちはない。
あともう少し泣かせてやれば、気分も落ち着いて腹が減るだろう。
そうしたら、食堂に連れて行って温かいスープを飲ませてやろう。
ルウィーニに施術が始まれば、数日間は飲まず食わずになる。
食べられるようなら、今のうちにしっかり食事をさせてやりたい。
そんなことを考えつつ、ロッシェは廊下の端でリトを抱きしめたまま、彼が泣きやむのを待ち続けたのだった。
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