第8話 闇中
深夜、サイレンの鳴り響く街を通りぬけ、ダニエルは自然公園に身を隠していた。街では誰もが夜の外出を控えていて、ダニエルは未だにまともに血を口に出来ていない。疲労感にそっと息を吐く。ポケットから細い針の注射器を取り出し見下ろす。
なりたてであるダニエルにはまだ牙が成長しきっていないために血を採る必要があった。握り込んだ注射器を額に押し当てる。縋るように祈りを捧げるように。
『君に力を与えよう。どう扱うかは君次第。望むならばもちろん、愛しの彼女を永遠に独り占めすることだって容易いだろう』
赤い修道女が囁いた。
ダニエルが吸血鬼になったのはワンを襲う一週間前だった。ダニエルは自ら吸血鬼と名乗る修道女と出会ったのだ。
ダニエルには母親がいない。幼いときに仕事人間だった父に愛想を尽かしてダニエルを置いて出ていった。だからダニエルに母親に抱かれた記憶はなく、ただいつでも広い家で父の帰りを待っていた。
警察官である父は周囲からの信頼の厚い有能な男だった。だからこそ息子の無能を許さなかった。父はいつでもダニエルに厳しい命令ばかりをくだして、ダニエルがうまく命令をこなせないときには、ときおり手をあげることもあった。ダニエルは誰にも愛された記憶がない。
そんなときに出会ったのが高校に留学してきたワンだった。
ワンと話すようになってすぐにダニエルは己の中の恋心を自覚した。ダニエルはワンに愛されたかった。永遠に自分だけのものにしたかった。他の誰かと話す姿を見たくはない。その一心で彼女の悪い噂を周囲に流した。すぐに彼女は孤立してワンと会話をするのはダニエルだけになった。
でもそれだけじゃあ足りなかった。自室の窓近くに置いた望遠鏡で毎朝ジョギングをする彼女を見つめた。すれ違う人達と軽い会話を交わす様子にすら嫉妬した。
ワンが欲しい。ワンを自分のものにしたい。自分だけを見つめて欲しい。
そしてダニエルは出会った、赤い瞳に赤い修道服を身に着けた真っ赤な吸血鬼に。
「さあ、飲み干すんだ」
そう差し出されたのは鮮やかな血液になみなみと満たされた一杯のグラス。ごくりと唾を飲み込み、ダニエルはグラスを受け取った。これを飲めば自分が吸血鬼になってしまうのだと理解していた。人ではなくなるが吸血鬼になれば、彼女の愛を独り占めできるのだ。迷う理由すら存在していなかった。
ダニエルは一気にグラスを煽り、血液を飲み干した。そしてグリフィスの街に吸血鬼が放たれた。
修道女はダニエルに注射器を渡すと次の街に行くと姿を消した。吸血鬼には日をかけて少しずつ変じていくのだそうだ。少しずつ、少しずつ、ダニエルの内側から人の部分が減っていった。
吸血鬼になるにつれ強まる飢餓感は野生動物を捕まえて満たした。公園で鳥を捕まえ、他所の飼い犬を襲った。太陽を浴びるのが億劫になり、朝に起きることが苦痛になった。それでもいい。完全な吸血鬼にさえなってしまえば、ワンを浚ってしまえる。
最初の事件はそうして起きた。
「大丈夫だ、大丈夫、まだ立て直せる……病院に行こう、ワンを迎えに……」
「馬鹿ね、君は」
自然公園。舗装された道の先にワンが立っている。街灯の下、丸く闇が切り取られた空間で白いチャイナドレスを身に着けている。白くてらてらとしたドレスの生地が光を反射して闇の中でワンだけが光り輝いているようにダニエルの目には写った。
ダニエルは空腹と、警察から逃げ回っていたことでボロボロの満身創痍な状態だ。丸く照らされた光の下に立ち、ワンはダニエルを見つめる目をすっと細める。
「あ、あぁ、ワン……!」
「こんばんは、ダニエル」
「君を、君を迎えに行こうと思っていたんだ、さっきはグリフィスに邪魔をされてしまったから、あぁ……よかった」
涙すらも流しそうなほど歓喜を浮かべるダニエルにワンは微笑む。
かつ、かつ。ワンの靴音が夜の公園に響く。ワンはダニエルのすぐ目のまえまで足を進めると、またダニエルににっこりと笑いかける。桜色の唇の隙間から鋭く尖った牙が覗いた。
あの日、ダニエルは確かにワンを襲った。その首に注射器を突き立てて生まれて初めて人の血を飲もうとしたのだ。でも失敗した。
人の血は芳醇で他の動物の血などとは比べようもなく美味であった。初めて口にしたその甘露に我を忘れてダニエルは吸血鬼の本能のままにワンの首に噛みつこうと牙をたてたのだ。成長しきっていない牙ではワンの柔らかな皮膚すら貫けず、結局は、カッターで切り裂いた。
「君も吸血鬼になったんだね……あぁ、よかった。もしかしたら死んでしまったかもと少しだけ思ったんだ……よかった、本当に」
「君の爪は簡単に私のお腹を裂いてしまったものね、とても痛かったのよ」
ワンの手が己の腹部を撫でる。あの日、あの朝に、この場所で激しい吸血衝動に支配されてしまったダニエルはワンの腹を引き裂いてそこから血を啜った。裂かれ、内臓の転がる腹へ口の周りを汚しながらもうっとりと。
「だから、今度は私の番」
「えっ」
とたんにワンの瞳が赤く染まる。瞳孔が縦に細く伸び、見つめられたダニエルは体を動かせなくなってしまう。硬直したダニエルの首筋にワンは牙をたてて噛みついた。
ず、ずず。
皮膚に細い牙が刺さる感触だけがはっきりとダニエルには知覚ができた。そして吸われるのではなく、何かが侵入してくる。痺れるような感覚が首から血管を通り、全身に広がった。
「ひ、わ、ワン……?」
「ごめんねえ、ダニエル。私は君と友達のままでいたかったのだけど、あの人が君を許さないって言うの」
顔を離したワンは牙を見せて、美しく笑った。塞いでいたものを失ったことでダニエルの首の噛み痕から赤い筋が流れていく。くらくらとめまいを起こしてダニエルはその場に座り込む。その瞳はいつの間にか赤く染まりだしている。ダニエルを一瞥し、ワンは後ろの闇を振り返る。
「これでいいな? グリフィス卿よ」
「……いいだろう、異邦の吸血鬼、
闇の向こうから、低く声だけが空気を震わす。声にワンはほっと胸を撫で下ろし、座り込んだままのダニエルをワンは冷え切った目で見下ろす。ぼんやりと遠くを見つめるだけのダニエルの頭を優しく撫でた。
「今すぐに警察に自首しろ」
「は、はい……」
王からされた命令によろけながらも立ち上がり、ダニエルは歩いて去っていく。その背を見送り、ワンは再び背後の闇を振りむいた。
闇の中で赤い瞳だけが浮いている。かつてグリフィスを支配した、今も支配を続ける吸血鬼、グリフィス卿は瞬きを残してワンと共に闇に溶け込み姿を消した。
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