14時半のチャクラ

「漏れてる漏れてる」


 通りすがりに突然、ささやかれた。


 まったくの不意打ちだった。

 14時半の新宿アルタ前の交差点で、私はびくりと立ち止まった。

 振り返ると、冬の日差しが振り注ぐ雑踏でひとりの小柄なおばさんが私を見ていた。

 古風なパーマをあてた髪に、歯科衛生士のような首のつまったデザインの白い服。

 その奇妙な視線が私をとらえた瞬間、私の中で光がひらめき、この世界から彼女と共に切り取られてしまった気がした。


「第4チャクラが開きっぱなしで漏れてるわよ」

「えっ」

「胸。胸のチャクラ」


 思わず胸に手をやった。何が漏れていると言うのか。

 不安に駆られている間にも青信号が点滅し始め、私はアルバイトに遅れそうなことを思いだす。

 背を向けて走りだしても、おばさんの視線が背中に突き刺さっているのを感じた。

 チャクラ。

 職場のある雑居ビルの階段を駆け上がりながら、口の中で小さくつぶやいた。



「まだ漏れてる」


 やはり14時半、アルタ前の交差点だった。

 見覚えのあるおばさんの姿が視界に入った次の瞬間、その声が聞こえたのだ。


 人波に押し流されないよう足を踏んばり、ゆっくり振り返る。

 おばさんはあのときと同じ視線を私に向けていた。

 古風なパーマヘアに、歯科衛生士のような首までつまった白い服。

 交差点を行き交う人々が、立ち止まって対峙する私たちにぶつかりながら歩いてゆく。


「――何が漏れてるんですか」

 胸に手をあてながら、私はたずねた。

 頭の隅ですばやく計算する。バイト先の雑貨店は歌舞伎町へつながる路地にあり、15時までに制服に着替えてレジに立たなくてはならない。

 このままでは遅刻だ。でも、話さずにはいられない。

「精。エネルギーね」

 おばさんは口角を上げて答えた。そうすると、南国の鳥を思わせる顔つきになった。

「チャクラは第1から第7まであるの。第4のハートチャクラが整っていれば、愛の行為に魂の経験を積むことができます」


 理解の追いつかない話を聞きながら、私はじりじりとアルタ側に歩を進めた。おばさんも話しながらついてくる。

「でもね開きっぱなしだと、独占的でバランスを欠いた愛になる。あなた、好きな人がいるでしょう」

「はあ」

 とうとうアルタ側に渡りきることに成功した私は、疑心暗鬼になりながらうなずく。

 たしかに今、バイト先の店長に恋をしている。妻子ある人だけれど。

 恋のエネルギーがだだ漏れになっている、という理解で合っているだろうか。


 ホスト風の男たちが私に肩をぶつけながら歩き去ってゆく。

 たまにならアルバイトに遅刻してもいいかもしれないと、頭の隅でふと思った。たまには店長に怒られてみようか。

「よろしかったら、チャクラを整えるトレーニングをしてあげますから」

 おばさんは斜めがけにしていたがま口ポーチからチラシを取りだし、ほとんど強引に押しつけてくる。古くさいフォントで"スピリチュアル・ラボ ヴィディヤー"と印字されている。

「ムーラバンダが完成すると精が漏れなくなる」「クンダリーニを頭から上げてから心臓に戻す」「宇宙とつながり、周りをエンパワーするために」

 ヨガのようなポーズで静止する女性の写真に、意味のわからないフレーズが書き添えられている。

「来てくれるってわかってますよ」

 私の質問を封じるようにおばさんはくるりと踵を返し、再び交差点の雑踏に身を投じた。


「何それ、絶対怪しいじゃん!」

 照明を落とした閉店後の店舗でレジ締めをしながら、先輩は叫んだ。

「ヨガスタジオとかじゃないんでしょ? スピリチュアル・ラボって何? やだあ超怪しー!」

「怪しいかどうかは……」

 バインダーに挟んだリストを手に、理論在庫と実際の在庫の数を突き合わせながら、私は応じる。

「いやいや怪しいに決まってるでしょ! 絶対おかしなもの売りつけられるんだよ、ヒーリンググッズとかご利益のある水晶とか」

「うーん」

「え、まさかほんとに行ったりしないよね?」

 リストに正の字を書きこみながら、私は曖昧に笑った。




 14時半、初春の光が乱反射するアルタ前の交差点。

 ああ、やっぱり――往来の向こうから歩いてくるのは、あのおばさんだ。古風なパーマに、変わった白い服。斜めがけのがま口ポーチ。

 しっかりと目を合わせ、私はたしかな足取りで彼女に近づく。わたしが気づいていることにおばさんが気づく。視線が交錯する。


「まだ漏れてるわね」


 立ち止まり、口角を上げておばさんが言う。

 突き上げるような興奮が私を襲う。鼓動が速まる。頬が緩む。

 ああ、会えてよかった。

 勝手にオーラ診断したところによれば、おばさんは私の売りつける神秘の聖水を買ってくれるはずだから。

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