終電まで

 築木ちくき先輩は、背が高くて、流行りの塩顔系イケメンで、トークが軽妙で、肩の力が抜けていて、服装がいちいちおしゃれだけど気取りすぎてなくて、そんなだから当然のごとくサークルの女子メンバーにひたすらモテた。

 そしてこれまた当然のことなのか、だらしない女好きで、浮気性だった。

 加奈かな先輩と同期の柚乃ゆずのが彼をめぐって壮絶なバトルを繰り広げたのは、つい先月のことである。

 だからあたしは、はっきり言ってちょっと、というかかなり、敬遠していたのだ。本能的に危険を察知したのだろう。


 それなのに今、あたしは築木先輩とふたりで夜道を歩いている。

 缶コーヒーと肉まんを持って。


「だるかったよね。飲み会」

 ふわあ。築木先輩の大あくびが、春のはじめの夜空に消えた。

 あたしたちの頭上で、まだ花をつけていない桜並木の枝々が差し交わされている。恋人同士なのか酔った勢いなのか、ねっとりと腕を絡ませ合った若い男女が数メートル先を歩いている。

「はい……あ、いや楽しかったですよ、いつもながらいろいろ勉強になりましたし」

「んなりきまなくていいよ」

 またひとつあくびをして、ついでに小さなげっぷもして、築木先輩は笑った。不思議とそれを品がないとは感じなかった。

「……力んでますかね」

牧村まきむらさんっていかにも育ちのいい感じ」

「そうでしょうか」

「そういうとこ。いつまでたってもばきばきの敬語なとことか。細胞にまで染みついちゃってるんだろうね」

 え、先輩、意外とあたしのこと見てるじゃん。

 一対一で会話したことのほとんどない築木先輩に自分を評価されていることに、不思議な高揚を覚えた。


 実際、飲み会はだるかった。

 いつもながら一部の先輩たちが説教モードになり、一部の後輩たちが悪酔いしてビールジョッキを倒し、一部の親密な者同士が頬を寄せ合ってひそひそと語り合っていた。

 築木先輩の隣は加奈先輩ががっちりキープし、柚乃は見せつけるように同期の男子と肩をくっつけて飲み、時折キンと甲高い笑い声を上げた。

 隣り合った女子との会話も早々な尽きてしまったあたしは、かろうじて愛想笑いをキープして話題の糸口を探しながら、冷えた焼き鳥をひたすら串から外し続けた。指先がタレと鶏の脂で汚れ、ますますみじめな気持ちになった。

 総じていつもの飲み会だった。

 結局、加奈先輩も柚乃も飲み潰れてしまい、路線の同じメンバーが抱えるようにして駅まで送って行った。

 そして気づけばあたしは築木先輩とふたりで駅を目指している。

 小腹空いたのでコンビニ寄っていいですか、と言おうとしたら、先に同じことを言われた。

 肉まんの気分だったことまで同じだった。

 愛想のないだるそうな店員からほかほかの肉まんを受け取りながら、先輩は「わーい」と子どものようにはしゃいだ。


「お、満月」

 築木先輩が見上げた空に、東京の夜景に光を弱められた月が浮かんでいた。

 加奈先輩のことも柚乃のことも考えていなそうな無垢な横顔になぜかどきりとした。

 上空では雲の流れが早く、月は雲間に見え隠れしている。

「いや、1日早いですよ。正確には明日が満月です」

 肉まんの最後のかけらを口に押しこんで、先輩はあたしを見た。汚れた指先をぺろりと舐めている。昔かわいがっていた近所の仔犬のようだと思った。全然違う生き物なのに。

「なんでわかるの?」

「え? なんでって……」

「いつが満月とか何日早いとか、どうやって知るの? みんな知ってるもの? わかんない俺って変?」

 ふにゃふにゃした声で少年のように尋ねられて、少し焦る。いつのまにか歩みは止まっている。だいじょうぶ終電まではあと4本くらい電車あるし、とすばやく計算する。

「え、いや、ほら……気象予報でも言ったりしますし、月暦つきごよみというものがありますし」

「ツキゴヨミ?」

「月の満ち欠けが載ってるカレンダーです」

「ああ、月暦」

 先輩は納得したんだかしていないんだか判別しづらい声音で言った。


 だらだら歩いているうちに駅が見えてきた。淋しいようなほっとしたような、説明できない感情が訪れる。

 改札を目指すのかと思いきや、筑木先輩は駅の入り口にあるベンチにすとんと座ってしまった。脚を組み、缶コーヒーの残りをすすっている。

 え、え、と戸惑いながら、その隣にそっと腰を下ろした。拒絶されていないことを確信して。

 そのまま座って目の前を通り過ぎてゆく人々を眺めていた。言葉はなかった。

 明日は朝からバイトが入っているというのに、終電で押し潰されるようにして帰るのは避けたいのに、なんで「そろそろ帰ります」って言えないんだろう。あたしは自分の心の中を探検する。

 終電までは、あと3本。

 飲み口がべたべたになったコーヒーの缶を持て余しながらそっと隣を見て、息を呑んだ。

 先輩は、静かに泣いていた。

 ぐすん。脚を組み、視線を前方に据えたまま、洟をすすっている。頬を伝う涙が街灯の光で繊細なきらめきを放っている。

 終電までは、あと2本。

 あと1本。

 先輩、泣きやんでください。

 あたし、帰れないじゃないですか──。


 *


 ふいにあの初春の夜のことを思いだしたのは、久しぶりに終電を逃しそうになったからだろうか。

 新しいプロジェクトのための資料をぎっしり詰めこんだ通勤鞄を胸に抱え、隣り合った誰かの酒臭い息を浴びながら車両に体をねじこんだ途端、ドアが閉まった。

 ごとん、とひと揺れして、ぱんぱんに膨らんだ最終列車は郊外へと走りだす。


 あの後ほどなくして、筑木先輩はサークルから消えた。加奈先輩でも柚乃でもない後輩の女の子を妊娠させて、衆人環視の中でさんざんに責め立てられて。

 大学構内で見かけることもまったくなくなった。自主退学したという噂も流れた。中絶費用を稼ぐために怪しい闇バイトに手を出して社会から抹殺されたという不穏な噂も。

 筑木先輩がいなくなるとサークル内のコミュニティも空中分解して、幾多の修羅場が繰り広げられたBOXも閑散とするようになった。


 筑木先輩、元気かな。どこかで図太く生き抜いているよね。

 またどこかで女の子を泣かせているかな。

 好きでもない女の子を終電まで付き合わせたりしているかな。

 透明な涙を流していたり、しないかな。


 電車は走り続け、背後の人に押されて、あたしは額をガラスにあてて夜空を見つめる。

 満月に1日足りない月が小さく揺れながら光っている。

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砂とピアスの降る庭 砂村かいり @sunamura

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