言葉のグリッド

 文芸部室のドアを開けると、永山先輩がひとり、机に伏せて泣いていた。

 そのままドアを閉めて引き返そうかと思ったのだが、音に気づいて顔を上げた先輩とばっちり目が合ってしまったので、覚悟を決めて入室するほかなかった。


「大丈夫ですか」

 向かいの席に腰を下ろし、あたりさわりのない言葉をかけた。

 永山ながやま先輩は組み合わせた腕の中に再び顔を埋め、しゃくりあげている。肩甲骨のあたりに散らばっている黒髪が、肩の震えに合わせて細かく上下している。

 返事がないのでしばらく黙って部誌をめくっていると、先輩はくぐもった声でわたしの名を呼んだ。

「……駒田こまだぁ」

「はい」

「あたし、そんなに下手かなあ。そんなにそんなに、才能ないかなあ」


 先輩の号泣の理由には見当がついていた。

 全県高等学校文芸コンクールの小説部門に先輩が出した短編が、箸にも棒にもかからなかったのだ。

 先輩は3年生。去年出した作品は佳作だった。ラストチャンスの今年は、必ずや第三席に入ってみせると息巻いて、部員たちにも期待されていた。

「土井より下手ってこと、あるかなあ」

 ああやっぱり。わたしは心の中で大きく嘆息する。

 土井というのは、永山先輩の中学時代の同級生であり、文芸部の仲間でもあったと聞いている。

 それぞれ別の高校に進学し、それぞれの学校で文芸部に入部した、いわばライバル。少なくとも先輩の方は敵視しているらしい。

 去年は入選でしかなかった土井某が、今回なんと第一席に選ばれた。

 それがどれほど先輩のプライドを傷つけたかは、推して知るべしである。


「最悪。最悪。土井なんてたいしたことないくせに」

「……」

 受賞作品の掲載された冊子が、机の中央に無造作に投げ出されている。表紙はわたしのちょっと苦手な萌え系の女子高生のイラストだ。

「あんな、好きだの嫌いだの青春だのふわっとした内容で、文体も退屈で、ちっとも、全然、第一席の器じゃないよあんなのっ」

「先輩」

「誰でも書けるよあんなのっ。あたしなんてどんだけ努力したと思ってるんだろ。ちゃんと読まれてんのかな、選考委員の目は節穴なのかな、ねえ駒田っ」

「先輩先輩」

 悔しまぎれに受賞者や選考委員を罵り始めた先輩の肩に、わたしはそっと手を乗せた。

 子猫のような高めの体温が、制服の布地越しに伝わってきた。


 立ち上がって部室の隅の古い冷蔵庫を開け、いつ誰が買ったかわからない炭酸飲料のPETボトルを取りだす。

 少なくとも先週は見なかったものだから飲めないほど古くはないだろうと判断し、その中身を部費でまかなわれている紙コップにふたりぶん注いだ。しゅわしゅわと控えめな泡が立つ。

 紙コップのひとつを先輩の前に置くと、ようやく先輩は顔を上げた。

 濡れた頬にひと筋、黒い髪の毛がぺたりと貼りついている。

 子どもみたい。くすりと笑いたくなるのをわたしはこらえた。

 吹奏楽部の練習する楽器の音が、廊下を通して伝わってくる。


「――先輩」

 紙コップを両手で包むように持ち、ぼんやり虚空を見つめる永山先輩に、わたしは切りだした。

「率直に言うと、わたしは今回の土井さんの短編、上手いと思いました」

 先輩のきれいな眉毛がぴくりと動いた。

「たしかに設定そのものはありふれてるかもしれないけど、世界の切り取りかたっていうか、見せかたにはオリジナリティを感じました。具体から抽象に切り替えてゆくセンスとか……」

 先輩の表情を見ながら、淡々と続ける。グラウンドから、カキンという野球部の乾いた打球音が聴こえる。

「派手な表現とかはないけど、なんていうか過不足がなくて、情景がスッと浮かぶ感じで。なんかこう、ちゃんと自分の五感を使って獲得したんだろうなっていう言葉で構成されていて」

「……あたしのは……」

「はい」

「あたしのは、それより下手ってこと」

 永山先輩の震える指先が紙コップを握り潰しそうでひやりとするものの、ここまで話して今さら引き返せない。

 ――それに、先輩ならきっとわかってくれる。

「先輩の小説の世界観は、個人的には好きです。でも」

 いったん言葉を切り、気の抜けた甘い炭酸飲料をすすって喉を整えた。

「やっぱり、高校生の書き手に期待する内容かと問われると、ちょっと違う気がします。それと、全体的に言葉のグリッドが粗いと感じました」

 先輩の口元が、ひくりと引きつった。


 永山先輩の今回の作品は、製菓会社の社長が奮闘して誰もが驚く新商品を開発し、ライバル会社を圧倒するというあらすじの短編だった。

 顧問である国語教師は生徒の作品を添削するようなタイプではなく、最低限の誤字脱字のみ赤入れしただけでそのまま応募してしまう。下読みさせてもらおうと思っていたわたしが原稿に目を通したのは、冊子になってからだった。

 個性的なキャラがたくさん登場するのは賑やかでいいけれど、彼らをうまく動かしきれずにどこか散漫な印象がある。

 それに、いくらなんでも商品が世に出るまでのプロセスがそんなに単純だとは、高2のわたしにも思えなかった。


「ちゃんとパパにリサーチして書いたもん。図書館とか、ネットでもいろいろ……検索したし……」

 先輩はまた少し泣き声になる。他の部員が誰も入ってこないようわたしは祈った。

「それでも、選考委員はやっぱり大人ですし。高校生には高校生にしか書けないものを求めてると思います。社会人の物語は社会人の書いたものを越えられないんじゃないでしょうか。闘う土俵の見極めって必要だと思うんです」

「う……ん……」

「リアリティはまあ、おいといたとしても、文体がちょっと……華美だったかなと思います」

 辞書を引かないと意味のわからないような難解な単語でびっしりと装飾された文章は、並々ならぬ気合いを感じるものの、単純に読みづらかったしストーリーの軽快さとマッチしていない気がした。

「失礼なんですけど、まだご自分でも使いこなしていないような言葉を無理に使っても、文体とちぐはぐな印象を受けてしまいます」

「ちぐはぐ……」

「それとごめんなさい」

「まだあるの」

「台詞がありきたりというか、老人がみんな『わしゃ、なんとかじゃ』って喋ったり、女性キャラがみんな『なんとかだわよ』みたいな口調なのって、コテコテの固定観念から脱却できていないと思いました」


 は────っ。


 永山先輩は突然大きな溜息をつき、ややあって肩を揺らし始めた。笑っているのだ。

「駒田には敵わんわあ」

 椅子の背もたれに背中を預けて上半身を反らし、すらりとした脚を組んで、先輩はくっくっと笑う。空気がゆるむのを感じ、わたしも肩の力をそっと抜いた。

「もっと早くそうやってズバズバ指摘してよ。落ちてから言われてもさあ」

「わたし、合評会のときいませんでしたもん。インフルエンザで」

「そうだよね、そうだよねえ」

 はははは。目尻の涙を指先で拭き取りながら、先輩は高笑いする。

 感情の振り幅の大きい人だ。だから人間くさくておもしろいのだけど。だから惹かれるのだけど。

「やーっぱ背伸びするとだめだよねえ。あっはは、ダサいねあたし。恥ずかしいわー」

 左手を顔の前であおぐようにぱたぱたさせ、右手で紙コップの中身を一気に飲み干した。「甘っ」とつぶやいている。


「すみませんわたし、こんな物言いしかできないもので」

「いいよいいよ。駒田はその率直さがいいんだよ。あたしもさ、本心ではそうやって誰かに理由付けしてほしかったんだと思う」

 椅子の上で膝をかかえこんで、永山先輩はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「でもさ、そんなに明晰に批評できるんならあんたも書けばいいのに、小説」

「いやいや、無理です」

「駒田の俳句、あたしは好きだけどね。でも散文も読んでみたいな。土井みたいな恋愛小説くらい、あんたならサラッと書けるんじゃね?」

「無理です。わたし、実体験しか書けませんから」

「えー、でも好きな人くらいいるっしょ」

「まあ……いますけど」

「その気持ちをさ、ちょっとアレンジして書けばいいんだよ。土井だってそんな感じなんじゃん」


 無理なんです。心の中でもう一度つぶやく。

 先輩の少し乱れた髪と、上気した頬と、美しい白い喉をそっと見つめながら、わたしも甘くべたつく炭酸飲料を喉に流しこんだ。

 この気持ちを世に出すなんて、とてもできません。

 わたし、実体験しか書けませんから。

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