第36話 え? えんばっ、なんだって? それ英語?

「祥子、ふたりは迷子だったの?」

「そう。船で帰ってきてホテルの部屋に荷物を置いて、カズキが戻ったら食事に行こうなんていってたら、ふたりとも部屋から消えちゃって。ホテル中探していなくて、手分けして探そうっていって外に出て、わたしは船着き場にもどった。水の中に落ちたんじゃないかと思って桟橋から下をのぞいたり。怖かった。カナにもう会えないんじゃないかと思って。カナ、わたしは怖かったよ」

 カナを抱きしめたまま泣いている。なんでまた、ホテルから抜け出してしまったんだろう。佐々木さんがついたら、どこか食事できるところにいって話をきかなければならない。

「ふたりを保護してくれたんですね、ありがとうございました」

「ちいさい女の子二人きりだったので、声かけました。日本人だったので、すぐカズキのお子さんだと思いました。ネックレスもしていて、確信しましたね。カズキと一緒にいるはずと思ったので、カズキどこですかと聞いて、駅に案内されてきたのです。電車で出かけてたのですね」

 ふたりにプレゼントしたネックレスは、前回スイスにきたときおじいさんと一緒に買ったものだ。

「グリンデルワルトへいって氷河の写真を撮りました。家族を紹介しようと思ったんですけど、こんなことになってしまって。こっちのイチゴちゃんのお父さんがきたら、どこかで食事しながら話しましょう」

 そんな話をしているところに佐々木さんが、メロスのようになって駅にやってきて、沙希さんとイチゴちゃんにのしかかるように倒れた。すぐには移動できそうにない。


 娘二人は、母親のとなりにすわらされて、もうどこにもいかせないという感じで食事をした。自分たちがどうして母親に心配をかけてしまったのかわかっていない様子だ。食後、カナをこちらに引き取った。

「カナは、なんでホテルからいなくなっちゃったのかな」

「お空がね、キレイだったのよ?黒っぽい青なの。広場から見たら、教会の屋根にのったキンピカの像もキレイだったわ?」

「そう。空を見に行ったんだね。でも、子供だけで行っちゃダメなんだよ。それに、黙って行くのもダメだ」

「忙しそうだったから。悪いかと思ってしまったの。気をつけるわ?」

「うん。祥子はね、もうカナに会えなくなっちゃうんじゃないかと心配になって泣いちゃったんだよ。かわいそうだね」

「ごめんなさい」

「うん。祥子にも、あとで謝るんだよ」

「そうね。そうするわ?」

 膝の上のカナの頭をなでてやる。祥子はおじいさんと話している。祥子はドイツ語かフランス語ができるんだったかな。

「祥子、おじいさんの正体わかった?ぼくが話しても日本語がわからないらしくて、たぶんドイツ語がフランス語だと思うんだけど、日本でなにやってたのかわからなかったんだよね」

「カズキ、この人、元スイス大使だよ」

「すごい。ドイツ語かフランス語わかったの?」

「ううん、英語」

「英語?ぼくには聞き取れなかった」

「エンバ・・・」

「え?えんばっ、なんだって?それ英語?」

「カズキ、海外旅行するなら、大使館の英語くらい覚えておかないと、なにかあったときにニッチもサッチも行かなくなるよ?最後は大使館が頼りなんだから」

「そうだよね。で、えんば?」

「エンバシィ・オブ・スウィッツァラン」

「ごめん、帰ったらゆっくり教えて」

 ぼくは音を聞いてそれを真似するというのが半端なく苦手なのだ。音声や言語タイプじゃなくて、映像タイプの脳をしているにちがいない。人の顔を覚えるのも苦手だからウソだけど。ということは、はじめて会ったときも英語で話してたけど、ぼくが聞き取れなかったというか、単語を知らなかっただけだったのか。おじいさんが英語話せないなんて失礼なこと思ってしまっていた。おじいさんも大使だったんなら、大使って日本語を覚えておいてほしかったな。

「じゃあ、写真関係の仕事じゃなかったんだ」

「ちがうよ。写真は趣味。今の大使が元部下で、写真の弟子なんだって。あと、その大使にカズキのスイスの写真展見に行かせたんだって」

「そうなの?あのときけっこう外国の人もきてたから、いちいち顔覚えてなかった。このあいだ大使に会ったとき全然見覚えあるって思わなかったよ」

 外国の人は、顔の見わけがつきにくいし。

「じゃあ、今回のこの仕事、おじいさんのおかげみたいなもんじゃない」

「そうだよ。ちゃんとお礼いいなよ」

 なんてつながりだ。おじいさんはぼくたちの会話をだいたいわかっているみたいで、にこにこしながらうなづいている。

「え、じゃあ、今回大使館の仕事にかこつけてやってきたって言ってくれた?」

「言ったけど、ヘンに誤解されないかな。家族旅行みたいになっちゃって」

「大丈夫だよ、ちゃんと二人分の出張旅費で明細だすから」

 カナが見つかって安心したんだろう、祥子はお酒を飲んで頬を赤くしている。表情がやわらいで、酔ったときの祥子もかわいらしい。

「祥子は迷子にならなくてよかったね。方向音痴なのに」

「なっ。わたしは、方向音痴じゃないよ。方向感覚に少し病をかかえているだけ」

「それを世間では方向音痴っていうんだよ」

「むう。ホテルとの間を往復した場所くらい、迷わず行けるもん」

「そっか。病気が軽くてよかったね」

 祥子はワインをあおった。ワインをついでやる。おじいさんにも。大使館を通して仕事がもらえたので、スイスにみんなでこられたと言って、お礼を言った。

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