第78話:初恋の炎は消えず

「晴斗、大丈夫?」


 グラウンドに向かう最中。突如現れたあいつの彼氏だという国吉さんとのやりとりを心配して早紀さんが声をかけてくれた。


「大丈夫ですよ。国吉って人にどんな意図があって俺にあんなことを言ったのかはわかりませんが……今更あいつと話すことはありません。あったとしても……あの時と同じ言葉をもう一度言うだけです」


 あいつは国吉さんを選んで俺から離れた。その理由や経緯を聞きたいとも知りたいとも思わない。だから俺は決別の決意と別離の言葉をもう一度はっきりと伝えるだけ。


「まぁそんな話は抜きにしても。この試合、必ず勝ちます。だから……観ていてください」


 あなたの声援が、あなたが隣にいてくれたら、俺はどんなに辛くても頑張れます。そう心の中で付け足して俺は笑顔を早紀さんに向ける。


「うん。わかった。あなたの雄姿、ちゃんと観てるよ。だから負けるな、晴斗」


 パンッ、と背中を叩かれて気合を注入される。


「……うしっ。気合入りました。それじゃ、行ってきます!」


 心に盛大な火が着いた。今なら相手があの大阪桐陽でも打たれる気がしない。完全試合さえもできそうだ。そんな気分。


「フフッ。頑張ったらご褒美に、夜はたくさん……イイことしてあげる」


 なんて早紀さんに耳元で艶めかしい声で囁かれたら100%以上の力が発揮して全てのアウトを三振で奪えそうなほど気持ちが昂るというものだ。


 俺は改めて早紀さんに頭を下げてから、みんなが待つグラウンドに急いで向かった。




「晴斗! トイレにしては長くなかったか!? もしかして、まさか……さっきのお姉さんとエッチなことしていたんじゃないだろうな!?」


 グランドに戻るとすぐに。一人で待ちぼうけを食らっていた慎之介に食って掛かられた。一人にしていた時間は精々15分程度だろうに、そこまで騒ぐことないと思うのだが。それに言うに事かいてエッチなことって。ここがどこで、今がどんな時だと思っているんだこいつは。


「……試合前だぞ? そんなことするわけないだろう。それよりも、慎之介の方こそ……少しは落ち着けたみたいだな?」


 離れる直前までは緊張でガチガチだったが今では随分と落ち着いたようだ。この様子ならこれから始まる試合も問題ないだろう。


「あぁ……おかげさまで。開きなることにしたよ。それに、俺がバッテリーを組むピッチャーはノーノーをやったすげぇ奴だから、多少俺のリードがミスってもなんとなるだろう?」


「ハハハ。まぁ……そうだな。今日の俺は打たれる気はしないし、そもそも打たせるつもりはないからな。安心して好きなようにサインを出してくれ」


「おぉ。晴斗にしてはかなり珍しく強気じゃないか。やっぱりさっきのお姉さん彼女と何かあったんだな!? 教えろよ、この色男!」


「誰が教えてやるか。それにな。間違っているぞ、慎之介。俺は口にしないだけで、こうみえて俺はいつだって打たせるつもりはない気持ちで投げているんだぞ?」


 それくらいの自信を持たないと。勝つために皆に信頼されてグランドの頂に立つことは許されない。


「―――集合がかかったな。さぁ、行くぞ、慎之介。俺達バッテリーのデビュー戦だ。派手に行くぜ!」


「ハハハ。どこの海賊戦隊の船長だ。だけど……そうだな。やってやろうぜ!」


 拳を合わせて。俺と慎之介はベンチに走った。



 *****



 しっかりとした足取りでグラウンドに向かう晴斗の背を見送ってから、私は安堵のため息をついた。


 あの子の彼氏は何を考えているのか。


 どうして晴斗にあの子としっかり話せなんて言ったのだろう。その本心は彼にしかわからないことだけど、あの口ぶりから察するにあの行動は彼の独断だろう。


 そもそも、私は晴斗に連れられて校舎に入って話をしたが、そうでなければ応援者は校舎やグランドの中には立ち入ることは難しい。それはあの子を含めて常華明城の選手の両親も例外ではない。


 それ故に、あの子も晴斗に接触したくてもそう簡単にはできない。加えて彼女は常華側。いくら顔見知りだからと言って彼氏がいる目の前で自ら晴斗に接触するようなことはないだろうし、させるつもりもないのだが。


 閑話休題。


 晴斗と話をしていたことで、フェンスの周りにはすでに人だかりができていた。これではいい場所で彼の雄姿を見ることが出来ない。さて、どうしたものか。


「そんなところで何をしているですか、早紀さつきさん?」


「……哀ちゃん? 休日なのに制服? どうしたの?」


 困っている私に声をかけてくれたのは明秀高校生徒会副会長の清澄哀ちゃんだ。休日の昼前にどうして制服を着ているのだろうか。


「あぁ、私が制服なのは校舎に入ってゆっくりと試合を観るためですよ。生徒会室はグランドが一望できるのでとてもいいんです」


「へぇ……そうなんだ」


「もしよかったら、早紀さんも一緒にそこで観ませんか? 普段は一人で静かに晴斗を応援するんですが、こうして偶然会えたんだ。晴斗と結ばれた・・・・あなたと一緒に応援するのも悪くない。どうですか?」


 不敵な笑みだがどこか悔しさと寂しさが混じる顔で彼女は私に提案してきた。ここで指をくわえて眺めるくらいならゆっくりと試合観戦できた方が当然嬉しいのだが、


「哀ちゃん、私達のことを知っているの?」


「えぇ、もちろん。晴斗が首筋に絆創膏を貼って登校してきたのは風の噂で聞いていました。その翌日に見かけた美咲さんがひどく落ち込んだ様子だったので話を聞いたら……まぁ、ここで話すことではないですね。移動しましょう。私達が並んでいると悪目立ちしますから」


 確かに。私から見ても美少女の清澄さんと一緒に並んでいると周囲の視線を否が応でも感じてしまう。私は彼女に誘われるままに再び校舎に戻り、来客用のスリッパに履き替えて生徒会室に入った。


「さて、どこから話をしましょうか。なんなら、私が一度晴斗に振られた話からしましょうか?」


 窓際に椅子を並べて。グランドが一望できる即席の特等席を作りながら、突然哀ちゃんが何でもないことのように爆弾を投下してきた。


「えっ!? 哀ちゃん、晴斗に一度告白してたの? 初耳なんだけど……」


 しかも振られたということは、時期的には夏前。まだ晴斗があの子と交際していた頃だろうか。その状況でよく告白できたと思うが、きっと哀ちゃんの中で晴斗への思いが溢れてしまったのだろう。


「それはそうでしょう。誰に告白されたとか、それを断ったとか、そんな話を自慢げに吹聴するような男じゃないことはあなたもよく知っているでしょう?」


 普通の高校生なら。哀ちゃんのような誰にも聞いても綺麗だと言われるような美少女から告白されたら間違いなくみんなに言いふらすだろう。だが晴斗はそんなことはしない。寄せられた好意が断られるということが、相手にとってどれだけ辛いことかを彼はわかっている。


「私はその時に言ったんです。誰よりも君のことを幸せにする、愛して、支えてみせるから、どうかわたしを選んでほしいとね」


 遠い過去を振り返るように。哀ちゃんはグランドに視線を送りながら独り言のように呟く。その先にいるのはホームに集まり整列している明秀ナインと常華明城ナインの姿。


「でも……晴斗は私ではなく早紀さん、あなたを選びました。それを悔しいと思う自分もいる。けれど同時にあなたなら納得できると思う自分もいる。不思議な気持ちです」


 自嘲気味に話す哀ちゃん。選手は散らばりそのマウンドに晴斗が立つ。彼を見つめる彼女の瞳は恋する乙女のように私には見えた。


 もし私が哀ちゃんの立場だったら。晴斗が私ではなく哀ちゃんや美咲ちゃんを選んでいたら、果たしてどんな気持ちになっていただろう。きっと、耐えられなかったと思う。


「それでもね…………早紀さん。私はまだ彼のことが好きなんです。簡単に割り切れるほど……私はできた女ではないみたいです」


「哀ちゃん……」


「そのくせ、ここ数日間。晴斗が私に話があると言って探しているのを知りながら逃げていました。彼の口から直接聞きたくなくてね。我ながら情けない話です……」


 私はそれを情けないとは思わない。むしろ好きという思いが強いからこそ、これが叶わぬ思いということを突き付けられるのが怖くて耐えられない。


 同じだ。私も。アルバイトのことを話して、晴斗に嫌われるかもしれないと考えると逃げ出したくなる。


「あぁ。でも安心してください。だからと言って晴斗を困らすようなことはしません。もちろん、また告白しようなんて今は考えていません」


 今は。確かに哀ちゃんはそう言った。好きな人を困らせたくないと思いながら、彼女の中にある晴斗への気持ちは抑えられない。その葛藤に彼女なりの決着をつけるためにこの数日間晴斗に会わないようにしていたのだろう。


「ただ、どうか…………どうか彼を好きでいることを赦してほしい。晴斗は、私にとって…………初恋なんです」


 泣きそうな声。必死に嗚咽を堪えながら、哀ちゃんは私に懇願するように言う。


 彼女の気持ちは痛いほどわかる。何故なら私も、晴斗が初恋だ。心から誰かを好きになれたのは晴斗が初めてだったから。


「初めてだったんです。私を清澄哀として見てくれたのは。みんな打算的に近づいてくる中、晴斗だけはそうじゃなかった。辛くてみっともなく泣いていた私の背中をただ優しく、理由も聞かず撫でてくれた」


 哀ちゃんは瞳から溢れそうになる雫を必死に堪えながら話を続ける。


「そんな風に優しくしてもらったのは初めてで……だけどその優しさがどうしようもないほど温かくて、それを独占したいと思いました。同時に、親元を離れて戦っている晴斗を支えたいとも」


 やっぱり私の時と同じ。色眼鏡で見ることなく、哀ちゃんを哀ちゃんとしてとらえて、向き合って接した。誰にでもできることじゃない。そんな彼の優しさに一度触れてしまったら、長く続いた寒い孤独な冬が終わり、心地のいい春が訪れるのも当然だ。


「だからね、早紀さん。どうか晴斗を……幸せにしてあげて欲しい。優しくて、繊細な彼を……どうか支えてあげて欲しい。私が出来なかった分まで……どうか……」


 そう言って哀ちゃんは私に頭を下げた。私は戸惑いながら彼女の肩に手を置いて、そのまま彼女を抱きしめた。


 今、私が彼女にかけられる言葉ない。きっと、何を言っても哀ちゃんを傷つけるだけ。そう思ったから、私は黙って彼女を包み込んだ。


「あぁ……本当に……あなたは優しい人ですね。これなら晴斗が慕うのも無理もないか。私には、あなたのほどの包容力はないから……ハハハ。完敗ですよ、早紀さん」


「哀ちゃん…………」


 私に身体を預けて空元気だとわかる笑い声をあげる。一人で抱え込み、悩み、苦しんできた感情を一度吐き出して、もう一度自分の中に取り込んで昇華するために、哀ちゃんは何度か深呼吸をした。


「ふぅ……みっともない所をみせてしまいましたね。申し訳ありません、早紀さん。もう……大丈夫です。そろそろ試合も始まる頃です。一緒に晴斗を応援しましょう」


 彼女なりに落ち着いたところでそっと私の手を払い。哀ちゃんは椅子に座る。グランドでは投球練習を終えた晴斗が一塁手と二言三言話をして、ついに打者と向き合った。


 晴斗の復帰戦が始まる。私は固唾を飲んでそれを見守る。


「そうだ。晴斗の首筋についた噛み痕のこと、是非とも聞かせてもらえませんか? フフ。上手く誤魔化しているようですが、早紀さんの首筋にも同じような痕が残っていますよ?」


「うそ!? もうすっかり消えたと思ったのに!?」


 私は思わず晴斗に噛まれた箇所に手を当てる。今朝何度も鏡を見て確かめた。触っても当初はあった違和感はない。そこで哀ちゃんを見ると、彼女はニヤニヤと笑っていた。謀れた。思わずぐぬぬと唸り声をあげた。


「大丈夫ですよ。痕なんて残っていませんから。さぁ、晴斗を応援しながら色々聞かせて下さい。早紀さんと晴斗の馴れ初めから、ゆっくりとね」


 私は頬を引き攣らせて乾いた笑いをこぼす。哀ちゃんの目は獲物を定めた鷹のように鋭くなっている。これは、逃げられそうにない。なら、私も腹を括ろう。


 ついに負けられない試合が始まった。

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