2−6「電話」

消毒と無事に検査を終え、寮の部屋に戻って時計を見ると時刻はすでに夜の7時を回っていた。


前の職場と比べれば、そこそこ遅い時間帯ではあったが、そもそも夕方の4時が本来定時だった頃の前の職場と比べることが間違いだったと僕は思い直す。


思えば、あの職場は過酷な上に深刻な人手不足で新人の臨時である僕に管理職まがいの事務の仕事を当て、度重なる業務にまるで終わりが見えず、仕事を丸ごと手直しした方がマシだと毎日言われ、期待はずれの出来ない奴だとなじられ、残業をほぼ毎日続け、休日出勤しても時間休だけが増えて行く状態の場所だった。


もともと貯金もなく給料も低かったのに月々の生活費も度々足が出ていたことを考えると、やはり病院の診断書を出してでもあの仕事を辞められて本当に良かったのだと今になって思う。


(もしかして、ジェームズさんも以前の僕と同じ位に忙しかったのだろうか?)


だとしたら主任さんが上に話したという対応はあながちタダのチクリなどではなく優しさから出たものなのだろうか?…でも、あの人の性格だからこそ、本当にタダの意地悪な気もして僕は微妙な気分になる。


その時、自分の携帯(私用の、今時懐かしいガラパゴス携帯)が長めの着信音を鳴らし、僕は着信が誰かを確認するとすぐさま電話に出た。


『始ちゃん、元気?』


受話器に耳を当て、やはりこれこそが母親の本物の声だなと僕は実感する。


「どうしたの?給料日にそっちに生活費は送ったはずだけど。」


すると、電話口でためらうような声が聞こえた。


『…今日ね、お昼寝をしていたら父さんが出てきたの、すっごく怖かった。前の時みたいにお酒を飲んでひどくまくし立てられて…あの時にヘルパーさんを呼んで義母さんのその後のお世話もちゃんと任せたのに、思い出しちゃって。』


…しばらくの沈黙。

夢の中で聞いた扉越しの母のすすり泣く声を嫌がおうなしにでも思い出す。


「母さん、の話はもうよそうよ。もう別居して3年は経つんだからさ。そりゃあ、も同居していたアパートを離れたから母さんも寂しい思いをしているかもしれないけど、アパート代も含めてそっちの生活費も送っているし文句はないだろ?母さんがその場所を離れるなら別だけど…」


すると、電話口で憤慨した声が聞こえた。


『何を言ってるの、始ちゃん。母さんはこのアパートを離れる気はないからね。ここは母さんの居場所なんだから。ここに始ちゃんが帰ってこられるように私が居なきゃダメでしょ。ここはの新しい家なんだから。』


「…わかった、わかったよ母さん。」


これ以上、母親を怒らせるのも嫌なので僕は話題を切り替えることにする。


「ところで、ちゃんとご飯は食べてる?前は外食が食べたいって言ってたけど。」


『…ああ、それなら大丈夫。やっぱり食べたい時にランチセットを食べられるのは良いわね。前に始ちゃんと暮らしていた時には1年に1回行ければ良い方だったもの。今回はパフェも食べれて母さんは満足よ。』


「ごめんよ母さん。迷惑をかけて。」


それは、本心から出た言葉。


『いいのよ、でもあなたの病気でお金がない時に母さんの貯金を下ろしたのはかなり痛かったわ。喘息もあるのにパートの仕事もしなきゃいけなかったし。今度はボーナスも出るんでしょ?少しずつで良いから母さんに返してね。』


「…わかってる。」


『返せなくても、せめて仕事はちゃんと続けて。それに、前みたいに仕事がどれほど辛くても死にたいなんて言わないでね。仕事は辛いのが当たり前なんだし、母さんよりも先にあなたが死ぬことなんて許さないんだから。』


次第に胃のあたりが重くなってくる…そう、この母さんの言葉に支えられ、僕は崖っぷちの気持ちで必死に転職先にしがみつこうとし、そして挫折した。

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