薔薇と絵描き
鶏卵そば
第1話 キタイの王子
十二世紀から十七世紀にかけて、大陸のほぼ中央に、セフィド・キタイという国がありました。
セフィド・キタイは小さな国でしたが、豊かな国土と火砂神の加護のもと、六百年にわたって長く栄えた、と言い伝えられています。
一説によれば、キタイ国内は魔物の跋扈する恐ろしい土地柄で、人々はそれを克服するために、嘘か真か、当時まだ存在しなかったはずの銃火器や現在は失われてしまった魔法の力を操っていたそうです。
にわかには信じられない話ですが、残念ながら、セフィド・キタイ滅亡の際に、歴史や文化、文明に関するありとあらゆる資料が焼失してしまっており、その真偽を確かめるすべはありません。
この物語は、そんな歴史の謎とはほとんど関係ない、十四世紀初頭、キタイが最も栄えていた頃のお話です。
キタイには一人の王子があり、名をイリといいました。
国王の子供は、イリ王子一人だったため、イリ王子はとても可愛がられて育ちました。
イリ王子は絵画を好み、ある時、自分でも絵を習いたいといました。すると国王は、すぐさま王宮の一角を王子のためのアトリエに改造し、また国一番の絵師を連れてきて家庭教師につけてあげました。
「昨晩、完成したばかりなんです。早く見て欲しくって」
そういうと、イリ王子は家庭教師に手招きしました。アトリエの二階のバルコニーに、イリ王子の描いた絵が置かれています。
だだっ広いアトリエは、元は舞踏会に使われるダンスホールでした。しかし、社交的なことを嫌うイリ王子は、ここで一度もパーティーを開くことはなく、石膏と絵具と卵黄の臭いの充満する絵の工房にしてしまいました。
豪華な造りのバルコニーも顔料でよごれ、中央に無骨な石膏板が置かれています。
王子の衣装も、上質な綿ですが、襟元に王子であることを表す小さな金色の刺繍があるだけの地味な作業着でした。
「ここから見える庭の絵です。実物と比べると、見劣りするかもしれませんが」
家庭教師は、完成したイリ王子の絵を見て、思わず目を細めました。
それは、目の前にひろがる西洋式の庭園を切り取った風景画でした。
「お見事です。殿下のご年令でここまで描けるものは、そうはいないでしょう」
自らの絵をほめられて、王子は照れながら答えます。
「でも、先生は僕の年にはもうキタイ一の絵師と呼ばれていたんですよね」
家庭教師に招かれたセフィド・キタイ一番の絵師は、名をシュンメイといいました。
まだ二十代半ばの青年でしたが、もう十年も前から、つまり彼が少年のころから、国一番の名をほしいままにしています。
イリ王子は、師の顔をまぶしそうに見上げました。
本来、王家の人間は下々のものと話す時は、御簾ごしに顔を見せないのがこの国の慣習です。
しかしイリ王子は、その慣習をシュンメイの前だけでは完全に無視していました。
「確かにそういわれることはありますが、絵描きに上手い下手の序列をつけるなんていうのはくだらない話ですよ。例えば、この殿下の絵です」
イリ王子の絵は、その育ちのよさを反映してのことでしょう、上品で柔らかいタッチで描かれていました。
「私が描いても、このような暖かい絵にははなりません。私には私の絵があり、殿下には殿下の絵がある。殿下は、この庭園がお好きなのですね」
王子には兄弟がいませんから、シュンメイを実の兄のように尊敬していました。
「はい、子供の頃に、よく父上や母上に遊んでもらった場所なんです」
王子の無邪気な笑顔に、シュンメイも思わず顔をほころばせました。
「殿下は、優しい良い王様になられるでしょうね。先日の展覧会の絵も好評でした。中には、もう私よりも優れているのではというものもいましたよ」
イリ王子の顔が赤くなりました。
「そんな! 先生より優れているだなんてありえません。いるんですよ。僕が王子だからってお世辞ばかりを言う人間が。そんなものに限って、本当は絵なんてどうでもいいと思ってるくせに」
照れているわけではありません。王子の顔が赤くなるのは、例外なく怒っているときです。
それを知っているシュンメイは、あまりの素直さについ吹き出してしまいました。
「お世辞だけではないと思いますよ。殿下は本当に上達なされた。でもまあ、私が言いたかったのは、絵に順位をつけたがるのはそうした人々だということです」
シュンメイが微笑むと、イリ王子の怒りはすっと消えていきました。
キタイの王都は別名「青の都」と呼ばれるほど、青空の美しいところです。その青空に、イリ王子の澄んだ声が響き渡りました。
「はいっ!」
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