君よ誰よりも気高き獣

百舌鳥

Lupine:貪欲にして高潔

 ユリウス・レーヴェの眼前でエレベーターの扉が開く。白一色の無機質な廊下で控えていた医師を捕まえて『彼女』の容態を尋ねる。施設に運び込まれてから二ヶ月になる。ユリウスが動員したスタッフの治療の甲斐あって、身体的な容態は快方に向かっているとのことだった。


「……ただ、やはり回復は遅いといえます。精神的な要因が大きいでしょう。適切なケアが必要不可欠かと」

「了解した。彼女の説得には引き続き僕があたる。ご苦労だった」


 そう口にして医師を解放し、廊下を進む。突き当たりにある扉の先は、施設の最上階をワンフロア丸々占有する病室だ。態々ノックの返事を待たずとも、部屋の主から応答が返ることはない。一声かけて扉を押し開いた。

 広々とした豪奢な病室。現在の部屋の主たる『彼女』はベッドから上半身を起こして窓の外を眺めていた。部屋に入ってきたユリウスに振り向くことなく、じっと虚空に視線を向けている。


「おはよう、アナスタシア。調子はどうだい?」


 軽い声で発した問いにも反応はないが、ユリウスは気にも留めない。まるで旧友にでも歩み寄るような軽い足取りで、ベッドの横に置かれたスツールに腰掛ける。手を伸ばせば触れる距離にまで近寄ってもなお、アナスタシアと呼ばれた女性は振り向く様子を見せない。それでも、つい数週間前までの様子を思えば今の状態はなかなかの進歩だ。

 紛争地域にて、激しい敵襲を受けた部隊のたった一人の生存者。ユリウスが雇ったPMC《民間軍事会社》によって、この施設ことレーヴェ家の要人お抱えの私設病院に運び込まれたアナスタシアは酷い有様だった。全身の熱傷、至る所に穿たれた銃創。折れ曲がった左足からは肉を突き破って白い骨が見えていた。それだけではない。搬送されてから二日後に昏睡状態から目を覚ましたアナスタシアは、自身のおかれた状況を理解するなり――折れた足を無理矢理引きずって窓を叩き割り、硝子の破片で喉を掻き切った。

 病院であったことが幸いした。速やかな処置が施され、その一件自体は命に別状もなく済んだ。しかし、それ以来。アナスタシアは周囲の一切――レーヴェ家に関わるもの全てに心を閉ざし続けている。


「土産が先に届いていたようだね」


 ベッドサイドに置かれていたのは果物の盛られた篭。鮮やかな紫紺に染まった葡萄を一房とって差し出す。


「この品種は絶品だ、僕もよく取り寄せている。君もどうだい? アナスタシア・キルシュ」

「……その名で、呼ぶな。アナスタシア・キルシュは死亡した。キルシュ家の次代当主には分家の伯父が就くだろう。今の私は、ただの死に損ないに過ぎない」


 アナスタシアの顔が僅かに動く。左目だけがちらりとユリウスを一瞥する。アナスタシアの左側に座るユリウスには彼女の顔の右半分は見えない。が、右半分を覆っているであろう包帯と、その下にあるケロイド化した火傷の痕のことは知っている。かろうじて失明こそ免れたものの、現在の医学ではどうしても完治に十数年はかかると診断された傷。


「信じてくれ。僕が助けたかったのはキルシュ家の血筋なんかじゃない。アナスタシア、君という人間だ」

「詭弁を。レーヴェ家の当主が私兵を投入してまで、他に何を求める? 金の亡者どもが」


 キルシュ家とレーヴェ家。一国の政財界のみならず世界までも舞台にして既に因縁も百年を越えた両家の争いの歴史は、ユリウスも幼いころよりレーヴェの嫡男として諸々の学問と共に叩き込まれてきた。もっともユリウス自身は歴史にはほとんど興味を持たない不真面目な生徒であり――故に、何のためらいもなく。キルシュ家当主名代であったアナスタシア・キルシュをレーヴェ家拠点のひとつに運び入れることを命じた。


「何度でも言おう。キルシュ家とレーヴェ家の連帯。それが、僕の望みだ」

「世迷い言を」

「僕は本気だよ。だから――こっちを向いてくれないか、アナスタシア?」


 何度か呼びかけると、たまりかねたように白い首がこちらを向く。ようやく自分を見てくれた、と。思わず口元を緩ませるユリウスと裏腹に、包帯に覆われていない部分のアナスタシアの表情は冷たく硬い。


「キルシュの家督は叔父が継いだ。私は家を追われ、あてがわれた軍務にすら失敗した。言っただろう。今の私は、敵対テロリストの攻撃からおめおめ一人生き延びた死にぞこない。人質にすら使えんよ。レーヴェの若当主が興味を抱くようなものは、もう何もない」


 あくまで淡々と、アナスタシアは言葉を紡ぐ。翡翠色をした彼女の左目に浮かぶのは色濃い絶望。無理もない、とユリウスは詰めた息をそっと吐いた。


 レーヴェ家当代当主という地位にあるユリウスの全力を以てしても、一時期とはいえキルシュの当主名代であったアナスタシアの不信を解くのは簡単ではない。俯いたユリウスの視界、自身の左腕で腕時計が光る。文字盤に刻まれるのは翼を広げた大鷲――レーヴェ家の家紋。


 キルシュの狼と、レーヴェの鷲。重工業を支配する名門と、銀行業で富を成した財閥。軍部と強く癒着し各地の戦争に武器を輸出する死の商人と、それが国家であってさえも標的から財を毟り尽くす金融の化物。その技術で荒れ果てた地を都市へと興す企業と、その融資で経済を回し多くの雇用を救ってきた銀行。ハイエナとハゲタカ。創造と破壊のキルシュと、簒奪と投資のレーヴェ。世界を動かす二家は度々利害が衝突し、その度に水面下で争いを巻き起こしてきた。


 ユリウス・レーヴェがレーヴェ家当主の嫡男として生を享けたのと同様に。アナスタシア・キルシュもまたキルシュの家を継ぐべくして生まれた。ただ、早々と隠居を決めた父から順風満帆に家督を継いだユリウスと違ったのは。キルシュの前代当主夫妻は、改革を唱えたその主張故に恨みを買っていたということ。


(一年と少し前に起こったキルシュ家前当主夫妻の事故についてはこちらも調べさせてはいる。だが――証拠が、弱い。保守的なキルシュの分家筋が仕組んだ事故だとの噂こそ流れているが、憶測の域を出ない。この方向ではアナスタシアの懐柔は狙えないか)


 夫妻の死亡後、残された一人娘であるアナスタシアへの分家の仕打ちはさらにあからさまだった。分家の持つ強い軍部へのパイプを通じ、強引な理由を付けてアナスタシアを無理矢理軍に送りこんだ。名ばかりの階級章を与えられ、いきなり戦地へ放り出された彼女を待っていたのは無謀な輸送任務。最初から見捨てる気だったとしか思えない作戦のなかで、彼女が詰め込まれた輸送ヘリは敵地にて墜落した。

 軍が仕組んだ捨て駒の戦闘に、キルシュの令嬢がいる。ユリウスがその事実を知ったのは作戦実行の直前、レーヴェ家が軍部に放っていた手駒の一人から得た情報から。


「君のことは調べさせてもらった。……許せない、と口にすることを許して欲しい」

「憐憫のつもりか? レーヴェの当主殿は安い感傷に浸るのがお好きなようだ」

「……そうかもしれないな」


 傲慢なのはユリウスもとうに承知のうえで。一瞬でも彼女を哀れんでしまったことを否定するつもりはない。ユリウスとアナスタシアは一歳違いの同年代だ。アナスタシアの置かれた状況を知ったとき。似たような地位、同じような年齢でありながら、己との凄まじいまでの違いにユリウスは愕然とした。両親を殺され、自身は戦地で予定調和の死者の山に積み上げられる。あまりにも残酷な運命。

 買収に脅迫、あらゆる手段を使って部隊に命じられた作戦を把握し、金で雇った私兵を割り込ませたときには。既に彼女以外は全滅していた。折り重なる死体の中、彼女が生きていたのは奇跡としか言いようがない。炎に顔の半分を焼かれ、心に消して癒えぬ傷を負っていたとしても。


「込み入った話は抜きにして。あまり食事を摂っていないんだろう? 何か口にした方がいい」


 そう口にしたユリウスが差し出した葡萄にも、アナスタシアは反応を見せない。翡翠の瞳だけが冷たく静かな拒絶を伝えている。本能に強く根ざした、食べるという衝動だけではなく。生きようとする欲求自体が凍り付いてしまったかのように。


(根深いな、これは)


 サバイバーズ・ギルト。生き残ってしまったものが抱く、死者に対する強い罪悪感。それが主に発生するのは悲惨な災害や事故に見舞われた地――そして、戦場。ユリウスや治療にあたった人物がいくらこちらに危害を加える意図はないと説明しても。どうしようもない悪意に擦り切れ、閉ざされた心には響かない。カウンセラーの説得が功を奏してか、かろうじて最低限の食事は摂っているようだ。が、病院着の襟元から見える鎖骨の浮き出た肌には血の気がなく、日ごとに薄くなっているような錯覚すら覚える。


(仕方ない。本当は、何かしら腹に入れてもらってから切り出すつもりだったんだけれど)


 ユリウスは目を閉じる。頭の中でいくつかの人名と、それらに伴う情報を引っ張り出す。自身がきちんと記憶していることを確認して、ひとつ深呼吸をした。賭けに、打って出る。


「エドワルド・バーキット伍長。捕虜への拷問を告発し、上層部と揉めていた。妻と二人の息子がいる。休暇の楽しみは家族とキャンプに行くこと」


 ぴくり。アナスタシアの肩が震える。顔色が変わった。


(やはり、反応があったか)


 頷いて、ユリウスは続ける。


「ダニエル・ローフォード軍曹。脱走した部下を庇い、自ら降格処分を受けた。マイケル・リックマン曹長及びトーマス・ロックウェル一等兵、ウィル・パークス伍長。軍規に背き、前線から撤退するヘリに難民を乗せて避難させた咎での懲戒が明けたところだった」

「貴様……貴様、どこでそれを!」

「調べさせてもらったと言っただろ。それは君のことだけじゃない。あのヘリに乗っていた人間全員。君を庇って死んでいった者たちについてもだ」


 あえて、彼女の傷を抉った。ショック療法とするにはあまりにも乱暴すぎる博打。一歩間違えば、罪悪感から抜け出せなくなった彼女が完全に自分の殻に閉じこもってしまいかねない危険な行為。


(だけど、僕は。君を信じている)


 長い沈黙があった。張り詰めた緊張感のなか、ぽとり、と。翡翠から零れた透明な雫が一滴、シーツに染みを作る。


「彼らは、死ぬべきじゃなかった。あんなところで私なんかを庇って、無惨に殺されるべきじゃなかった」


 アナスタシアを救出したPMC《民間軍事会社》からの報告を、ユリウスは思い出す。曰く。ヘリの墜落後もかろうじて行動ができた数少ない人員は、皆。敵対テロリストの追撃からアナスタシアを背に庇うようにして壮絶な死を遂げていたと。そのせいで彼女の心に深い傷が残ったのは不本意な結果であろうが――だからこそ、護られて生き残った彼女には前を向く義務がある。


(そして、そんなことは君が誰よりもよく分かっている。君が両親の遺志を継ごうとしたように)


 キルシュの前代当主夫妻こと、アナスタシアの両親について調査させた内容を思い出す。資料の中では、夫妻は世間に広まる非戦の潮流を盾にキルシュの軍需産業への撤退を主張していた。彼らの誤算は、まさにその軍需産業によって利益を得ていた分家の反発が『平和的な話し合いと説得』で解決できるものだと信じてしまっていたこと。その果てに彼らは不自然きわまりない『事故』でこの世を去り、遺された娘も命の危機に晒された。


「全てを奪われる前。君もご両親と同じ主張をしていただろ? 戦争はいつか終わる。このまま一時の欲に負けて軍需生産を拡大させ、終戦時に莫大な負債を追うよりもさっさと争いを終わらせてその後の復興事業に力を注ぐべきだ、と」


 俯いたまま、アナスタシアはこくりと頷く。亡き両親の血と考えを継ぐ彼女は、まさにキルシュの変革の申し子だと。そう、ユリウスは判断した。だから。


「今一度、君に乞う。キルシュ家の正当な当主として、レーヴェ家と手を結んでくれないか」


 アナスタシアが顔を上げる。戦友の名前を聞き、嵐のように感情が渦巻いていた先ほどとは対照的に。翡翠色の瞳は静かに凪いでいた。心を動かされたようには見えない。だが、三ヶ月の間ずっと消えなかった拒絶の色が見えないだけで十分だ。


「僕はもう、対立の歴史があったというだけでキルシュとの敵対を強要されるのにはうんざりなんだ。両家が手を結べば、それこそ世界だって簡単に変えられる。いい加減、ここらで僕ら新世代が新たな可能性を開いてもいいんじゃないかと思っている」

「……貴様、正気か?」

「至って正気のつもりだよ。まともじゃないとはよく言われるけどね。少なくともこれだけは誓える――僕は責任を取る覚悟がある。どのような結果になろうが、君を助けた責任は取ってみせるさ」


 上体を起こしてベッドに横たわるアナスタシアの前、スツールから降りたユリウスは床に膝をつく。そのまま、女王に跪く騎士のように、意中の女性に求婚する紳士のように。ベッドの上の彼女に向けて手を差し伸べた。

 跪くユリウスを見下ろし、深く深く息を吐いた彼女は。ゆっくりと自分の顔に手を伸ばし、包帯の端を摘まむ。しゅるしゅると、隠されていた顔の右半分が露わになる。生来の整った顔立ちと、それを覆う赤黒い火傷の跡と共に。


「……この顔と、共に歩もうと?」

「僕は前言を撤回したことはない。今後の治療に関しては全力で支援する。勿論、ご両親の死の真相を明らかにし、君を正式に当主の座に就けることもだ」

「腐った軍の幹部に疎まれて死地に送られた、戦友の仇を討つこともか?」

「ああ」


 強く断言したユリウスの声を耳にしたアナスタシアの顔が僅かに歪む。数瞬の間をおいて、ケロイドによって引き攣った顔で微笑んでいるのだとユリウスは気づいた。


「どうせ、それ以外に道はない。ならば——私はお前を信じよう。次の世代の未来を願った両親のため。私を地獄から守り抜いてくれた彼らのため。もう少しだけ、足掻くことにした」


 翡翠の双眸に光が宿る。ちょうど雲の切れ間から太陽が顔を出し、病室に光が差し込んだ。ユリウスの目に映った、逆光の中不敵に笑むアナスタシアは――。


「……綺麗だ」

「薄ら寒い世辞を言うな」


 伸びてきた手に軽く突き飛ばされてユリウスは尻餅をつく。


「本心だったのに」


 拗ねたように唇を突き出すユリウスの姿に、ふんと鼻を鳴らすアナスタシア。


「とにかくだ。幸い、あてがない訳ではない」

「と、言うと?」

「私達を襲撃した敵の部隊。特定に必要な装備、コードネーム、符丁、全て覚えている。そもそもが無謀な作戦とはいえ、あまりにも襲撃のタイミングがよすぎた」

「つまり、その敵対テロリストが作戦を指示した上層部と繋がっている可能性があると」

「ああ。もしくは、分家自体とじかに繋がっているかもしれん。アレらは死の商人だ。金になるなら誰にだって武器を売る。どちらにせよ逃れられぬ証拠を押さえれば国家特別背任で引っ張れる」

「大捕物になりそうだなあ」


 今更何を言う、と言い捨てて。ベッドの上からアナスタシアが手を差し伸べる。ごく自然に、ユリウスがその手を取った次の瞬間。怪我人とは思えぬ強い力で引っ張られ、ユリウスはベッドの上に倒れこんだ。羽毛の布団に顔を埋めるユリウスの頭上からアナスタシアの声が降る。


「時に死肉を漁るハイエナと蔑視されることもあるが、キルシュの本質は狼だ。群れを率いて獲物を狩る、気高き森の王者。レーヴェがハゲタカなどではなく、天空を舞う大鷲であるのと同じように。キルシュの狼を手懐けようとした責任は取ってもらうぞ、レーヴェの雛鳥」

「……言ってくれるねえ。一応君と僕、ほぼ同い年のはずなんだけど」

 ぼやきつつも身を起こす。ベッドに腰掛ければ、アナスタシアと目線が並んだ。


「なら、これで」

「ああ。契約成立だ」




 なんとはなしに、ユリウスは手近にあったアナスタシアのブロンドの髪を一房手に取る。アナスタシアも不審な目で見てはいるが、ユリウスの自由にさせるつもりでいるようだ。

(随分と伸びたな)

 瀕死の彼女が運び込まれてきたあのとき。短く切り揃えていたのは、一応は軍人であったからか。

 銃火器を手に、長い髪が邪魔になるような戦場で命の削り合いをする必要はもうない。代わりにこれからは、金と地位、話術を武器とした未来を奪い合う戦いだ。アナスタシアの視線が逸れた隙に、ユリウスは指の上のブロンドにそっと口づけを落とす。


 標的は戦乱を煽る分家と、それに連なる腐敗しきった軍の上層部。

 今、若き狼と鷲の狩りが始まる。

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