少年の夏の日

藤堂 朱

第1話 飛び出した少年

光輝はそろそろとあたりを見回すと、自分が今正しい乗り場に向かっているのかをホームで確認した。錆びた看板で所々文字が擦れて見える。廃れた駅だった。電車が来るのかさえ怪しい。それに周りには誰一人光輝以外の人間がいなかった。

ここが正しい乗り場かは分からなかったが、無人駅ということもあって誰に尋ねることもできなかった。知らずのうちにかいていた手汗を紺の半パンで拭う。下唇をかんだ。でもどうすることもできない。今更家に帰って母に謝るのは何だか釈然としない。そうだ、そもそもこの旅行も本当なら母と一緒だったはずだった。夏休みに入って一週間後の今日、母方の祖父の家に遊ぶに行く計画だった。

祖父の家は、光輝の住む田舎とはレベルの違う田舎だ。辺りを山々に囲まれ、そのすぐそばに古びた民家が立ち並ぶ。スーパーや病院に行くためには車で一時間はかかるため、いつも母はぼやいていたが、俊介はのどかな緑の風景が気に入っていた。

とはいっても実際訪れたのは小学校に上がる二年前のことで、かなり記憶は曖昧だが。深い新緑の中を祖父に手を引かれて歩いたことが鮮烈に記憶に焼き付いていたのかもしれない。

「切符、買おう」

口に出さなければ何だか実行できそうになさそうで、光輝は言葉の輪郭を意識しながら口にした。母からもらった緑のがま口から銭貨を幾らか取り出す。切符販売機の硬貨投入口に恐る恐る入れると、間隔をあけて、ちゃりん、ちゃりんと音がした。ほどなくして切符が付きだされる。ホームに電車が現れたことを知って、慌てて光輝は切符をつかむと、駆け出して行った。落としてなくさないように、切符を右手の掌で握りしめた。

それから十五分後、電車の窓ガラスには不安げに下唇をかんで俯いている光輝が映し出されていた。完全に降りる駅を間違えてしまっていた。かといってどの駅で降りれば良いのかも忘れてしまっていた。どうしてお母さんに聞いてこなかったんだろう。今から戻っても遅くはない……そうは思うのだが、それだけは避けたかった。数分前に母親とした喧嘩を思い出した。光輝は途端に苛立ちを覚えた。何の理由もなしに、お爺ちゃんの家に行くことを禁止するなんて。夏休みまで一か月を切り、いつものようにお爺ちゃんの家に行こうと計画を立てていた光輝に母親は首を振った。怒りを覚えた光輝はそれで家を飛び出したのだ。

知らない駅名のアナウンスが続き、不安だけが募る。ホームと同じく誰一人いない電車では座席はがらんとしている。座るのも忍びなく、光輝はじっと立ったまま窓ガラスから見える外の風景を眺めていた。

ふと、団地が続いていた景色ががらりと印象を変える。木々が車内の左右に見える。まるで森の中を電車が走っているみたいだ。ギラギラとした夏の太陽の日差しが生い茂る緑の葉の隙間から車内を射るように差している。

光輝はハッとした。そうだ、この景色だ。祖父と二人で手を繋いで歩いた森の中、周囲の木々の隙間からこんな光が二人に差し込んでいた。間違いない。この次の駅が祖父の住む家がある場所だ。光輝はほっとすると、扉が開かれるや否や、ホームに向かって駆け出し駅から出た。緊張から解き放たれたこともあり、夢中だった。

降り立った駅の名前を確認することさえ忘れて、光輝は駆け出していく。

だがそんな光輝の内面はまた、不安で満たされていった。明らかにおかしい。辺りは古びた民家が等間隔で立ち並んでいる。それなのに、人の気配がほとんどない。というより、ここはもうすでに人の住む場所ではない有様だった。瓦屋根には苔が蒸し、窓ガラスが割れたままで風化している家がほとんどだ。酷い衝撃を受けたのか家のどこかが破損している。そしてそのまま人の手入れがなされなかったように見えた。

光輝の不安はもう小さな少年の胸には抑えきれないくらい満ち満ちていた。駅があった場所に戻り、引き返そうとしているとある事に気づく。

「……駅がない」

確かに、先ほどまで存在していた駅らしきものは存在していた。だが看板は錆びれ、斜めになって地面に落ちているし、ホーム全体が蔦で囲まれていた。当然だがこんな駅に電車が止まるとは到底思えない。

「う、嘘だ……」

悪い夢でも見ているのかもしれない。光輝は何度も目をつむってかぶりを振ったが、景色は少しも変わらなかった。では、僕はいったいどこからここにやってきたんだ。それに僕は今どこにいるんだ。光輝の手足は震えだし、歯の根が合わなくなった。数歩後退すると、がむしゃらに走り出す。ここじゃないどこかへ、とにかく、遠くに行きたい。息が上がり、苦しくなったが構わず走り続けた。民家を通り抜け、木々の生い茂る森まで、一目散に。視界は上下左右にぐらぐら揺れた。

もう走るのが辛くなってきた。いよいよ自分がどこにいるのかなんて分からない。ただがむしゃらに走り続けていた。森の中は民家よりも穏やかだった。生い茂る緑、その間から柔らかな太陽の光がきらきら反射している。それを眺めながら、光輝は何かに足をぶつけ転んでしまった。

「痛い、何だよこれ……」

足元を見ると、苔むした石につまずいてしまったようだ。だが、よくよく見てみるとただの石ではないことに気が付く。

「頭……?」

石を裏返せば人の顔に見えなくもない装飾が施されている。風化していることもあってはっきりとは断定できないが、これは人の頭を模したように見えた。

「しかも、体があるような」

ざらざらした石の感触が、頭が上の部分とすると下の部分だけ違う。まるで地蔵のような人の体を模した石像が、頭の部分でボキリと折れてしまっているような印象を受ける。どちらにせよ何だか気味が悪い。石を足で蹴とばした。ころころと転がっていく。石が光輝のいる場所から見えなくなった後、ようやく光輝はほっとしたように溜息を吐いた。ついでに周囲を見渡すと、随分奥地まで来てしまったようだ。

ふと、右手の山道を少し進んだ場所に大きな祠がある事に気づいた。近寄ってみるとたくさんの人型の石像が並んでいる。そのどれもが苔むし、風化していた。

「これか? さっきのは」

その石像のどれもが先ほど光輝が蹴飛ばした石像の頭のような装飾が施されている。目と鼻と口が柔らかな曲線で彫られていて、微笑んでいるようにも見える。しげしげと石像を眺めていると、後ろから声が掛けられた。

「何しているんだ、こんな場所で」

びくり、と背筋がこわばった。光輝が来たとき、辺りは人一人いないはずだった。まして、こんな山奥に誰かがいて、光輝に声を掛けるなどありえないはずだ。

振り返るのが恐ろしい。途端に震えだした光輝はまた、逃げることを思いついた。この場所から逃げよう。そして母に謝った後で、この出来事を話して慰めてもらうのだ。

そう思って一歩踏み出した瞬間、右足が何かにつまずきバランスを崩す。地面に落下していく自分の体がやけにスローモーションに見えた。肩が地面にぶつかったとき、自分が何につまずいたのか気づく。石像の頭。今しがた、見えない場所まで蹴飛ばしたはずのものだった。それがなぜ光輝のすぐそばに。頭が地面にぶつかるとき、光輝は後ろから声を掛けてきた人物をつい、見てしまった。しわくちゃの顔が微笑んでいる。柔和な笑みが光輝を見下ろしていた。

「おじいちゃん?」

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