短歌の終わり

 ある日、短歌の終わりが宣言された。ある国文学の研究チームが、スーパーコンピュータを用いて、三十一文字全ての組み合わせを示したのである。その三十一文字は《全ての短歌》というインターネット上のサイトで公開され始めた。当初は全ての短歌を書籍として出版することも検討されたようだが、あまりにも膨大なその量ゆえに、すぐに案は却下されたらしい。

 スーパーコンピュータがはじき出した三十一文字の組み合わせの中には、在原業平や俵万智の傑作も、小学生が宿題で作った標語も、たまたま五・七・五・七・七の形をなしたおっさんの戯言まで全てが含まれる。もっとも、短歌には字余り・字足らずというものがあるわけで、日本語で用いられる全ての音を三十一文字で並べたからと言って全ての短歌とはならないだろう。そこで現在研究チームは字余りや字足らずの短歌を考慮した二十九から三十三文字の組み合わせも全て計算し尽くしたし、五・七・五・七・七の形式を破った現代短歌をも網羅した文字列を全て計算し尽くしてしまった。

 ニュースは瞬く間に世界中を駆け巡った。歌人は職を失った。短歌というのはただ選択の行為となった。選択の行為としての新しい短歌は文化人達の格好の議論の対象となったが、そのムーブメントも数年で過ぎてしまった。

 文化人達が短歌というものを捨てた後、短歌はネットカルチャーとして生き残ることになる。《全ての短歌》の膨大なファイルの中から気まぐれでどれかを選び意味をなす文字列を見つけては、SNSで共有するのだ。特にTwitterでは馬鹿げた文字列がよくバズる。この間見た僕のお気に入りはこれだ。

「おしりのあなのきいろいばなながぶりゅぶりゅぶっぶぶりぶりぶぶぶぶりゅ」

 別にこれだけ見ても特に面白さは分からないだろうが、この文字列の面白みというのは、意味をなさない文字列のひたすらの羅列の中からこれを発見したという文脈において現れるものなのだ。かく言う僕も、高校の授業中など、暇な時間を見つけては、《全ての短歌》にアクセスして意味のない文字列をひたすら目で追っている。僕にとって無意味な文字の羅列は、何時間もかけて読まされる数ページの古臭い国語の小説よりも、数段面白い。なによりも理性的であるはずの機械が書いた文学は、どんな歌人の短歌よりも狂気的であった。それは、機械の映し出す文学の彼岸なのだ。

 ある時、《全ての短歌》には未来を予言した短歌も存在するはずだということがネットの世界で言われるようになった。ボルヘスの「バベルの図書館」でも読んだ奴が考えたのだろう。確かに、理論的に考えればもちろん存在するだろう。しかし、存在したとしてそれが真実の未来であるかどうかは分からない。予言的な文字列を見つけてはそれを取り上げ、すぐに忘れて当たっているかどうかなんて誰も検証はしない。ただ皆んな、「向こう側」の幻想を見たいだけなのだ。そうやって文字列はひたすらに消費されていく。

 さて、なんの目的で僕が膨大で無意味な文字列に目を通しているのかというと、そこには何の目的もないのだ。機械に創造さえも奪われた我々は、機械のように目的のために働くのではなく、機械の作り出したものの中で、目的も持たずに、ただ快楽を求める生き方が最も正しいのではないだろうか。

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