水底に白亜は謳う

冴月

前編



 海の底。

 天から伸びる光の帯は拡散し、どこか仄暗く白亜の都市に降り注ぐ。輪郭を曲線で編むこの街は、彼方の時代の文明の技術を継承しているのだと言う。

 かつて地上にあった文明。

 そこは「日本」だとか、「アメリカ」だとか、そんな風に地面に線をひいて『国』を作っていたらしい。僕の住むこの街はその「日本」という国の人々が造った都市の流れを汲む場所なのだそうだ。

 こんなことは誰もが子供の頃から聞くような、当たり前のお話。学校でかなり早くに歴史として学ぶし、そうでなくてもいつのまにかみんな耳にしている。

 もっとも、どうでもいいことだけど。

 そんなことよりも、地上には人の住む都市以外にもたくさんの場所が、「人が知っている場所」があったということの方が僕には重要だ。今あるコロニーみたいな、予め決めた生存圏だけで生きていく暮らしはどうにも息苦しく、なにより、どこか物悲しい。

 片肘を付いて滞水の青に彩られたぼんやり外を眺めていると、隣から声がかかった。


「ねぇ、リク。やっぱり『空』の上まで泳いでみようよ」

「……駄目だよシイナ。空は、海の上は危険だって、みんな言ってるじゃないか」


 先生も、父も母も、大人はみんなそう言う。跳ねっ返りな小さい子供だってなんでか分からないけど、当然の様に信じているんだ。


「そもそもどうやって行くんだよ。海は浅い所にいくほど汚れてるっていうことは、前も経験しただろ?」


 そう、つい最近のこと。

 僕は彼女に連れられて都市を抜け出し、体一つで、防護服も身に着けず、手や足の指の間に張ったひれだけで水を掻き出し、上へ上へと泳いだのだ。


 でも、結局は失敗した。


 上へ泳ぐうちに――空に近づくうちに、息が苦しくなって。やがて、都市を汚染から守るために張り巡らされている人工海流に絡め取られかかった。

 そして慌てて逃げ出して、警備隊の観測網に引っかかって救助された。いや、正確には拿捕や逮捕、とでも言うべきものなのだろう。

 刑こそなかったが、それだって僕の両親が都市の運営の高官でなかったら分からなかった、というのが分かる程度には危うく、拙い行いだった。そのことがひどく腹立たしい。どこまで行っても子供扱いで、不公平にまみれているのだ。

 例えそれが優遇される側の言うべきこと、あるいは言える義理がなかったとしても、そう零してしまいたくなる。

 なにより、そんな風に忖度されて罰せられない、ということが僕たちのプライドを刺激したはずだった。だったのに。


「また怒られるつもりなの?」


 暗に「そうやって子供扱い、理由のない特別扱いをされて良いの?」と尋ねた。


「いや、そんなつもりはないけど」


 なら、どうしてか。


「だってさ」


 子供みたいに口を尖らせる。いや、実際子供か。


「気になるじゃない。私達はもう行き着いちゃってて、あとは残り滓のように死んでいくだけ。そんなの、嫌だよ」


 ――――。確かに、そうではあるけど。


「だからってあんな子供扱いは嫌だろ。僕は嫌だった。それに、やっぱり無理だよ」

「……そうなんだよね。ああも息が続かないとは思わなかった。この都市から、空の上までは三百メートル、ね。昔の空は千メートル以上もあって、当然のように行き来してたっていうのに、たったそれだけだって私達は超えられないんだ」

「飛行機のこと? それだって機械を使ってのことじゃないか。そういう風に言うなら生身で昇った僕たちはさしずめイカロス――」

「それだ!!」


 いつものように喩え話をしようとした僕を、勢いよくシイナは遮る。


「それだよ! 船を使えばいいんじゃないか!」


 興奮して捲し立てる彼女の言う船とは僕らが世話になった警備船や救助船のことではなく、きっと「船型都市シティシップ」のことだ。この都市において船の存在は非常に限られている。そもそも船とは言うが正確には潜水艦だし、加えて文字通り街のような大きさの機械である。でも、普段から使われている先の二種と違って、船型都市シティシップは港に係留されているだけに侵入しやすそうに思えるのだろう。

 「白鯨」の愛称で呼ばれるその巨船は、海底に逃げ込んだ人類の持つ最後の移動手段でもある。確立された都市圏だけで食料の自給や工業品の生産、廃棄物の処理も可能とした現在の文明は、かつての世界のように他所と関わりを保つ必要がない。ましてや高度に発達した観測装置を持って諸都市それぞれが惑星全体を観測してるために、人類が海底都市を築いたときのように小さな探査船すら今ではなくなってしまった。


「それこそ馬鹿じゃないの。どれだけ高いセキュリティがあると思ってるのさ。そもそも――」

「――二人とも」


 当然だが、最後の手段である船を守るシステムは非常にレベルが高い。それを言い募る僕を不満げに睨む彼女を制止したのは、担任の先生だった。


「お前らはまだ学習してないのか。……前にあれ程の騒ぎにしたんだ、いい加減にしとけよ」

「……はーい」


 不服さを隠せず、それでも声を揃えて返事をした。そんな僕たちに溜息をついた先生は、こめかみに手を当てたまま無言で立ち去っていく。その背に「いーっ」と舌を出す彼女はいかにも子供っぽい。……でも、僕も同じくらい子供だ。だって今の先生の言葉にものすごく苛立ったから。


「シイナ」


 密やかに呼びかければ、「何」と小さく返される。


「船はあるよ――白鯨じゃないけど。もちろん、警備船や救助船でもない」

「え、嘘でしょ? 探査船だって破棄されたのはもう五十年は前だって……」

「資料用のコレクションだけどね。小さい頃父さんに連れられた記念資料館に「まだ動く」って触れ込みのものがあるって聞いたことがある」


 といってもその時は修復中とからしくて見れなかったんだけどと零して、手元を規定通りに動かし指先に埋め込んだ端末を反応させる。人差し指の骨の一部を覆うように付いている極小のチップは動作を感知し、神経系への信号の測定を開始する。思考を拾って空中に資料館の情報を空間ホログラムとして結像させ、即座に収蔵済みの旧式探査船の詳細を記した文字列をシイナに示した。

 こういうとき、数世代前まで主流だった中枢神経系に組み込むタイプの情報端末が羨ましくなる。祖父母の世代の頃に脳に組み込む脳波操作は危険だとして完全に禁止されたらしいが、流石にこの技術社会において五感で単純な情報取得をするのは面倒くさい。


「へー……部品取りと好評を博した本体のデザインのために複数個を非展示部に保管……って随分都合がいいね?」


 写った白い船体は先の白鯨を細くしたような姿で、光が干渉しているのか青い線が無数に走る白地が優美さに加えどこか清冽な空気を纏わせている。なるほど、今も評判が良いというのも納得なデザインだ。こういうのは直に目で見たい情報である。


「おーい、リク? リクさんや。……。……リィィィクゥゥー!」

「わぁ!」


 無駄に耳元で叫ぶのは止めてほしい。耳が痛い。彼女は「なんでそうすぐに無心になっちゃうかなぁ!」とお冠だが、いい加減性分だと承知してほしい。


「ごめんって。で、なんでって?」

「なんでって、もー……。……都合が良すぎないかって言ってるの。都市の人が大抵自然物に憧れてるのはみんな分かってるし、私達みたいのに対して不用心に過ぎないかなって」

「――だからこそ、だと思うよ」


 え、と怪訝そうにこちらを見やる彼女を見返す。


「もしかしたら、いつか都市の外に行ける日が来るかも知れないって期待して、その日にすぐにでも出れるようにって」


 夢想的に過ぎるかも知れないけど、と苦笑しながら断った。


「……そう。そう、ね」

「ま、懐古趣味とか歴史的価値とか、実際は犯罪だからしないでしょとか、そういうのもあるんだろうけど」


 なにそれと小さく笑みを落とすシイナに、だって普通は盗みはしないでしょ? と返す。


「て言って、その普通を今から越えるんだけど」

「え?」


 固まる彼女の手を引いて、そのまま歩き出した。



   *   *   *



「ね、ねぇ? どういうこと?」


 足早に学校から出て、壁一面に見える海底の青色以外の色彩に乏しい白い街を歩く。この街は大まかには蟻や蜂の巣のように幾層かに重なる構造をしていて、個人の上下方向の移動は街を水路を使うか区画ごとに設置されているエレベーターなどの昇降機の類を使うのが基本だ。循環している公共機関を利用する方法もあるが、今は使わない。


「もちろん借りるのさ」

「どう言ったってそれ窃盗じゃない。いや、窃盗じゃなくて違う罪? じゃなくて」


 むむむと額に皺を寄せて混乱し始めたシイナを横目に文化区――第二層の東縁を目指す。今がそのすぐ下の第三層中央部、つまり公共区だから少し歩く必要がある。水平方向の水路に入って泳げば楽だけど、個人的には濡れるのが嫌で使いたくない。


「じゃあ正面から訊く? 『海上まで行きたいので保管している船を貸してください』って。まさかね」

「そもそもなんでそんな性急なのよ!」


 嫌がってたじゃない、と彼女は俯きながら上目遣いで呟く。


「……だって悔しいじゃん。言われたままなのも、この感情を飲み込むのも」

「悔しいって、そんな子供っぽい――」

「だって僕たちは子供だろ? 今日は小潮で空までの距離も短いし」


 唇を噛み「それに、僕は」と続ける。


「『本当の空』を見るのを、諦めたくない」


 ――あの上昇から、この思いはますます強くなったのだ。


 汚染から人類を守る人口海流は、都市の周囲をドーム状の層を作るように様々な方向に渦巻いている。もっとも密度が濃いのが外縁にほど近いここから百五十メートルほど、つまり海面からもおおよそ百から百五十メートルのエリアだ。


 僕らはそこまで迫り、しかし大海流に飲み込まれかけた。


 そこで警備網に見つかり停止した海中で、救助船に助けられるまでに見た水底へと続く深い深い群青と――あの『空』に煌めいた、温かい白い光が忘れられない。

 清らかで、心を溶かすように揺らいだ、あの陽光。それに触れて、どうしようもないほど心に刻みつけられたんだ。



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