第12話


 その時以来十年が過ぎていた。

 少年は少年時代とは違っていま律子の横でとても笑顔が良い若者になっていた。

「君は変わらなね」

 聖児が、ふと律子に言った。

 目だけを律子は聖児に向ける。

「いや、変わらないよ。どこか目元に漂う、天性的な知性と言うか、子供の頃、よく浜辺でバイオリンを練習しているのを見ていたけど、その頃見ていた横顔と今も寸分も変わらない」

 少し目を伏せて、律子が言う。

「ありがとう」

 うんと笑って聖児が律子を見る。

「青山君も変わらないね。黒い大きな目が全然、子供の頃と一緒」

「そうかい?」

「うん、そう」

 可笑しくなったのか律子も笑った。二人の間に過ぎ去った時間が笑い声と共に流れて行く。

「あのさ・・」

 聖児が言う。

「どうしてこちらに来たの?」

 律子は少し黙って、小さく息を吐いた。

「実はね、この前、イタリアのミラノで演奏会があったの」

「ミラノか?凄いね」

 聖児が驚いて言う。

「さすが世界的、バイオリニストってとこかな」

 律子は首を横に振る。

「とんでもない。私なんて全然。それでね、そのときの演奏曲は故郷で過ごした頃を思い出して、それをインスピレーションさせながら作曲したのだけど・・」

 律子が沈黙する。

「それで?」

 聖児の言葉に頷いて律子が言う。

「その時感じた足りなさがあってね。それが自分が失くした半身のような部分て気づいたの。そしてそれを見つめ直したくてここに来たの」

「そう」

「うん、そう」

 聖児が、大きく息を吸った。

「それで見つかりそう?」

 律子は、軽く首を傾げた。

「どうかな・・わかんない。見つからないかも。私の大事な半身」

 車は田園風景を抜け、海へ出たそして律子の泊まる海辺のホテルに着いた。

 車を降りた後、彼が律子に言った。

「いつまでこちらにいるの?」

 律子は少し返事を考えていた。実は故郷を色々回りながら色んなインスピレーションを受けて作曲をする予定だったが、正直ここにいても自分にとって得るものが無いと思っている。

 それならば東京へ明日にでも向かおうと思っていた。

「明日、東京へ」

 律子は手短に彼に言った。

「そうか」

 彼が頷く。

「それならどうだろう。今晩先ほどの運河のところの神社で祭りがあるから、一緒に行かないか。神楽を地元の子供たちが舞うのだよ。良ければ後で迎えに行くよ」

 律子はそれを聞くと特別予定も無い ため、わかったと返事をした。

 彼はそれを聞くと「じゃ六時にここにくるよ」と、言って手を振って去っていった。



 律子はホテルでシャワーを浴びると、鏡の前で自分の顔を見つめた。

 何故か自分が彼にどのように映ったか、気になった。

 少女の頃とは違い初心でもなく顔は化粧もしており、また都会の生活で身に着けたなんともいえない合理的で冷たいものを大人となったいま、自分は持っている。

 それに比べ青山聖児は、昔の頃と変わらず今でも釣竿を持って現れてもおかしくない少年らしさを持っていた。

 濡れた髪を頬に撫でつけ、律子はベッドの上に転がった。そして少し目をつぶった。ホテルの窓から波が寄せる音が聞こえてきた。

 少しずつその音に合わせるように自分の息を整えていった。閉じた瞼の黒い睫毛からゆっくりと涙が流れてくる。

 自分は甘い期待を故郷に持っていた。もしかしたら素敵な再会があり、自分はそうした中で新しい日々を過ごすための必要な情熱を得ることが出来るだろうと思った。

 しかし今は誰も居なくなった気朽ち果てた教会、運河で聞こえた少年少女たちの声、そして再会した青山聖児と自分とのギャップがそれを粉々にした。

 律子はいつものように暗闇の世界へ落ちてゆきあのへび座の光芒の宇宙を遊泳していった。律子の裸体は銀河の光に当たるたび激しく痙攣した。痙攣しては叫び、光の届かないところへ行こうとした。そして四肢を固めやがて意志を持たない塊になろうとした。

 その時、青山聖児の声が聞こえた。

 それは激しいリュートで宇宙を揺るがし、そして宇宙を律子の四肢を裂いた。四肢を裂かれた律子は裂かれた自分の断面から、暖かい光が溢れてくるのを感じた。

 それはやがて子宮で眠る胎児のように優しく包んでいった。そこで律子は目を覚ました。身体を起こすとバイオリンを探し、奏でた。裸体のままバイオリンを弾いた。一瞬ですべてを終えた。

 曲を得た。律子はベッドに腰をかけ、バイオリンを抱きながら涙を流した。

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