故郷に忘れたバイオリン

日南田 ウヲ

第1話

 息を切らせながら狭い路地裏の小路を急ぎ足で歩く娘がいる。

 彼女は薄い水色のブラウスに自分が通う学校のスカートの裾を靡かせながら細い手に小さなバイオリンケースを持って、それが路地の壁に当たらないように時折気にしている。

 小路はゆっくりとではあるけれどもなだらかな下り坂になっており、時折、その下り坂を上がって潮風が彼女に向かって吹いてくる。

 今も少し大きな風が吹いてそれが前髪を巻き上げた。

 娘は歩みを止めると、瞼を閉じて手を胸元に置いて大きく鼻孔に潮風を吸い込む。そして息を吸い込むと、呼吸を止めた。

 それはほんのわずかな数秒だった。

 しかしその数秒、脳裏に波が弾けて空中に泡を飛ばす瞬間が鮮明に浮かんだ。弾け飛ぶ白い泡を吸い込む様にゆっくりと息を吐くと鼻孔から耳に何か熱いものが突き抜けてゆく。

(今日はいつもより潮の香りがする)

 閉じた瞼をゆっくり開くと風で揺れる前髪を手で押さえた。

 輝く海が小路の先に見える。そして海の波間を行く白い漁船が見えた。

 潮の香りが濃い日は必ず隣に住む漁師の五郎爺が魚を自宅に持ってきてくれる。

 そしてその日は必ず母親が持って来てくれた魚を捌いて夜の食卓に並べてくれる。それを食べるのは彼女の小さな楽しみだ。

(今晩は鯵かな・・・それとも鰹かなぁ)

 海を見ながら心の中で笑うと、後は真面目な顔になり足を一歩踏み出して坂を一気に下り始めた。小さな革靴の底が石畳に触れる度、高い音が塀に響く。それがまたリズムになり心地よく耳に響いた。

 坂の下にあるバス停まで急がなければならない。今日は隣街にあるバイオリンスクールに通う日だ。便数の少ないバスを逃すと遅刻することになる。

 目の前にL型の角が見えると急いでその角を折れ、続いて見えた赤いポストまで大きなステップで飛ぶように大きく踏み出す。そのポストを右に曲がれば海の側のバス停に出る。

 石畳の道を踏む彼女の革靴の音がより高くなり青い空へと響いた。美しい故郷の海がポストの向こうにあると思うと彼女の心はいつも躍動する。

(あっ・・!!)

 ポストを越えようと足を踏み出した時、若い郵便局員とすれ違った。危うくぶつかりそうになったが上手くかわした。

 すれ違いざまに郵便局員が娘に声をかけた。

「よっ!律ちゃん、今日もご機嫌だね」

「うん、卓ちゃん、元気よ。今日もお仕事頑張ってね」

 おう、サンキューね、そう言う郵便局員の返事が聞こえる。

 その言葉を背に聞きながら娘は手を振って、ポストを右に曲がった。

 ちらりとピンク色のバンドをした腕時計を見る

(余裕でバスに間に合った)

 彼女はゆっくりと綺麗に寸断された路地の影から陽光の中に自分の革靴を滑り込ませると顔を上げた。

 海が見えた。

(いつみても美しい)

 目を細めると綺麗に空と海を寸断する地平線が向こうに見える。その場で暫く打ち寄せる波の音に耳を傾けた。

 砂浜に打ち寄せる波音が優しく響く。

(今日はいつもより海が青い)

 律子は夢想気味になって通りを渡って海側のバス停に歩きだそうとした。

 その時一台の律子の視界の外からトラックがクラクションを鳴らして入って来て勢いよく目の前を過ぎていった。

 運転手の「気をつけろ!」という怒号が響くとあっという間に声と共に彼方へと消えて行った。

 少し呆然としてその場に立ち止まりながら律子は過ぎ去ったトラックに向かって小さく頭を下げた。

(運転手さん、ごめんなさい)

 舌をちょっと出して、恥ずかしそうに顔を赤らめながら慎重に通りを渡ってバス停に向かう。

 そしてバス停の時刻表を見て、自分の時計と時間を確認する。

 おやと言う表情をした。

(そうか、今日日曜日だから時間がいつもと違うんだっけ)

 思いの外、自宅を早く出たことに気付いた律子は、うーんと言いながらバイオリンケースを置くと腕を組んで防波堤下に広がる砂浜を見た。

 潮風が思案する律子の長い髪を撫でてゆく。

(そうだ・・)

 律子は置いたバイオリンケースを手に取ると勢いよく砂浜へ下りる階段へと向かった。

 階段から泳ぎ終えたサーファがボードを持って上がってくるのが見えた。

 海を見れば数人のサーファが波の中を動いている。

 彼女はサーファが階段を上がり終えるのを逸る気持ちを押さえながら待った。

(そうそう、一度、やってみたことがあったのよね)

 上がり終えたサーファが軽く手を上げて挨拶をしながら娘とすれ違った。

 それに笑顔で会釈をすると階段を勢いよく下りた。

 最後の階段は飛んで下りた。

 着地するとあとは勢いよく波打ち際に向かって走った。

 砂浜を踏む靴の音が流れる黒髪の音と交じりって耳に聞こえる。

(気持ち良いぃ!!)

 彼女は走りながら勢いよくバイオリンケースを青い空へ投出した。

 放り出したバイオリンケースに朝陽が当たって反射する。

 そして落ちてくるケースを両手で掴み取ると、バランスを崩して白い砂浜に倒れこんだ。

 黒く肩まで流れる髪に砂粒が絡んだ。

 仰向けになりながら瞼を薄く閉じて空を見上げた。

(美しい空・・、フランスのコートダジュールの空もこんな感じなのかな)

 テレビで見たフランスの青い空の街を思い浮かべながら彼女はゆっくりと息を整えていった。

(もし全国のバイオリンコンクールで優勝できたら行けるかも)

 青い空の下で自分を照らすレモネードのような甘い陽光を自分の若い肢体に吸い込ませながら、そんなことを思った。

(まぁ、まだまだそんなレベルじゃないけどね)

 瞼を閉じて、にこりと笑うと真顔になった。

(一度、この砂浜で作曲してみたかったの)

 耳を澄ませて打ち寄せる波の音を聞いた。

 波の音が自分の感性と交じり、それが反射して音律の円を描くのが彼女には分かった。不規則なかさかさと言う可愛いい音が音律の円の上を滑る。

(蟹さんね、可愛い足で歩いている)

 微笑して大きく息を一度吸うと、小さく吐いた。吐きながら、自分の心が落ちゆく世界を認識してゆく。

 突然、暗闇の世界の中に螺旋状につながる銀色の階段が見えた。

 その階段を自分の裸身が滑るように落ちてゆく。

 やがて落ちて行く暗闇の世界の底に光芒が見えた。それは子供の頃、課外授業のプラネタリウムのハッブル宇宙望遠鏡で見たへび座の銀河のようだった。

 無数の輝く星達の中を自分の白い裸体が遊泳し、その流れてゆく後が音符になって音が響く。

 乾いた唇から規則正しい息が漏れ始めた。すると彼女は鼻歌をリズムに乗せながらメロディを紡ぎだした。

 やがて自分の頭の中でそれらをまとめると起き上がり、ケースをあけてバイオリンを取り出した。

 そしてゆっくりと弓を引く。

 先ほどのメロディと寸分違うことなく音が砂浜を流れるように海へと響いてゆく。

 朝の波の穏やかな音と空へと上る音が、音楽となって世界を作っていく。

 彼女は身体に付く砂も気にせず、ひたすら目を薄く閉じ自分の音楽を昇華させていく。

 美しい音楽家の心は誰にも分からない、孤独な作業だけが彼女の芸術を完成させた。

 やがてメロディが最後を迎えると波の音に消えた。薄く閉じた睫毛の中にきらりと輝く涙が見えた。

 涙は彼女の去っていった自分の音楽への別れの挨拶。

 彼女は力を抜いてまた身体を白い砂浜へ倒した。先ほどより少し暖かい光が彼女の頬を照らした。

 遠くでサーファ達のはしゃぐ声が聞こえた。

 気持の良い朝だった。

(これからの人生が今日のような日であるといいのだけど・・)

 そう思うと、顔に翳りができた。

 彼女は昨晩両親が話していたことを思い出した。

 父が母に言ったのは、故郷を出て東京に行くということだった。それも単身ではなく家族を連れていくと言った。

 父は建築関係の仕事をしていた。正確には左官職人だ。

 ここ数年、大工や左官等の職人が故郷を出て行くのが増えた。

 バブル経済で浮き立つ都会へと人々は仕事を求めて故郷を出て行った。その為、人が少なくなってゆき家が建たなくなり、職人の仕事が減った。

 都会に人が集中し、仕事も必然的にそこに集中し始めた。

「東京に行けば今至る所でマンションが建っている。向こうは仕事が沢山あるらしい」

 と父は母に言った。

「それに・・」

 律子の学費もそれでまかなえると・・父は低い声で母に言った。

 それで東京へ出て行きたいということだった。

 彼女は部屋の向こうから聞こえる父と母の会話を静かに聞いていたが、そっとドアを閉めてベッドに入った。

 大人の事情だが理解はできた。

 実際自分の友人たちも学期が終わる度、一人ずつ転校していった。殆どが都会に仕事を求める両親に手を引かれて故郷を離れた。

 この前も仲良くしていた葉子が大阪の中学校へ転向した。

(東京へ行くことになるのかな・・)

「できれば家族全員でいければと考えている」

 そう父親は母親に言っていた。

 父親はまだ自分には言っていない。今朝も普通に挨拶して家を出て来た。

 現実感は湧かなかった。

 律子は砂浜に横たわりながらバイオリンに触れた。

(そうなるとシスターともお別れか・・・)

 彼女は遠い目になった。

 初めてシスターに会ったのは葉子と教会に行った時だった。

 別に洗礼を受けたいとかそんな気持ちはこれっぽっちも無かった。ただ葉子の一言につられた。

「シスターが作るモンブランがおいしいのよ!!ねぇ、律ちゃん、食べたくない??」

 ムフと笑いながら葉子の甘い誘いに乗って軽い気持ちで教会へ行った。

 そこで葉子が教会の黒塗りの木扉を開けた時、天井からパッヘルベルの“カノン”が響いて自分の耳に勢いよく飛び込んできた。

(えっ、何・・これは!!)

 天井から降り注ぐ音律が律子の身体を取り巻いて空へと浮かせた。

(何、この圧倒的な心に降り注ぐような感覚・・)

 その感覚はカノンの演奏が終わるまで続いた。

 最後の音符が自分の耳から静かに消えた時、律子は演奏している人物を見た。

 短い栗毛の髪の下でバイオリンを肩に抱えて目を伏せた女性が見えた。

 細身の体にピタリとしたジーンズを履いて、白いシャツを着ていた。胸元に輝く銀色のロザリオが見えた。

 葉子が女性に声をかけた。

「サラ・・・シスター・サラ。遊びに来たよ!!」

 葉子が手を上げながら言う元気な声に女性は反応して律子のほうを見た。

「おはよう、葉子。そちらのかたは?」

 その声に葉子が律子のほうを見た。

 何かいいなさい、と目で言っていた。

(え・・・、うーん)

 心で困ったなと思って、下を見たが直ぐに顔を上げてシスターに言った。

「はじめまして、シスター。私は律子です。バイオリンを・・・」

 ん?とシスターが律子を見た。

「バイオリンを教えてくれませんか?」

 その言葉に葉子が驚いた。

「あなたバイオリンに興味あるの?どちらかと言えばケーキでしょう??」

「今ね、今まさに興味持っちゃたのよ、わ・た・し!!」

 えーという葉子の声が聞こえた。

 律子はそう言うとふふと笑った。

「何よ、呆れた」そう言って二人はシスターのもとに言った。

 寄り添うようにやって来た二人を見てシスターは言った。

「ようこそ、律子。じゃ一緒にバイオリンを練習しましょう。ではそのあとにモンブランでも一緒に食べましょう。どう?」

「勿論。ラッキー。やった!!」

 律子は葉子と手を叩いて、シスターの伸ばした手をきらりとした瞳をしながら掴んだ。

(あれからもう2年か・・)

 バイオリンをシスターに習うと直ぐにのめりこんだ。バイオリンは最初シスターが使っていた古いものを借りた。その内、朝から晩まで練習している娘を見て父親がクリスマスに買ってくれた。

 新品とはいかなかったが木目が美しいバイオリンだった。

 その後、県内にある音楽科の私立中学校へ進んだ。学費は高いのは何となく知っていたが娘の為に両親が希望を汲んでくれた。それだけでなく隣町にあるバイオリンスクールにも通わせてくれている。だから父親が東京へ稼ぎに出て行くのは良く理解できた。

 律子の側を潮風が吹いた。髪が流れていく。

(もし、東京に行こうと父親が言ったら、私は一緒に行こうと思う)

 薄く瞼を閉じて打ち寄せる波の音を聞いた。

(だって、家族だもん)

 律子はそう言って砂浜を手に掴んだ。そしてそれを空に放り投げた。

 その時、陽に反射して落ちてくる砂の中に、何か小さな影が見えた。それが腹部に落ちたのが分かった。

(ん・・?何これ?)

 急いで身体を半身起こすと、落ちたものを見た。自分のブラウスの上に魚が乗っていた。

 今度は頭に軽い衝撃があり、また魚が落ちてきた。白い健康的な魚の目がはっきりと分かった。

(魚?空から降って来たの?)

 律子は空を見上げた。

 白い雲しか見えない。

(あれ?そうだよね)

 律子は落ちて来た魚を手に掴んだ。

(鯵じゃない、これ)

 そう思った時だった。

「よう、音楽家。朝から海でそんな音額を響かせたら海で泳いでいる魚が逃げちまって、釣人が困るだろう」

 彼女は声のほうを向いた。

 陽に焼けた身体と半袖シャツ、頭に視線を移すと痛んだ帽子とその下で笑う少年の顔が見えた。

「あんた誰?」

 彼女は立ち上がるとスカートに付く砂を払いながら彼を見た。

 よく見ると年もあまり変わらないように見えた。

「釣人だよ。ほれその鯵、さっき釣り上げたものさ」

(馬鹿じゃない、こちらが聞いているのは名前よ)

 彼女は落ちた二匹の鯵を見てそれを掴むと海へ放り込んだ。

 少年はあっと声を漏らして鯵が落ちた海へ進んだ。急いで膝まで海につかると海面に浮かび上がる二匹を手にとって戻ってきたが、彼女はもう居なかった。

 少年は鯵を握りながら彼女が去った時に残った足跡を見ていた。

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