第44話 諜報員

 ホテルへ来るときに見た景色を思い出した。海の上に漂うボートみたいに、体がゆらゆらと揺れていた。こぶしは切れて血が流れ、痺れていた。


 手をズボンに擦り付けて血を拭き取り、ホールを見まわす。工藤さんに囚人ふたりが切りかかり、小倉さんも高橋さんもバラバラに動いている。清田は西野先輩と一緒だ。


「こっちのほうが、人数は多い。冷静になれば勝てるぞ、みんな!」

 

 俺の声は誰にも届いていない様子だ。工藤さんひとりに手こずっている二人は仲違いをはじめていた。


「危ねぇな! 無闇に振り回すんじゃのねえよ。少しずつ追い詰めろ」


「なんでお前が指示してやがる。てめえ、さては一番弱そうな奴を獲物にしたいだけだろ」


 手を止めた瞬間、囚人のひとりは体をくの字に曲げ、ナイフは地面に落ちた。


「……!?」 


 間をおいて、もうひとりの囚人がナイフを繰り出した。工藤さんはそれを受け流し、カウンターパンチを決めていた。

 

 がら空きになったみぞおちに、ひじ打ちを追撃する。くの字のままの囚人の側頭部に、裏拳を振り下ろした。俺は瞬時に成された逆転劇に、自分の目を疑った。


「なっ……何が起きたんだ?」


 さっきまで情けなく逃げ惑っていた痩せた男、工藤さんは眼鏡を中指で吊り上げて、真っ直ぐと立っていた。鋭い眼光はまるで別人に見えた。


「やめとくんですね、チンピラくん。キミらのかなう相手じゃありません」


「な、なんだと?」


 立ち上がる囚人の背後に立つと、囚人の喉元に拾い上げたナイフをたてる。


「やむを得ません、教えましょう。ワタクシはスティグマのスパイです」


「ぶっ!」思わず吹いてしまった。「まじですか?」


 腕を捻りあげて膝裏を蹴られると、囚人は床に顔面を派手に打って倒れた。状況が理解出来ない西野先輩は俺に質問を投げた。


「どういうこと?」


「えっと……敵の敵は、味方みたいな」


 元スパイと言ったほうがいいだろう。工藤さんは実際に佐竹が娘達を守るため送り込んだスパイであった。


 佐竹本人が刑務所に入ってからは、その役割を終えていた。だが彼女たちを守る理由に金銭も契約書も要らなかった。


「ワタクシの過去がどうだろうが、お二人を守ります。この身が砕けようとも!」


「………」


「えっ、気持ち悪い感じですか? ちょっと変な感じになってませんか」


「いえ……気持ちがどうとかって問題じゃなくて、頭が付いていかないっていうか」


「気持ちいいか、気持ち悪いか。どちらかと言ったら、どちらでしょうか?」


 困り顔の可愛い西野先輩に、詰め寄る工藤さんは、かなり気持ち悪かった。だが西野先輩は誰よりも広く優しい心を見せた。


「気持ち……気持ちいいです」


 工藤さんには悪いが、西野先輩のそんな言葉が聞けてラッキーだと思う自分がいた。そんなに恥ずかしいそうに言われたら、死ねる。


 典子さんの作った元オクラスパゲティーを避けられなかったのも、その愛の深さ故だった。工藤さんは、向かってくる囚人に次々と回し蹴りを入れて叫んだ。


「フアタアッ! アタァ!」


「……すごいわ」


《ハハハハ、正体を現したな。囚人などただのかませ犬よ。殺戮無効化コンシェルジュ! 撃ち殺してしまえ》


 前後左右に立つ六体のコンシェルジュ型アンドロイドの腕にはマシンガンのショートバレルが飛び出していた。機械から立ち上る熱気がサーボモーターから吹き出している。


 バレルが工藤さんに向けられる寸前、宙を舞っていた。ポリカーボネート製の腕や体が六体同時に、切断されていた。風切り音だけを残し、刃物の存在は何処にも残していなかった。


「アナタも、ただ者ではないと思っていましたよ、小倉さん。どんな武器ですか」


「……!?」


「超音波電磁ワイヤーだ。この部屋に入ったときから仕掛けさせて貰っていた」


 小倉さん。彼はトラップを得意として使う元特殊部隊出身の傭兵。対アンドロイド用の兵器はホワイトハウス直属の諜報部隊が使用する特別な代物らしい。


《なるほど。つまりCIAの工作員か》


「武器だけで身元を特定するとはな。まあ、こんな穴だらけの包囲で、俺を捕らえたと思うのは甘過ぎたな」


 小倉は両肩を持ち上げて、工藤を見た。付き合いは浅いが、互いの真実を認めあうのに言葉は要らなかった。


「さっきのセリフ、痺れたよ。工藤さん」


「ああ……ありがとう。小倉さん」


 途方もない考えだった。立場の違う諜報員が西野親子を守るという強い意思で繋がった瞬間だった。もうひとり、巨漢の高橋さんがふたりに歩みよる。


「あんたらも諜報員だったとはね。だが、なんで他人のために危険をおかす。実りのない恋のためか?」


「……いや、そんなんじゃない」


 小倉さんを遮り、工藤さんは話した。目線の先に壇上の典子さんがいた。どうしても典子さんに言いたいのだろう。


「マウンツがしてきた事は知っているつもりです。これは西野さんだけの問題ではなく、共にくらす全ての人々のため。隣人や未来の子供たちのためで御座います」


 ふたりが目を合わせた瞬間、高橋は二人の首を掴んでいた。警戒を解いた、ほんの僅かな一瞬のタイミングだった。


「ぐお、お前……」


「盛り上がっているところにすまないが、俺もスパイだ。ただし冨岡側のな」


「……くっ!」


 小倉さんは躊躇なくナイフを高橋の肩に刺し、工藤さんも連蹴りを後頭部に入れた。だが高橋さんはびくりともしなかった。


 その感触は硬直した死体を思わせた。分厚い肩の筋肉からは出血すらしていない。二人の身体が軽々と宙に持ち上がる。 


「ふっ……内臓以外は丈夫なんだ」


 その言葉は高橋が生身の体ではないことを示していた。刃渡り十五センチのナイフを通さない体。七十キロある大人ふたりを軽々と持ち上げるさまは、異常な光景だった。


「なんで?」俺は駆け寄ろうとする西野先輩の腕を掴んで止めていた。


「高橋さん、どうして」


「俺達は三人組じゃない。三つ巴のスパイだったのさ。常にお互いが監視しあっていたが互いに尻尾は出さない。ある時点まで目的が同じだっただけだ」


 どうりでアダ名のジャンルが違うと思った。驚きっばなしで考えがまとまらない。だが本当に驚くのはこれからだった。


《プッハハ! バカな奴らも居たものだ。さあ、そいつらを絞め殺せ》


「……爆破します」


「!?」


 壁に張り付いたまま動かなかった典子さんが、口を開いた。「爆破の準備が整いました。壁が壊れますのでご注意ください」


「何を言ってる? 爆破だと」


 高橋は目を細めた。はじめは人工皮膚を見馴れている俺にも分からなかった。違うという先輩の言葉を聞いて、典子さんがスリーディー変装プログラムを使ったアンドロイドだと気付いたのだ。


「まずいっ、伏せて!」


 俺は西野先輩を引き寄せて、強引に頭をグイと下ろした。力は要らなかった。彼女は俺に身を預けて、腕のなかに丸くなった。



 


 

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