第11話 富士

 俺が小学校三年くらいだったろうか。こっぴどく負けたのを覚えている。それから、俺と兄貴は喧嘩の練習を日課に加えた。


 近所の公園に、見知らぬ子が泣いていて何かのもめごとに巻き込まれていた。俺は、そのへんはよく覚えていない。


 すぐに、その子の兄貴が駆けつけてきて俺を殴りつけた。記憶の濁流に逆らうように当時のことを思い出す。


「あいつは……ボクサーだったか」


「おおっ、覚えてるのか。あそこまで隙の無いヤツはなかなかいない。やっぱ、ボクサーが一番強いのかもなぁ、ありゃ反則だ。まばたきすらしない」

 

 あの時――長男は学校の体操マットを持ち帰り、棒状に縛った。膝と肘にはスケボー用のプロテクターを付け、俺にヘルメットを用意した。


 そして繰り返し、タックルと追い打ちの二段攻撃を練習させられた記憶が蘇る。倒れてくるマットに膝蹴りや頭突きをかますという、謎の特訓だ。


「ああっ……恥ずかしい! 思い出したくない。今になって考えたら、二人がかりで喧嘩していた俺達は、反則じゃないのか?」


「あははは。俺達のは、男心をくすぐる女子がやる方の反則だから種類が違う」


「可愛い反則と、反則可愛いは意味も使い方も違うぞ」


 当時の俺は、あんなに大量に鼻血が出るものとは思わず、パニックになって気を失った。どうやって家に帰ったのかも思い出せなかった。


「お前をオブって帰ったの、覚えてないのか。母さんにこっぴどく叱られたのも覚えていないのか」


「ああ、覚えてねぇよ」


 不思議な感覚だった。つい昨日、俺は雑木林に落ちた弟をオブって歩いた記憶と交錯するように、あの日の兄の背中が、そこに感じられた。何かモヤモヤした感覚だった。


 喧嘩の原因が、俺だったことだけは間違いない。


 見覚えのない子供が、わが物顔で遊んでいて偉そうにしていた。仲良くしていたはずだったのに、最後には俺が殴って鼻血を出させた。


『ボクは知らなければならない。殴ってくれ』


 俺には見知らぬ子を、殴る必然性があったはずだ。


 ――何か理由が。


 もし無かったとしても……だからといって八歳か九歳だった俺が、感情をコントロール出来ないサイコパス野郎なのかは分からない。そんなはずがない。


 ただ、ひとつ言えるのは――兄貴は俺を守るために、ボクサーと喧嘩したってことだ。そして一週間後には、身長が三十センチも上の高校生ボクサーを倒した。

 

 もっとも今回のようにスムーズではなかったが、同じ手口だった。その時の兄貴は頭から前転するように飛び込み、相手の足場を崩した。前のめりに倒れたボクサーの顔面に、俺が膝蹴りを入れた。

 

 ボクサーの鼻は曲がって大騒ぎになったが、両親は俺達を前ほど叱らなかった。


 親父はこれをパラダイムシフトだと言って笑った。力で敵わない人類が生存競争に生き残ったように、俺達は自分の持っている武器を使ったのだ。


 原始人の戦いかたでは絶対にかなわない相手に。俺たちはマンモスに向かって戦いを挑んだ新しい人類だった。俺達は、その高校生より頭だけは良かったのだ。


 その時はそう思った。だから桐畑の兄弟が巷でどんな噂をされようが気にもしなかった。自分が何を得て、何を失ったかなど興味がなかった。ただ、二人とも、その時練習したコンビネーションだけは、しっかり覚えていた。

 

 更に、いまと同じように俺達はボクサーにネタ晴らしもした。怒らせたので勝てたのだと。


 彼はカッとなって我を忘れた自分を恥じただろう。理性を失えば一瞬にしてKOされてしまう。今まで正攻法の喧嘩しか経験していなかった彼には思っても見なかったことだ。


 それ以来、そいつは俺達を見かけても殴りかかってくることは無かった。潔く負けを認め、怒りに任せて行動する危険性を学んだのだ。


 俺達は思った――調教にも成功したと。それが良くなかった。


 それからも、暫くは謎の特訓が続けられた。主には避ける訓練だった。木に吊るした棒や、長男の投げるゴムボールをひたすら避け続けるというものだった。

 

 隙を突いて、背後にまわり腕を押さえつけたり膝を付かせるまでの訓練。俺が押さえつけた相手を兄貴は殴りつけ、なじり、調教する。


 俺は、そのための道具だったのかもしれない。だが、兄貴に罵倒され、卑劣な暴君を見たガキ共は、二度と歯向かって来なかった。

 

 こんな悪事が目の前で行われることに、俺がどれほど苦しんだかを正確に伝えることは不可能だろう。


 ある意味では俺が、この怪物を生み出してしまったのではないかと不安になる。兄貴は、最初は楽しくて……でも、だんだんもっと楽しくなって……たった今も最高に楽しそうに言っている。


「はじめまして負け犬さん。だから言ったろ、俺たちに手をだすんじゃねぇって。言ってねぇけど。そんで、あんたは何者なんだ?」 


 俺はポーチの中から手帳を取り出して、見せた。


「おい……ちょっとマズイことになったかもしれない。遠藤紀之、麻薬捜査官。警察手帳だよな、これって」

 

       ※




 気を失ったスポーツ刈りを桜の木に縛り付けて、俺達は出発した。右手に富士山を見ながら十キロほど進んだ。


 前を歩く長男の靴底のゴムが外れ、パカパカと音をたてている。真っ白だったスニーカーは黒ずんで、所々にほつれが目立っていた。ズボンにも汚れがこびり付いている。


 夕日に映る自分達の影を追いながら、いつまで道が続くのか考えることも出来なかった。長男は病気の犬のような顔をしていた。


 この三時間は一言も話していなかったし、ペットボトルの水にも手を付けていなかった。垂れた前髪や裾の巻き毛までも、汚らしく見えて疲労を感じさせていた。


「いま何時だ、ターミー」


《四時二分です》


「蕎麦屋があるけど、入るか?」兄貴が言った。


「いや、食う気がしない。それより早く横になりたい」


「俺もだ。眠い……っても吐いちまうかも」


「たかしが、遅れてるな。ターミー」


 長男はふらふらとした足取りでペースを落とし、ついには立ち止まって首をもたげて膝に手を当てた。

 

《五十メートル後ろにいます》


「すげえな、なんで分かるんだ。建物で見えないのに」


《サーモグラフィで追跡できます》


「おお、じゃ俺の体温は分かるか」


《はい。あつし様の現在の体温は三十九度です》


「……聞かなきゃよかった。フラフラする」


「大丈夫かよ。風邪か」


「ただの疲労だよ。いますぐ横になれたら幸せだろうけど」


「ターミー、近くに宿泊施設はあるか」


《四キロ先に旅館があります》


「遠いな。げほっげほっ」


「兄貴だけでもタクシー使ったほうがいんじゃね」


「冗談じゃねえ。ターミー、その場合……俺は、棄権と見なされるのか」


《いえ、二十四時間以内の合流であれば問題ありません》


「へ? 待て待て。ってことは、三人でシフト組んで順にターミーを運んでもいいってことにならないか」


《もう一度お願いします》


「質問の仕方を変えた方がいいみたいだな。頼む、さとし」


「二十三時間、俺とターミーだけで歩行を進める場合、あつしとたかしは棄権になるか?」


《いえ、二十四時間以内の合流であれば問題ありません》


「なんてこった……こいつは盲点だったな」


 長男は重い体を立て直すように頭をあげると、髪を掻きあげて言った。


「……だが、ターミーをぶち壊したいって連中がもう居ないって可能性も低い。単独行動はリスクが高いか」


 弟がよろよろと俺達に追い付いてきた。鼻をすすって唾をはき、真っ赤な目をしている。鼻から伸びた銀色の糸が風に揺れている。頭のボヤけた俺達は綺麗な花でも見るように弟から伸びる鼻水を見つめた。


「お前も風邪みたいだな」


「違うよ、花粉症なんだ。この時期は毎年こうなるのに薬を飲むのを忘れてた」


 俺は花と鼻のくだらないダジャレを言いそうになったが、冷静になってタクシーを呼び二人を乗せることにした。


 兄貴が、雨が降るかもしれないと言って雨ガッパを渡した。見上げる夕焼け雲はまばらだったが、兄貴の予報はよくあたるのだ。


 たかしはまだ歩けると言っていたが借りを作るのも悪くないと言うと、あっさり納得した。

 

 ずっと爪先から膝に針をさしたような痛みが走っていたが、歩き続けることは出来た。兄弟達もバテていたに違いない。


 顔を見れば疲労にとりつかれているのが分かった。悪魔にとり憑かれているような表情だ。

 

 もう歩きたくない。両足に出来たマメが何個も潰れていたが、新しい靴下にテーピングでなんとかしのいでいる。

 

 こんな状況でも一人になれるのは有難いと感じた。いろいろと頭の中を整理しないとならなかった。兄弟と一緒にいると、どうしても自分の気持ちに向き合える気がしなかった。


 真ん中の子は気を使ってしまう性質があるのだ。食事中や会話中に平気でスマホをいじれる連中が羨ましい。俺は、親のしつけが良すぎた。

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