第8話 誰かのせい

 木々が生い茂り、湿った草の匂いがした。まっすぐ降りようとすると枝が体中を引っ掻いた。ターミーのワイヤーを握りながら、身を屈め滑るようにゆっくりと斜面を降りて行く。


 枯葉の中に、たかしが横たわっているのが見えた。左足を派手にすりむいて出血しているものの、意識はしっかりしている様子だ。


「さ、さと兄……お、俺、足が滑って……いてて」


「大丈夫か?」弟の体を抱き上げて、肩に担いだ。「上に行くのは、無理だな。このまま下に降りよう。すぐに道があるみたいだ」


 俺はスマホを取り出し、長男にかけた。たかしは無事で、ケガもたいしたことは無かったが、坂を登ることは不可能だと伝えた。


 携帯のGPSを使って、近くに旧道があることを確認すると、兄貴はターミーと先回りしていると言った。


 京都への最短ルートからは外れるが、別の地点で合流することに決めた。ワイヤーがシュルシュルと音をたてて真上に消えていく。

 

 風もなく、音もなかった。俺は弟をおぶったまま、森に入っていった。


「……わ、わりぃ。自分で歩くよ」


「遠慮すんな」


「ずっと迂回して歩くと何キロも損することにならない?」


「まあ、京都まで五百キロあるんだぞ。一キロや二キロなんて安いもんだろ」


「そ、そっか」


 俺はたかしと細い旧道を見つけ、道沿いに下っていった。坂はなだらかになり危険は無かった。弟をおぶって歩くのは初めてのことではない。ただ、こんなことをしたのは遠い昔のような気がする。



            ※


 

 たかしがまだ保育園に通っていた時に、同じようなことがあった。まだ頭が混乱しているみたいだ。俺は買ってもらったばかりの自転車に乗りたくて、保育園にお迎えに行った。母親には、一人で大丈夫だと言って。


 たかしは手早く保育園のおもちゃを片付けて、挨拶を済まして駆けてきた。いつもトロい癖に、俺がお迎えのときはさっさと用をすませやがる。


 今になって思うと、すぐに帰れるよう準備をしていたんだと分かる。俺との帰り道を楽しみにしていたんだろう。


『さと兄、お願い。自転車の後ろに乗っけてよっ』


 平気かな……怖いとかいうんだろ。猛スピードで坂を駆け下りるから、たかしは兄ちゃんにしっかり掴まっていなくっちゃだめだぞ。振り落とされたってしらないぞ。


『うん! ぎゅうって掴まるから怖くない! やったーっ』


 俺とたかしは、自転車で坂を下っていた。どんどんスピードは上がっていったが、恐怖心はまったくなかった。


『兄ちゃん! まずいよ、スピード出過ぎだよっ』


 まだまだ、出るよ。ほら、乗用車もトラックも俺達の自転車よりぜんぜん遅いよ。それより、どうして自転車が倒れずに進むのかのほうが興味深い。スピードはどんどん上がっていく。


『怖いよ! 早いよっ』


 だから言っただろ? って言いたくてスピードを出しているのは否定出来ないが、これも経験だと教えてやるのも悪くない。


『………!!』


 仕方ないからスピードを落としてやるか……って思ったら大間違いだよ。だって、こんなのまだまだだから。ジャイロ効果が自転車の安定性に関係しているのかな。


『さと兄! ぼ、僕怖いよ。怖いってば』


 制限速度四十キロの道で車を抜いたってことは、五十キロくらいは出てるのかな。ぜんぜん大したことないけど、この辺でブレーキを掛けないと充分な減速距離が取れない計算だ。


 

 ――あれ? ブレーキ、壊れてるのかな。


『ぎゃあっ、怖い! 怖いっ』

 

 う、うるさいな。今何とかするよ。落ち着いてよ、ハンドルがぐらぐらするじゃないか。


 不味いよ、動いちゃ駄目だよ、動いたらいけないんだよ! 心配しなくても自転車の倒れる方にハンドルを向ければ自転車が倒れることは無いんだ。

 

 することはあっても前や後ろに倒れることは無いんだから、スピードなんて、どれだけ出ても問題じゃない。



『わあぁ! わああぁ!』


 ――う、うわあああっ。


 俺はグラグラと震えるハンドルを、しっかり握っているつもりだった。だが、グリップはするりと俺の手をすり抜け、同時に上下の感覚が無くなった。



         ※ 




 新品の自転車はガードレールにぶつかって大破した。丸い車輪がひじゃげて楕円になり、カゴが歪んでいた。


 チェーンが外れて引っかかり、ペダルは前にも後ろにもビクともしなかった。


 それでも俺とたかしは無事だった。骨折しなかったのは奇跡に近かった。


 耳や肩は傷だらけになって、頭部からの出血で俺のシャツが真っ赤に染まっていた。たかしの両足は擦り傷だらけで真っ赤になっていた。夕焼けの中、俺はたかしをおぶって陸橋を歩いていた。



 大丈夫か? たかし。ごめんな、俺のせいで。


『ひっく、えっぐ……ううん、兄ちゃんのせいじゃないもんっ』


 こんどからは違う遊びをしよう。自転車が無くなったから。そうだな、ボクシングを教えてやろうか。


『うっぐ。イタいのなかったら……いま、足痛いから』


 うん、もちろん治ってから。俺は今までも偉大なボクサーを育ててきたんだ。


『それって誰のこと』


 俺のこと。


『すごいね、それ。絶対ね、約束ねっ』


 あはははは、こんどはケガしないようにやろうな。


 家に帰った俺は母さんと兄貴にこっぴどく叱られて、もうボクシングを教えてやるなんて気は無くなってしまった。長男は、かわりに俺をサンドバックに詰めて殴ってやると言っていた。


 それから、しばらく俺は弟を避けていたのかもしれない。たかしが、母さんや兄貴に何かを言いつけたワケじゃないのに。自分の犯した奇行を、誰かのせいにしたかったんだ。



         ※




 日の落ちた林の気温は低く息が白くなっていたが、たかしの体温を感じて、とても暖かかった。とぼとぼと、薄暗い石畳を歩き続ける。曲がりくねった登り坂は、どこまでものびている。


 ――ずっと人のせいにしてきた。俺も兄貴も。


 だが、たかしは違った。まだ四歳くらいだったはずの子供が怪我をして、兄ちゃんのせいじゃないと言いながら泣くなんて。


 俺はたかしに謝らなくてはならなかった。たかしが、雑木林に落ちたのは俺のせいだと言った。


「ちげぇよ」泣いていたのかもしれない。鼻を摘まんだような声だった。


「……さと兄のせいじゃねぇよ」


 いや、俺が悪かったと繰り返す。俺のせいだよ、完全に。今回のことも、あの坂を自転車で降りた時も。全部覚えている。俺はちゃんと謝りたかったのに、今まで素直に謝ることが出来なかった。


「俺のせいだ。すまなかった」


「さと兄のせいじゃねぇよ、どう考えたって。オレが落ちたんだから、オレのせいだよ」


 いままで泣きながら、怒りながら、お前のせいだと罵りあってきた俺達は、どういう訳か逆のことをしていた。


 しつこく「お前のせいじゃない」と言うと、俺は自分の頬を涙が伝うのを感じた。


「……ごめん、本当にごめん」


「さと兄のせいじゃねぇよ」



『さと兄のせいじゃないもんっ』


 あの時――たった今も、そう言われて救われた気がした。そして誰かのせいにしない、弟のその言葉を……俺は誇りに思った。



 旧街道の坂道を抜けると、高台になっている広場から芦ノ湖が見下ろせた。夕焼けの太陽が、俺達三人とターミーと、あらゆるものをオレンジ色に染めていた。


 ターミーの腹部からライトが照らされ、俺達は兄貴に迎えられた。こんなこともあろうかと、風邪薬や包帯は用意していたそうだ。


 たかしの足に傷スプレーをかけて、兄貴は包帯を巻いた。


「歩けるのか? あしたは、静岡県だ」


「ああ、大丈夫だと思う。ごめんよ、迷惑かけて」


「お前のせいじゃない、さとしのせいでもない」


「………」


 兄貴が自分のせいだと謝るのかと思い、俺は驚いた顔で覗き込んだ。弟のたかしも同じように、キョトンとした目で兄貴を見た。あの自己中の兄貴が、本当に俺に謝るのか? 


 そんな日が、ついにくるのか。


「やめろよ、その空気。謝らねぇぞ、ありゃあ事故だ。そうだろ? 誰のせいでもない。とにかく、今日はもう遅い。休戦にしよう。ぜんぶ明日にしよう。いいな?」


「駄目だ。あつ兄は、まだ何か隠してるんだろ?」


「はん?」 

 

 俺達が、いがみ合ってきた原因のひとつは兄貴にある。昔はまだ、よかった。母さんが入退院を繰り返していた頃も、なんとかやってこれた。

 

 母さんの入院が長引いた時、長男は家族と兄弟を捨てるように家を飛び出していった。俺とたかしには知らされていない母さんとの何かがあったはずだ。


 兄貴は鼻を鳴らした。


「母さんのこと。後でちゃんと話してやるよ」

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