その涙さえ命の色~ALIVE~

猫柳蝉丸

本編



 息絶えている。

 りのんが息絶えている。

 僕の大切な、僕が大切にしていた妹が息絶えている。

 悲しくはなかった。驚きもしなかった。

 その時、僕の胸に去来していた感情は、そう、間違いなく……。



     〇



 遭難から多分、五日経った。

 原因は僕の運転ミス。

 自然が好きなりのんを連れて、少し遠くの高原に向かう途中の山中での事故だった。

 猪と衝突しての交通事故なんてたまにニュースで見るけれど、まさか自分が猪と関係した事故を起こす事になるなんて夢にも思っていなかった。猪と衝突するだけならまだいい。突然、道路に姿を現した猪を避けようと思って、急いでハンドルを切ったのが間違いだった。ガードレールを突き破って、遥か下方に広がる樹海に真っ逆さまに落下する事になってしまった。

 崖と呼ぶほどの高さでなかったのは、幸運だったかもしれない。

 生い茂る樹海に僕の愛車は受け止められ、僕とりのんは奇跡的に軽傷で済んだ。

 けれど、りのんと二人で登れるほど甘い岩壁でもなかった。

 助けを呼ぼうとしても、スマートフォンは落下の衝撃で故障してしまっていた。その時ほど僕は、スマホではなく携帯電話にしておけばよかったと思った事はない。スマートフォンは便利だが携帯電話に比べれば遥かに脆い物だから。

 深い山ではない。けれど、深い山でなくても、ちっぽけな人間にとっては広大なのだ。何処へ向かえばいいのか、自分達が何処に居るのかすらも分からない。道路まで戻ろうにもその道路すら見当たらない。八方塞がりだった。

 そうして、僕とりのんの長い遭難生活が始まったのだ。

 最初の一日はりのんとあてどなく歩き続けた。適当にでも歩けば道路にくらいは突き当たると軽く考えていた。いや、考えようとしていた。無理にでも前向きに考えなければ恐怖で叫び出してしまいそうだった。

 りのんの体力は一日で尽きた。元々身体の弱いりのんなのだ。むしろ一日もよく歩いてくれたと思う。僕はそれについてりのんを責める気は全く起こらなかった。それは紛れもない事実だ。りのんは僕が守らなければならないまだ十歳のか弱い妹なのだから。

 それよりも僕を苛立たせたのは、その後のりのんの態度だった。

 遭難二日目、投石で幸運にも鳩を仕留められた僕はそれをりのんに食べさせようとした。冬が近く果物の量は少なかったし、得体の知れない茸を食べる蛮勇は無かった。結果的に僕達が食さねばならないのは動物性蛋白質に限られた。幸い、愛車のダッシュボードに念のため入れていたライターのおかげで火の心配だけは無かった。

 けれど、りのんは鳩を食べるのを拒絶したのだ。いつもと同じに。



――りのん、お肉なんて食べられないよ、お兄ちゃま。



 そうなのだ、りのんは菜食主義者なのだ。病的なまでの。

 生まれついての菜食主義者ではない。物心をついて自分の食べている肉が生物由来の食物だと知って以来、りのんは肉や乳製品を摂取していない。生物が可哀想だから、というのがりのんの言い分だった。僕は菜食主義者ではないけれど、りのんの心根は立派だと思う。だからこそ僕達家族はりのんに肉食を強制しなかった。りのんの好きなように生きさせてやろうと、その意志を尊重しようと思ったのだ。

 それでも、こんな時にまで菜食主義を貫かせるわけにはいかなかった。

 りのんはただでさえ成長不良で同級生の女の子達よりかなり小柄だった。病弱で学校も休みがちなくらいだ。気分転換の高原でのハイキング程度しか楽しみがない、そんな儚い妹だったのだ。

 こんな状態で肉食を避けさせる事なんて出来なかった。僕はりのんを叱り付け、大粒の涙を流すりのんに無理矢理鳩を食べさせた。僕の分までしっかりと。りのんは身体が弱いのだ。ただでさえ一日も歩き回ってしまっている。今にも力尽きそうなりのんを放置しておく事なんて出来るわけもなかった。

 僕はりのんのお兄ちゃまなのだ。か弱い妹を守ってやる義務があるのだ。

 泣いて鳩の肉を吐き出そうとするりのんを抱き締めながら僕は諭した。



――ねえ、りのん。りのんの考えは立派だと思う。だけど、自分を犠牲にするほど貫いちゃいけない考え方だよ。生物はね、何かを犠牲にして生きていくものなんだ。それは動物でも植物でも変わらない。何かに生かしてもらってるんだよ。だからね、犠牲になった動物に感謝して食べさせてもらうんだ。いただきます、って。



 柄にもない事を言ってしまったかもしれない。

 それでも、僕はりのんに生きていてほしかった。りのんが衰弱する姿なんて見たくなかった。そのためなら僕がお腹を空かせるのなんて何ともなかった。その心に嘘は無かった。りのんのために僕は生かされているのだと本気で思っていた。

 りのんは僕の腕の中ですすり泣き続けた。

 生物の肉を食べてしまった事を悲しんでいるのか、それとも……。



――何かを犠牲にしてなんて、したくないよ、お兄ちゃま……。



 僕はりのんのその嘆きを聞かなかった事にした。僕を犠牲にしてほしいと思った。

 事故から四日を経て、りのんはどうにか健康を保っていた。

 いつの間にか文句も言わず僕の獲った兎や猫を食べてくれるようになっていた。

 疲れてはいるのだろうけれど飢えてはいないはずだった。

 対照的に僕の身体は疲労困憊だった。りのんの食べ物を用意するために一日中樹海を走り回っているんだ。疲れるのも当たり前だった。それでも僕は満足だった。りのんが僕の言う事を聞いてくれている。衰弱する事なく生きてくれている。それだけで僕は自分が疲れ果てるのなんてどうでもよくなった。



――もういいよ、お兄ちゃま。りのんのためにそんなに頑張らないで。



 そう、そう言えば最後の夜、りのんはこう言っていたんだ。

 嘆くわけではなく、怒るわけでもなく、ただ静かに淡々と。



――りのんね、りのんのためにお兄ちゃまが頑張るの見てるの嫌なの。そんなに頑張ってくれなくてもいいの。りのんはお兄ちゃまを犠牲にするなんて嫌なの。お兄ちゃまだけじゃないよ。お兄ちゃまも兎さんや猫さんを犠牲にしたりしたくないの。見てられないの。



――気にしなくていいよ、りのん。これは僕が好きでやっている事なんだ。僕はりのんのお兄ちゃまだからね、お兄ちゃまは妹を守らなくちゃいけないんだ。そのためならこんなのどうって事ないさ。



――………………。



――りのん?



――それなら約束してほしいの、お兄ちゃま。



――何をだい?



――もしもりのんが死んじゃったら、その時はお兄ちゃまの事を大切にしてほしいの。りのんを犠牲にして生きてほしいの。りのんだってお兄ちゃまを大切にしたいの。



――縁起でもない事言うなよ、りのん。



――約束して。



――分かった。分かったよ、りのん。約束する。約束するよ。



――約束なの。



 それが僕とりのんの最後の会話になった。

 翌朝、目を覚ました時には、りのんは大木の蔓に首を吊って自殺していたからだ。



     〇



 りのんの死体を地面に横たえてから、僕は自分の中に湧き上がる感情を自覚し始めた。

 この感情は悲しみではない。

 この感情は驚きでもない。

 この感情は、そう、怒りだ。

 りのんは遂にやってしまったのだ。この残酷な世界からの解脱を。

 りのんは何かを、誰かを犠牲にしては生きられない妹だった。それは言い換えれば、何かを犠牲にして生きる覚悟が無かったのだとも言える。この何かを犠牲にしなければ生きられない世界には不適な人間だったのだ。

 それは僕もある意味ではそうだった。僕はりのんが愚かである事を知っていた。それでも守ってやりたかった。今だからこそ言える。それは庇護欲からじゃない。ただ単純にりのんが衰弱するのを見たくなかっただけだった。誰かが傷付くより自分が傷付いた方が気が楽なだけだったのだ。

 りのんもまたそうだったのだと思う。

 りのんは何度も言った。何も犠牲にしたくない。僕が犠牲になる姿を見たくないと。何の事はない。そのままの意味だったのだ。りのんも誰かが傷付くより自分が傷付くのが楽だっただけだ。そこに思いやりや気遣いはない。あるのは単なる自己本位な感情だけだ。そう、僕と同じに。

 と。

 僕はもう一つの事に気付いた。りのんの僕に対する復讐に。

 この数日、りのんが嫌いな肉を文句も言わずに食べていた理由がこれだったのだ。

 りのんの身体は五日遭難したわりにはまだまだ肉付きがよく瑞々しい。

 まるで、よく育てられた家畜みたいに。

 ああ、そうだ。そうなのだ。りのんは僕にこう言いたいのだ。



――生物の肉を食べるのも、りのんの肉を食べるのも同じだよね?



 間違いない。

 昨日、りのんは僕にまさしくそれを約束させたのだから。自分を犠牲にして生きろと。

 りのんは分からなかったのだろう。動物を犠牲にして生きる事と人間を犠牲にして生きる事の差異に。まるでまさしく社会不適合な妹だったとしか言えない。遅かれ早かれりのんは似たような終わりを迎えていたのだろう、こんな風に遭難などしなくとも。

 僕は、苦笑しながら天を仰いだ。

 いい天気だった。

 寒くならなさそうなのは助かるが、今の僕は行き場所もなく途方に暮れている。

 このままりのんと共に果てるのも悪くないかもしれない。そう思わなくもない。

 けれど、僕の腹は無責任に鳴り続けていた。

 この五日間、ろくに食べていないのだ。腹が鳴るのは当然だった。生きているのだから。

 りのんの肉を食べれば、少なくとも二週間近くは生き延びられるだろう。

 それなら、僕は……。

 ともあれ、りのんの服を脱がせてから考えようとして、気付く。

 りのんのまぶたの中に水滴のようなものが溜まっている事に。

 死んでいる人間が涙を流すはずなんてない。

 それでも、僕はその水滴さえも無駄にしたくなくて、舌でりのんの眼球を舐め回した。

 何となくだけれど。

 りのんの命の味を感じたような気がした。

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