24. 偉大なる死がうんぬん、って詩

 はじめは、ぼんやりとした光だけが認識できた。

 薄暗い水路の片隅で、不自然に光っている一帯がある。

 その場所に意識を向けたとき、それは霧の中から歩みでるように、足下からゆっくり姿を見せた。


 布切れをただ縫い合わせたような純白のワンピース。

 異様に細く長い手足。

 服と同じく漂白されたような白い肌。

 すぐにも天井に届きそうな三メートルはある巨大な身の丈……。


 現れたそれは光の中で樹木のように佇み、背を丸め、巨大な頭部を重たげにもたげる何かだった。


 巨大な頭部。

 そう、僕があれを人型の何かと形容した最大の理由、あるいは特徴がそこにあった。


 人型の頭部は、色とりどりの薔薇ばらだけでできていた。

 頭に花が飾られているのではない。

 まるで巨大な花束が首から上に根を張り寄生しているように、ほのかに輝く胴体の上で、鮮やかな花を咲かせているのだ。


 美しい、とは思えなかった。

 人の体と、花の群れ。

 知っているはずものが不自然に組み合わさるだけで、言いようのない恐れと拒絶が腹の底から込みあげていた。

 


 ――あれが、肉食獣?


 ありえない。あれはそういう次元のものじゃない。

 口中でつぶやいたあと、僕はできるだけ音を立てずに息を吸い、時間をかけて細く吐いた。

 努めて冷静に考えるようにした。

 問題は、あれが獣であるかどうかという点ではない。

 考えるべきなのは、あの異様な気配を放つ化物が、地下水路に棲むであるかもしれないという点にある。

 そして僕は今、あまりにも無防備なまま、相手の領域テリトリーで自らの血の匂いをまき散らしている。


 ――可能なら、このまま逃げるのが最善だけど……。


 探るように動かした足は、自分の意思に反してまだ震えていた。

 逃げるにしても戦うにしても、これではどだい話にならない。

 もう一度、賢者の歩方を使うべきだと思った。

 足が壊れても、死にさえしなければ治療はあとでいくらでもできる。


 視線をもどした。

 人型に変化はなく、もしかしたらこちらに気づいていないのかもしれない、そう確認してから、僕は息を詰めて、壁に手をつき立ちあがろうとした。


 そのとき、額をつたった何かが目に入った。

 血が両目に入ったのだと気づいたのは、痛みに目を閉じたあとだった。

 地下水路の暗さが、より深い闇に塗りつぶされた。

 その瞬間、意図しない光景がまぶたの裏に広がった。

 絶え間なく揺れる白い光が、まぶたの裏に人型の輪郭を描きだしたのだ。


 昨晩、同じ光景をロスペインで見た。

 ディビジョンというらしいこの透視は、まぶたの向こう側にいる者の輪郭とプロフィールを確認できる。

 だが今回のディビジョンでは、人型の名前やレートは出てこなかった。かわりに見えたのは、不規則に散らばった文字や記号と、そして赤い光で記された一篇の短い詩だった。


 Great Death scorns control: she will not bear

 One beauty foreign to the calm or soil


「偉大なる死……?」


 つぶやいたとき、悪寒のようなものが走り、僕は手袋をしたまま顔をぬぐった。


 視界がもどり、息が止まった。

 水路の向こう側で、花の頭がゆっくり動き、あきらかに僕をふり返ったからだ。


 ――逃げられない。


 直感が体を走り抜け、僕は腕を突きだして声をあげた。


逆巻さかまき、しだけ かの波濤はとう水泡みなわは赤く……」


 周囲一帯を火の海に変える、それはこの密閉空間では捨て身に近い魔術だった。

 だがその詠唱すらも途中で切れた。

 理由は二つあった。

 一つは人型の姿が突然消えたこと。

 もう一つは、消えたはずの人型が、一瞬のうちに僕の目の前に立っていたからである。


「え、あ……?」


 無造作に動いた人型の手が、僕の首にからみついた。

 節くれだった白い指は、木の根のように硬く体温がなかった。

 からんだ指が首を絞めあげ、肌をこすりながら、うなじや耳の裏に伸びていく感触があった。

 実際、人型の指は植物のツタのように伸びていたのだろう。

 もがこうとした腕は胴体とともに締めつけられ、すでに指先しか動かせない状態になっていた。


 ――まずい。声が出ない。詠唱が……。


 しぼられた喉から嗚咽がもれたとき、ふいに全身が宙に浮いた。

 持ちあげられた体が、人型の方へ引き寄せられていた。

 やがて、空中でもがくだけの僕の目線が、人型の頭部とちょうど同じ高さになったとき、茂みをかきわけるような静かな音がし、花の頭が左右に割れた。


 ――。


 そこには、恐らく口があった。

 うごめく粘膜がすり鉢状に広がり、のこぎりのような歯が円形に何層にも並んでいた。

 またよく見れば粘膜には所々裂け目があり、透明な液体を噴きだす箇所もあれば、裂け目が広がり、眼球をのぞかせる箇所もあった。


 僕は悲鳴をあげなかった。

 首を絞められていたこともある。

 ただそれとはべつに、ある種の静けさが、全身からあらゆる力を奪い去っているような感覚があった。

 その感覚が気のせいではないと思ったのは、裂け目からのぞいた複数の瞳が、あきらかな知性を持って僕の顔を見つめたときだった。


 ――そうか。この鎮静作用も、こいつの魔術か。


 ある意味で、それは救いに近かった。

 泣き叫びながら食い殺されるより、よほど楽な死に方でもある。

 意識を向けると、いつのまにか全身をしめつける圧迫感や、喉の痛みも消えていることに気づいた。

 匂いのない泥とともに湖の底に沈んでいくような、静かで冷たい気配だけがあった。

 目を閉じて、僕は自分の死を覚悟した。


「……でも、こんなときまで僕は役立たずのままなのか。

 情けない。

 今もまだ、シンシャたちは地上で戦っているのに、僕だけが……。

 ……ん? あれ。声、いや、死んでな……あれ?」


 恐る恐る目をあけると、先ほどと同じ景色があった。

 グロテスクな口の中から、複数の瞳がじっと僕を見つめていた。


「ひいっ!」

「貴公。つつ闇の内に、詩歌を見たか」


 声が聞こえた。


「え」

「詩歌を見たか」


 木々のざわめきのような音に重なり、たしかに声が聞こえていた。

 人型が発している言葉と思えた。

 しかもそれは、明確に女性らしい声の響きをともなっていた。


「詩歌っていうと……偉大なる死がうんぬん、って詩のことでしょうか」

「どこまで見た」

「たぶん、さっきのは、二行か三行ぐらいだったかと」


 わずかな沈黙があり、葉ずれの音が響くと、人型の頭が元にもどった。

 全身にからんでいた指がほどけ、僕は丁寧に地面におろされた。

 それから見おろすようにして、人型は僕の方へ頭をもたげた。


「貴公の魂は、低き丘とともにある。去れ」


 人型の右手が壁に触れた。

 六本ある指の右端の二本が伸び、壁にさしこまれ、鍵のようにひねられた。

 すると、ブロックの一つひとつが回転し、左右に分かれて道を作った。


 道の先には液体のような深い闇が広がっていた。

 呆然としてながめていると、早く行け、と言わんばかりに花の頭がこちらに向かって下がってきた。

 あわててたずねた。


「え、ええと、これはどこにつながってるんでしょうか」

「地上に」


「でも、あの。オールソウルズ教会って場所に行きたいんです。

 それで急いでて、でも今は本当に時間もなくて……」


 沈黙があった。顔がないので表情などは分かりようもないが、無言の中に、こちらをにらんでいるような重圧が感じられた。

 え、逃がしてやるのにこいつ逃亡先まで指定するの?

 そういう類いの重圧である。


 だが、僕も黙って待った。

 空間転移をするにしても、見当外れの場所に飛ばされてはたまったものではない。

 多少の図々しさも今は必要なときだった。


「……よろしい。ただし対価は頂こう」


 ややあって、そんな返事が聞こえた。

 対価は何を。

 たずねる前に、人型の指が僕の手から手袋を二つ取りあげた。

 触手のように伸びた指が素早く動き、血で汚れた手袋を水路につっこんだ。

 激しい水音が響き、水からあげられた手袋は薄闇の中を水滴を飛ばしながら振り回され、その後、しゃっと人型のワンピースの下にしまわれた。

 まさか、今のは洗濯だろうか。


「あの、それじゃ血は落ちないんじゃ……」

「去れ」

「……」


 ふたたび閉じていく壁と、こちらを見送る花頭をながめて僕は思った。

 なぜ僕は助かったのか。

 あの人型は何者なのか。

 ディビジョンで見た詩はいったい何を意味しているのか。


 どの問いも、理解からは未だ遠い位置に存在している。

 しかし一つだけ、僕にも分かることがあった。


 とりあえず白い毛皮のアイテムならば、あの人型は血で汚れても大事にするのだろう。

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