22. 一般的な地下水路には巨大な肉食獣が生息しておりますね

 暗闇の中を、ゆっくりと落ちる箱が動きを止めた。

 チン。ささやかなベルが鳴り、僕は蛇腹式の引き戸をあけエレベーターの外に出た。


 ホテル・エルドラードの地下室は、相変わらず灯り一つない不可解な場所だった。

 そもそも地下室と呼んでいいのかすらはっきりとしない。

 遠くを見ようとしても、エレベーターの照明が濃い闇に光を落とすだけで、壁も天井もどこにあるのか分からない。

 分かるのは、音の反響具合からとてつもなく広いらしいということ。

 自分の背後には筐体きょうたいだけのエレベーターがあるということ。

 だからこそ自分は上からやってきたのだと思い出したように認識できること。

 そういう奇妙な空間がこの地下だった。


「これ、上の人がエレベーターを呼んだらどうなるんだ」


 僕はつぶやいた。

 当然、エレベーターは上に行くだろう。

 必然、僕は一人この暗闇に取り残されることになるだろう。

 その状況はつまり、死と同義に思われた。

 それはデッドシティでも決して生き返ることはない、魂が闇に呑まれるような茫漠とした臨終である。


「……は、早く火をつけようかな。葉巻、葉巻」


 理屈は分からないが、この地下で葉巻を吸うとべつの場所に移動できるらしい。

 僕は自分で作ったよけいな想像を追い払うため、急いで葉巻を取りだした。

 すると流れるように手がすべった。


「ああっ」


 間抜けである。落ちた葉巻を拾おうとして、挙動不審の僕はかがんだ。

 そのとき、耳元で誰かがささやいた。


「一つ、お伝えしたいことがござ――」

「わああああああ!」


 拾おうとした葉巻を全力で蹴飛ばし、僕は振り返りながら尻餅をついた。声がした。


「……これは、大変失礼を申し上げました。まさかそこまで驚かれるとは」

「バ、バルブロ、さん?」


 いつのまにか背後に立っていたバルブロが、困ったように笑みを浮かべていた。

 彼の手にはランタンがあった。

 だが、地下室の奥から歩いてきたという風ではない。

 ロビーからこの場所に降りてくるエレベーターは一基だけだが、まさか縦穴を飛び降りてきたわけでもないだろう。

 僕は、同じ姿勢のままで言った。


「どこから……いや、そもそもなんでここに」

「そのご質問には、順にご回答を差し上げたく存じます」


 バルブロは小さなランタンを床に置いた。


「まず、私が推参申し上げた経路は、アデル様の右斜め後方60°の虚空でございます。

 では、そもそもなぜ、というご質問に関しては、私の不手際が事の因となっております。

 申し訳ございません」


 バルブロが膝をつき、手を差しだした。

 その手に引かれながら僕は立ちあがった。


「ええと」


 背後の虚空から現れた……?

 気になる言い方だったが、今聞くべきはそこではないように思えた。

 それに時間がある状況でもない。


「ということは、何か急ぎの連絡があるんでしょうか」

「さようでございます」


 とバルブロはうなずいた。


「アデル様はシュナイダーシュツルムの包囲をかいくぐるため、これより地下水路を移動なさるご予定でございますね」

「ええ。そうですね」

「ですが、一般的な地下水路には巨大な肉食獣が生息しておりますね」

「そうでしょうか」

「それだけなら、さして問題はないとは存じますが」

「そうでしょうか!?」

「その肉食獣には、じつは潔癖なところがございまして」


 バルブロは、声をあげた僕をとどめるように微笑し、顔の前で人さし指を立てた。


「手軽なアイテム一つで、その獣とは敵対せずに、水路を進むことが可能になるのでございます。

 本来ならば差し出がましい真似をと自重すべきところですが、僭越ながら、この街に来て間もないアデル様の一助となるべく、いささか道理を曲げまして、このバルブロ、このたび参上申し上げた次第でございます。

 ともあれ、子細は省いた方がよろしいでしょう。

 お急ぎのご様子なので、先に水路への移動を済ませておきたく存じます」


 バルブロが、顔の前で手のひらを返した。

 すると、その指先に葉巻がつままれていた。

 薔薇を一輪さしだすような優雅な手つきだった。

 呆気にとられていると、彼の指先で葉巻が燃えあがり、噴きだした煙が渦を巻いて僕たちを囲んだ。


 昨晩の、カールに会ったときとはまったく違う。

 激しい風と音が一瞬で勢いを増し、穀物の香りが鼻先をかすめたと感じたとき、破裂するように周囲の渦が霧散した。


 視界が完全に暗くなり、闇の中で、僕は目をしばたたいた。

 しばらくして、カチン、カチン、と軽い音が頭上からした。


 顔をあげると、石造りの天井から下がる古びた照明が、周囲を青白く照らしだした。

 幅4メートルほどの水路を、両わきに延びる細い通路が挟んでいる。

 百年前から時間が止まったまま、こけの一つすら動いていない。

 そんな奇妙な静謐のあるトンネルに、僕とバルブロは立っていた。


「これが、デッドシティの地下水路……」


 つぶやいた声が反響し、石に吸い込まれるように消えていった。

 たしか、この水路は下水道のはずだった。

 しかし臭気はなく、流れる水は完全に透き通ったものに見えた。

 妙と言えば、のぞきこんだ水路の底が、ところどころ光っているのも気になった。

 壁面と同じ材質であるはずの石が、そこだけべつの鉱石に変質したように七色に淡く輝いている。


「正確には、旧地下水路でございますが」


 とバルブロは言った。


「そのような些事さじは、街では誰も気にしておりません。水路には近寄るべきではない、というのが一般的な認識のすべてですから」

「それは、例の肉食獣……まあネズミか何かが、この水路にいるからですか?」

「さようでございますね。ところで、ちょっと失礼をば致します」


 そう言って、バルブロはいつのまにか手にしていた霧吹きで、僕の顔を吹きつけた。


「え、ちょ、なんですかこれ」

「体臭を消す水のようなものと、お考えください。お体に障りはございません。舐めると甘い味がしますよ」

「へえ、そうなんですか」


 全身をシューとやられながら、僕は試しに唇を舐めてみた。

 口の中に、えずくほどの苦みが広がった。


「ごお、がっ……。これ、苦いんですが!」

「ええ、私もそう思います」


 バルブロはうなずき、にっこりと笑った。

 僕は沈黙した。

 今のやりとりで、種類は違えど彼とロスペインの共通点が、おぼろげながらつかめた気がした。

 ようするに人をからかう性癖である。

 ただしバルブロの場合は、誠実さの方が勝っているようにも思えた。

 ロスペインなら、僕が舐めたのは毒だったろう。


「お待たせ致しました。これで、アデル様が水路で突然襲われることはないかと存じます」


 僕は、口の中の苦みをできるだけ飲み下すようにしながら、もちゃもちゃと答えた。


「ありがとうございます」

「良薬は口に苦しとも申し上げます。あとは、こちらもお持ちになってください」


 飲み薬じゃない薬を苦いと感じる必要はあったのだろうか。

 疑問だったが、皮肉を言ったところでバルブロの笑顔は崩れそうにない。

 僕は手渡された品を見つめた。そのままたずねた。


「毛皮の手袋?」

「はい。ぜひそちらをお召しになってから、水路を進まれることをおすすめ致します」


 真っ白な毛皮の表面には、一定間隔で、小さな黒い紋様が入っていた。

 どこかで見たような気がした。

 覚えていないということは魔術関係のものではない。

 先ほどの匂い消しと同じく、この手袋自体に何か意味があるのだろうか。

 考えていると、察したようにバルブロが言った。


「あらかじめ、子細をご説明できない不便をお許しください。

 水路については、語らぬことが不文律にもなっているのです。

 ですから、私がこれまで口にしたことも、あくまで一般的な地下水路のお話であって、こちらの地下水路のお話ではないことをご了承ください」


「なるほど」


 僕はうなずいた。


「いえ、十分すぎるほどです。

 なんだか僕も、地下水路と肉食獣の組み合わせが、一般的であるような気がしてきました」


「それは、けっこうなことでございますね」


 彼もうなずいた。その笑みに、僕は今親しみを感じている。

 勇気づけられる思いで背を向けた。


「それじゃ、いってきます」

「ご武運をお祈り致します」


 僕はあらかじめ当たりをつけていた方角へ歩きだした。

 10メートルほど進んだとき、わずかな風と、シュッという音を感じた。

 振り返ると、バルブロの姿はすでに消えていた。

 苦笑がもれた。

 帰るときまで匂いをしっかり消していく。

 あれほど律儀な男もそうはいない。

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