第四十話 田管の縁談

 武陽は陥落し、李建と二世皇帝は、もうこの世にない。諸国を滅ぼし統一を成し遂げた普の帝国は、ここに崩壊したのであった。一つの時代が、終わりを告げたのである。

 しかしこの時、南部戦線における戦闘は、まだ続いていた。普将黄歓と反乱軍の英非将軍は、藍江らんこうと呼ばれる大河川を挟む形で睨み合っている。

 数においては、英非率いる反乱軍の方が圧倒的に多い。だが、英非自身の将才の乏しさと黄歓の守りの上手さ、それに加えて南方の湿潤な気候と病気の蔓延によって、反乱軍は大軍の強みを活かせぬまま足踏みをしていた。

 張石は、涼しくなってきた時期を見計らって、北と西からそれぞれ十万ずつの軍を南部戦線へ送り込んだ。決着はすぐについた。英非軍を睨んでいた黄歓は、後方を脅かされたことで怖気づき、戦わずして張石へ降伏したのである。

 最後は、かつての王敖将軍が北辺に残してきた部隊である。彼らは北方の騎馬民たちを防ぐために築いた長城を守備していたが、張石軍と戦う意志を持っていなかった。彼らもまた、干戈を交えることなく、張石軍に降った。

 こうして、普の残存勢力は、天下より一掃されてしまったのであった。


「縁談?」

 田管は、いささか素っ頓狂な声を出してしまった。

「そうだ」

 成梁の、元は郡守が使っていた屋敷で田管と対面していたのは、張石であった。

「思えば我々の戦いには、一度たりとも楽なものはなかった。田管、其方そなたの力は我が軍には欠かせぬものであった。そこで、だ。私の娘に張香という者がいる。すでに存じているであろう」

 張香、という名を聞いて、田管は右の目元に黒子ほくろのある、豊かな胸の美人の姿を思い出した。彼女は薬師であり、魏遼の矢が頬をかすめた時に薬を塗ってくれたのが思い起こされる。

「年の頃十九で、まだ嫁には行っていない。是非ともあやつを妻として迎えてはくれぬか」

「は、はぁ……」

 歯切れの悪い、気の抜けた返事しか、田管はできないでいた。婚姻と言われても、どうも実感が湧かない。今まで弓を引き、馬の背の上で過ごしてきたと言っても過言ではない自分が、妻と共に歩んでいくというのは想像が難しかった。

「もしやそれとも、すでに婚姻を決めた相手でも? それなら無理強いすることもないのだが……」

「いえ、そういうわけではないのですが……」

 田管は、目線を下に落とした。

「なら、娘が気に入らぬということか? あやつが粗相をしたというのであれば厳しく言って聞かせておこう」

「いえ、滅相もございません。戦で傷を負わされた際には大いにお世話になりました。気に入らないどころか、寧ろ私には過ぎた相手なのではと」

「はは、あまり謙遜するなよ田管。戦場でのことだけではない。張舜のことでも、私は其方に感謝している」

 張石は、心の底から笑っているような、陽気な笑みを浮かべている。それとは対照的に、田管の方は何処か、ばつが悪そうな表情をしていた。

「少し……考えさせてはいただけませんか」

「おお。まあすぐに答えるのも難しかろう」

 そうして、縁談は一度、棚上げとなった。


「田管さま」

 その日の黄昏時のことである。仮の住まいである成梁の屋敷に戻る途中で、後ろから呼び止められた。聞き覚えのある、甲高い少年の声である。

「張舜さま、いかがなされましたか」

「いいや、別に、何も。ちょっと二人きりで話したい気分だから、よかったら付き合ってほしいな」

 言いながら、張舜は小首をかしげつつ両手を合わせて、頼み事をするような仕草をした。その様子は如何にも子どもじみているが、同時に可愛らしくもある。

 そういえば、田管が張舜と初めて出会ったのも、ここ成梁であった。時勢が巡って、再びこの場所に戻って来たかと思うと、田管は感慨深いものを感じていた。

 成梁を占領した後、張石はかつての魯王宋商のように配下に戦いを任せることなく、自ら前線に赴き、武陽の攻略までやり遂げたのである。それがために、国都として定めようと思っていた成梁にじっくり腰を落ち着けることはなかった。それは、父に付き従って策を献じていた張舜とて同じことである。

「ええ、それなら構いません」

「じゃあ決まりだね」

 田管は、張舜に連れられて、再び張石の屋敷へと入った。張舜はそのまま田管の手を引き、張舜の使っている部屋へと通された。

「ねぇ、一つ聞いていい?」

「はい……何でしょうか」

「僕の姉さんと婚姻するの?」

 張舜は、田管の瞳を覗き込むように、じっと見つめてくる。それに耐えかねて、田管は視線を下に落とした。

「その件に関しては、考える時間をいただきました。まだ決めかねているのです」

「そうか……」

 それを端緒に、二人の間には、暫し静寂が保たれた。向かい合ったまま、互いに一言も発しない。

「田管さま」

 その静寂を破ったのは、張舜であった。

「いつか、僕が君を好きだと言ったのを覚えてる?」

「ええ、確か籐に入城した頃のことでしたね」

 その言葉を、田管は覚えていた。確か、公孫業を捕虜にした赤陽の戦いの後でのことだ。王敖軍にどう対処すべきか、という話の流れでのことだったはずである。

「僕は田管さまのことが好きだ。だから……姉さんを娶ってほしくはない」

 田管は、それを聞いてはっとした。張舜の、その言葉自体というよりは、それを言う張舜自身の様子に、である。

 張舜の目からは、涙が溢れ出していた。

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